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二度死んだ少年

 古郷小弥太こざとこやたは、生まれて初めて、空腹というものを知った。

 日本にいた時はもちろん、転生した先であるこの奇妙な街でも、今まで知らなかったことだった。


 空腹とは、痛みだ。


 単に一食抜いた、というだけなら、それはただの欲求であって、胃袋がぐるぐるとなる程度の話に過ぎない。

 でも、それが丸二日ともなれば、事態は全く違ってくる。


(なんでだよ)


 手足に力が入らない。

 息をするたびに、ひきつるような痺れがある。

 気力が湧いたと思えば、空っぽになって、身動き一つ取りたくなくなる。

 そして、腹の中が、きりきりと痛い。

 

(どうして)


 行く当てもなく、さまよい続けていた。

 あの日、小弥太は、怒れる竜を見た。

 自分を突き放した、蛇を見た。

 病室の中にいた誰もが、小弥太に冷たかった。


(なんで)

 

 裏切り者と言われた。クビだと言われた。死ねと言われた。

 分からない、なにもわからない。なにもわからなかった。

 謝ったのに、ごめんなさいと言ったのに。


「そこの君、早く受け取って、次がつかえてるんだから」


 気が付くと、受付のゴブリンが面倒くさそうに告げていた。

 カウンターの上に載せられた、ログインボーナスチケットが一枚。震える手で受け取ると、小弥太はそれをきつく抱きしめて、よろめきながら立ち去る。

 ここはPの館一階。一日一回、住民に提供されるログボを受け取れる場所だ。

 いくつもの受付窓口に、模造人モックレイスたちが並んでいる。

 

「ごはん、買わないと」


 食べることを考えるだけで、胃の痛みが強くなる。

 そのまま、館の別棟へと入る。

 そこはチケットや結晶を、食料品や道具と交換してくれる売店だ。そこでも、長い列ができていて、空腹を抱えたまま、順に並ばなければなら――。


「うわっ!?」


 突き飛ばされ、地面を転がる。手からチケットが離れて、誰かがそれを奪っていく。


「か、かえし――」


 か細い声が上がったが、チケットを奪っていったそいつは、もういない。

 周囲のヒトビトは一瞬だけ、小弥太を見たが、誰も彼もよそよそしく、そのまま自分の取り分を握り締めて、交換の窓口に向き直ってしまう。


「なんで……」


 これで二度目。いや、三日前に交換した保存食の包みを、道端で奪われた時を含めれば三度目だ。

 小弥太は叫び、周囲の『大人』たちに抗議した。


『泥棒だよ! 俺の、俺のログボ!』

『窃盗団の連中。原住模造人を手下にした、強盗やスリが横行してるんだ。ちゃんと武器を持つか、ギルドの参加証を着けておきなよ。そうすれば、狙われにくいから』


 たった、それだけだった。

 その時初めて、小弥太はこの街にいる『薄汚れた模造人』の意味を知った。

 自分が『ムーラン』の名前に守られていたことも。


「なんでだよ……」


 ため息が漏れた。

 そのまま、Pの館に据え付けてあるウォーターサーバで、出来る限り水を飲んで、きりきりと痛む胃袋を抱えて、外に出た。


「どうしよう……」


 めまいがする。お腹が空きすぎている。

 どうして、こんなことになったの。

 少し前、自分はギルドを辞めた。と言っても、いつでも戻れると、そう思っていた。

 だって、店長はいつも、俺に優しくて。


『あなたを、除名します』


「なんで、だよ」


 だってしょうがない。

 あんな強くて、怖いやつに、逆らえるわけないじゃん。

 あいつが勝手に、話した内容にチケットを払ってきただけで。


『仲間を売って食った飯はうまかったか、この裏切り者』


「あ、あいつが、あいつが、悪い奴だったから。俺は、おれは」


 何度考えても、納得がいかない。

 だが、それよりも今は、チケットでも結晶でもいいから、手に入れてご飯を食べなくてはならない。

 働いて、手に入れるしかない。


『お断りだ。他所へ当たってくれ』


 それは、P館東通りの雑貨屋。


『店番もろくにできない、釣銭は間違える。その上、ギルドを抜けて来たって? うちで雇ってたのは、乙女さんの口利きがあったからだ。そうでなかったら、とっくの昔に蹴り出してたよ』


 冷たくあしらわれる。

 それでも、次の場所へ。


『メッセンジャーは、一日中走り回る仕事だ。街中の道も知り尽くす必要がある。それを覚えるまでは見習い期間。結晶、一日一個からだ』


 そんなの、やっていられない。

 次の場所へ。


『うちの荷物は、君の倍ぐらい大きさと重さばかりだ。試しにそこの箱を持って……ああダメだ。悪いけど、うちはやめておいた方がいいな』


 背丈も力もない自分に、出来る仕事は限られている。

 次の場所へ。


 そうやって次の場所へ、次の場所へ、次の場所へ。

 断られる、追い返される、首を横に振られる。

 配られたチケットで食いつなごうにも、弱った自分はあっという間に、悪い奴の餌食になってしまう。

 もうダメだ。

 こんなの無理に決まってる。

 何とか謝って、許してもら――。


「そろそろ来る頃だと思ってたよ、裏切り者君」


 ムーランまでの道の前に、絶望が立ちふさがっていた。

 赤い竜の男が、冷たくこちらを見据えていた。


「腹が減って、文無しになって、ここまで惨めになったんだから、僕を許してくださいってか?」

「あ……あ……」

「失せろ。次、店に近づいたら、死ぬよりきつい目にあわすぞ」


 首を掴まれ、そのまま裏通りに放り出される。その顔は、店のカウンターに座ってくつろいていた時とは、全く別人だった。

 その目は、小弥太を一切、許す気が無かった。

 泣きたかったが、涙は出なかった。

 そのまま、背を向けるしかなかった。



「はい、保存食セット一つですね」


 絶食して三日目の朝。

 ようやく手に入れたそれを、小弥太は抱きかかえ、館の隅っこで食べた。よく観察すれば、こちらを盗み見る連中がいるのに気づく。

 水のボトル、干し肉と燻製卵のサンドイッチ、クッキーが三枚。

 冒険者が冒険に持ち出す、保存食。

 堅くて、しょっぱくて、うまくもなかったが、どうにかありつけた食事だった。

 残った水とクッキーはポケットに。

 これが、自分の一日の食事。


「……はぁ」


 ため息が出る。

 でも、誰もそんな自分を気にもしてくれない。なぜなら、今の自分と似たような連中はごろごろいたからだ。

 ムーランにいた頃は、こんな世界など想像もしていなかった。

 汚い連中は、自分には関係ないからと、気にも留めていなかった。

 だが、同じ立場になり、そういう連中と同じような風体になるにつれ、なんとなく互いを意識するようになっていく。


「おい、お前。そっちには行くな」


 最初に声を掛けられたのは、街の北西にある薄汚れた廃屋の群れに近づいた時だ。

 腐ったような臭いと、カビの臭いがまじりあった建物。そこに出入りする汚れた模造人たちが、気になっていた。


「そっちは『原住民』の住んでるところだ。転生者が入っても、いいことないぞ」

「な、なんで?」

「スリや強盗の巣だからだよ。それに、縄張り意識も強いし、言葉も通じないからな」


 よく見れば、通りの奥の方からこちらを覗く目がある。その気味の悪い圧から顔を逸らすと、忠告してくれた相手に向き直る。

 こちらが行く気を失うのを見て、薄汚れてがりがりに痩せた全裸のクロテンは、こちらのポケットに目を落とした。


「水、持ってんだろ。くれよ」

「じ……自分のは? Pの館でも」

「助けてもらって、礼も無しかよ」


 仕方なく、ボトルを差し出すと、クロテンはあっという間に中身を飲み干した。 


「寝場所が欲しかったら、北じゃなくて、南西のビル群にしろ。それでも、縄張り争いとか、原住の奴らとケンカになったりするから、塔の検問所回りで夜更かしすればいい」

「あ……ありがと」


 それが、小弥太にとって初めての『浮浪者』との出会いだった。

 彼らは定った宿を持たず、職業もなく、日々をPの館のチケットや、街のあちこちで提供される『施し』でしのいでいた。


『水が欲しい時は、塔ダンジョンの手洗い場だ。Pの館は、使いすぎるとすぐ出禁になるからな』


『城下町の通りに、週に三日、『お助け小屋』が出る。普段はおかゆとかばっかだけど、食い物屋の売れ残りとかも、時々食えるぞ』


『『グノーシス』もときどき、簡単な弁当を出してる。その代わり、何回か奉仕することになるから、そこだけ気を付けとけ』


『南の森の木卵取りが手軽で稼ぎにもなるけど、魔物や『水』に喰われないようにな』


 クロテンは訳知り顔で、街の底辺で生きるすべを教えてくれた。もちろん、小弥太の持っているクッキーや水が目当てでもあったが。


『夜は基本、うろちょろすんなよ。南の森から迷い込んできた蟲とか、原住民の物取りとかに出くわすからな』


 どの家も、店も、固く扉を閉ざし、明かりもない真っ暗な世界。

 唯一、照明があるのは、塔の四方にある検問所だけだ。

 宿のない連中が集まって、身を寄せ合うことを、小弥太は初めて知った。

 そして、彼らの身の上のことも。

 

『転生って言うから、チート能力でもくれるかと思ったら、あんなのだし。それに、こんな体でダンジョンなんて、行けるわけないでしょ』


 自分のギフテッドと種族に絶望する者。


『俺は悪くねえよ。あの甲山とかいうおっさんがうるせーんだって。いちいち命令ばっかしてくるし、他のギルドも似たようなもんだし。ホント、老害ばっかしかいなくて、俺の実力発揮できねえって』


 鼻息も荒く、自分がはみ出たことに愚痴る者。


「Pの館、グノーシスの教会、あと城下町のお助け小屋。この三つをぐるぐるしてりゃ、飯の心配はない。慣れると楽だぜ。プラチケは、ちょっと苦労するけどさ」


 街の善意にただ乗りして、自堕落な生活を選んだ者。

 理由は様々だが、この街から落後した者たちは、すすけて薄汚れていた。


「ムーランには、行かないの?」


 それは素朴な疑問だった。

 小弥太の質問に対する回答は、様々だった。


『なんか胡散臭い、っていうか。あそこのリーダー、ラミアでしょ。集めたメンバーから血を吸ってるとか聞いたよ。騙されたくないもん』

『ギルドに入ったらすぐプラチケ交換できるのかと思ったら、順番待ちで、更新ギリギリまで待てってさぁ。いくら登録料が安くてもなあ』

『ギルドって、いちいちルールとか、上納とか言われんの、めんどくさいだろ。それぞれ適当に付き合って、利用してやればいいんだよ』

 

 あのギルドは、そんな風に見られていたのか。

 店長がヒトの血を吸ってるところは見たことがなかったし、プラチケはどんなことをしても必ずくれていたし、言われるほどルールも厳しく――。


『いつまで寝てるんだ、チケット取りに行くぞ!』


 思い浮かぶ、口うるさいウサギの顔。

 その点に関しては、同意だったかもしれない。

 小弥太の生活が、次第に周囲の連中と同じくすすけて、汚れた服の臭いも気にならなくなったころ。

 いつもの塔前の寝床に、知り合いの一人の姿が無かった。


『南の森で、『水』に食い殺されたってさ。一緒に木卵取りに行ってたやつが言ってた』


 それは無感動な、諦めの言葉。

 女の子の、ネズミの模造人モックレイス。いつも『別天』に行けばなんとかなる、が口癖だったが、なぜか行こうとはしなかった。

 その頃から、小弥太は地面ばかり見るようになっていた。

 昼も夜も、顔を下げて。

 誰かがうっかり落とした結晶や、食べ残した食い物の欠片を、探すために。

 だが、嫌でも顔を上げる瞬間があった。


『違うんだ! 俺、ちゃんとチケット集めて……! 盗られたんだよ! ちゃんと更新する気はあったんだ! なんで、なんで盗んだ奴じゃなくて、俺が!』


 そいつは、最終更新日までに、プラチナチケットを用意できなかった。

 引率屋に支払うはずのログボを、数日前に強奪されていた。プラチケは強奪品を使えないが、ログボであれば問題はないということを、悪い奴らは良く知っていた。

 小弥太は初めて、壁外の追放者を見た。

 専用の護送車に乗せられて、連れていかれる姿から、誰もが目を逸らした。


『たすけ、られないの』

『それをすれば、そいつも同罪になる。他人を殺すな、プラチナチケットを期日までに、本人が納品しろ。それが、この街で守るべき絶対のルールだ』

 

 こちらの問いかけに、クロテンの模造人は、苦々し気に告げた。

 この街の、いろんなことに不平を言っていた灰色のネコの模造人モックレイスは、最後まで不平を言い続けた。

 その日から、小弥太はもうまともに眠れなくなった。

 悲痛な声が耳から離れない。

 明日は、自分かもしれない。

 幸か不幸か、死の指は、センザンコウの模造人、以外を指名した。


『……ごほっ……げふ、げっ……ちくしょ、なんだよ……模造人モックレイスは、びょうきにならないんじゃ、なか……げふっ』


 自分たちは確かに頑丈だ。だが、それにも限界はある。

 それぞれのギルドの援助で食いつないでも、栄養状況は最低限で、安眠を許されない路上の生活では、病気に対する抵抗力も失われていく。

 痩せ衰えたクロテンの模造人モックレイスは、三根医院に助けを求めたが、結局、助からなかった。


「……なんだよ、これ」


 たった二週間余りで、宿無したちの姿は激減した。

 この街に、そういうニンゲンがいるのは知っていた。だが、彼ら彼女らが『どこにいくのか』は、知らなかった。

 そして古郷小弥太は、それを知ってしまった。

 今や、自分の身に回りには、死が充満していた。

 なにをしても、どう動いても、自分の終わりがそこにある。

 バケモノに喰われて死ぬ。

 壁外に追放されて死ぬ。

 病気かあるいは暴力で死ぬ。

 いやだ、しにたくない、たすけて。


『テメエのケツはテメエで拭け。でなければ、死ね』


 ムーランには頼れない。

 どこかに雇ってもらうことも出来ない。

 だれか、だれか助けて。


「すまないが、少年。そこをどいてもらえないだろうか」


 ぼんやりと明るくなっていく、朝の匂いの中。

 イタチの模造人が、こちらを見下ろしていた。


「店の開店準備に入りたいんだ。わたしも忙しい身でね」


 そう言えば、昨日はぱちもん通りの裏路地に逃げ込んで、夜を明かしていたんだった。

 守衛に見つかれば追い出されるが、昨日は何とかやり過ごして。

 ゲームセンター『人参畑』の裏口の前で、寝ていたのだった。


「……だいぶひどい姿になったね。救いの手は、間に合わなかったか」

「お、おねえ、さん」


 見上げた彼女の顔には、なんとも言えない表情が浮かんでいた。

 葛藤、という言葉そのものだった。


「古来より、おねえさんというものは、少年に対する導きの聖霊ガイディングスピリッツとなるよう、定められているという」

「……え?」

「向こうではできなかった役割だ。一度ぐらいは果たしてみるのも、悪くないだろう」


 彼女は古ぼけた鍵でドアを開け、店内に招き入れてくれた。


「とはいえ、そのままでは店内が汚れる。奥のシャワールームで、体を洗ってきたまえ。服は……わたしの予備の白衣をあげよう」


 そこは狭い空間だったが、全身にこびりついた垢を落とすのには、十分だった。

 流れ落ちていく汚くて臭い液体を眺めて、小弥太は初めて、自分がとんでもなく不潔な存在になっていたということに、気が付かされた。

 結局、おねえさんに手伝ってもらいつつ、どうにか見られるように姿を整えると、貰った白衣に身を包む。

 それから、冷えたビンが差し出された。


「い、いいの?」

「この一本だけは、無料だよ」


 震える指でビー玉を押し込み、炭酸が弾ける音と共に、立ち昇ってくる甘く、刺激的な匂いを嗅ぐ。

 それから喉に流し込み、


「っげっ! げふっ、げほっ、っぐ!」

「さすがに炭酸の一気飲みはお勧めしないな。それとも、お約束通り炭酸を抜いたものを出したほうがよかったかな」


 ひどくむせたが、それでも久しぶりの甘い味は、舌に染みた。目のふちが白くなって、ほっぺたがきゅっと酸っぱくなるような刺激。全身が強烈に、お代わりを要求する。

 あっという間に中身を飲み干すと、小さくげっぷをはいていた。


「さて、少年。大まかな理由は、小倉君から聞いている。君の犯した罪もね」

「…………」

「わたしはね、少年。君のような子を何人も見てきた。ここではなくて、地球でだがね」


 イタチのおねえさんは、ため息をついた。


「子供というものは、欲望に忠実だ。そして、ゲームセンターは、みんなの射幸心をあおるようにできている。不思議なもので、家庭用ゲーム機やパソコンで遊べるようになっても、その魅力は健在でね」


 その目が、店の隅に置いてある大ぶりなガラス張りの箱に向けられた。

 クレーンのアームで景品を取る、アミューズメントマシン。


「親の財布からお金を取ってきたり、酷い時は、詐欺や薬の受け子をやって、遊ぶお金に当てたりもする子もいた。そしてみんな、酷く傷ついて、二度と店に来なくなった」

「……俺と、おなじ」

「わたしはね、少年。ゲームセンターが好きだ。そこで遊ぶのが好きだったし、店員として働くのも好きだった。それが、ヒトを狂わせる姿を見るのは、とても嫌だった。彼らを何とかしたいと思い、それでも他人だからと、手をこまねいていた」


 それから、イタチはもう一度、葛藤した。

 独り言をつぶやき、こちらを見ながら、考えをまとめていた。


「正直に言おう。この世界で、こんな姿になっても、わたしにできることは、ほんのわずかだ」

「たすけて……くれないの」

「正確には『君の親御さん代わりにはなれない』だよ。君のために部屋を整え、毎日三食を食べさせるようなことは、しない」


 できない、のではなく、しない。


「なら、なにを、してくれるの」

「そうだね。君に起こったステータス異常についての解説と、バッドエンドルートに入った理由なら、教えてあげられるよ」


 唐突に、ゲームのような物言いをした彼女に、目が吸い寄せられる。

 こちらの態度に頷いたおねえさんは、恐ろしい秘密を告げた。


「少年。君は今、深刻なステータス異常を引き起こしている。それを解消しない限り、君は遠くない未来に、終わりを迎える」

「で、でも、俺、たぶんまだ、病気もなってないし、飯も、なんとかできるし」

「『信用崩壊』。それが君に掛った、バッドステータスだ」


 彼女は席を立ち、自分のバッグから小さな包みを取り出して差し出してくる。

 それが、カロリーバーであると気付くと、小弥太はあっという間に、それを食べきってしまった。


「なるほど。貧すれば鈍ずる、だね」

「え?」

「今は分からなくていいよ。さて、君のバッドステータスだが、それが起こった理由は簡単だ。『信用度』という隠しパラメーターが、ゼロ以下になった結果だよ」


 おねえさんは、店に置いてあったコミュニケーションノート、と呼ばれるノートの一部を破いて、そこに書き込みを入れていく。


「『信用度』というのは、マジックポイントや技ポイントのように、使うと減っていく。しかも、自分がどの程度の信用度を持っているかは、確認することもできない」

「お、おれ、そんなの使った覚え、ないんだけど」

「『信用度』は、他人との関りで自動的に消費されるんだ。その行動によって大きく減少したり、逆に増えることもある」


 小弥太の姿らしい絵が描かれ、そこに信用度というステータスが振られた。


「例えば、お願いされた仕事をこなす、誰かを手助けする、ヒトにやさしくする、そういう行動で信用度は増える。逆に、嘘をついたり、裏切ったり、ヒトを攻撃することで、信用度は下がっていく」

「俺はっ、そんなつもり、なくて」

「残念だが、それは通じないよ。この世界はフレンドリーファイアありのFPSのようなものでね。君の意志に関係なく『行動で発生した結果』の方が問題なんだ」


 つまり、自分がこんな状況に陥っているのは、全部自分のせい。


「君は小倉君の情報を、敵対する人物に流した。言っておくが、それが磨平以外でも同じことだ。他人の個人情報を、勝手に売り買いしてはいけないというのは、地球でも同じだったろう?」

「う……うん」

「小倉君は君の情報によって、磨平まひらに手を砕かれ、危うくダンジョンの仕事もできなくなるところだった。そして君は、彼だけでなく、ギルドのメンバーや、乙女さんさえも、ひどい目に合わせたんだ」


 おねえさんの手が、小弥太の信用度に『-100』という数字と、『信用崩壊』というバッドステータスを書き加えた。


「さて、ここからは君が突入している『バッドエンドルート』についてだ」

「バ、バッドエンド!? って、なんで、俺!?」

「実はね、君はもう、いくつかのフラグを立ててしまっているんだよ。最悪の結末に至るイベントフラグを」


 おねえさんの手が、ノートの上に書きつくっていく。

 小弥太の辿った、愚かな選択を。


「信用崩壊というステータスは、そう簡単に付くものじゃないんだ。大抵の人間には、いい所も悪い所もあるからね。大目に見てもらえることも多い」

「そ、それじゃ、なんで」

「まず君は、普段から約束を破っていた。ギルドへの預入金を忘れ、頼まれた仕事もまともにこなさなかった」


 一つ目のフラグ『普段の行いの悪さ』、オン。

 

「大きなイベントである『食事会』。こういうイベントでは、パラメーターが変動しやすい。普段なら許されるやらかしでも、影響が強く出る。君は重要な仕事をサボり、自身の信用度を損なった」


 二つ目のフラグ『重要な仕事での失態』、オン。


「さらに君は、軽い気持ちで気に喰わない人物の情報を他人に流し、ヒトを傷つけた。その上、そこで得た利益を、自分の快楽のためだけに使った」


 三つ目『うかつなチクリ屋』、四つ目『目先の利己主義者』、フラグが立て続けにオンになる。


「このフラグのどれか一つ、もっと言えば、一つ目のフラグさえ立てていなければ、君はひどい罰を受けても、ギルドに残れたかもしれない。もしくは、最後の二つの内、どちらか一つでもやっていなければ、まだましだったかもね」


 そして五つ目のフラグ、『わが身かわいさに他人を売った者』、オン。


「かくして、君の運命はここに決定された。普段の行い、土壇場での振る舞い、あらゆる行動が、君の信用を崩壊させたわけだ」

「あ……ああ……」


 どれ一つ、反論できない。 

 全部自分が行ったことだと、ここまではっきりと、書かれてしまった。いつもなら、叫んで逃げ出していたはずだ。

 でも、今はもう、どこにも逃げる場所がない。


「お、おねえさん、おねえさん!」

「な……なんだい少年、いきなり」

「俺、俺、やりなおしたい! やり直せるんだ!」

「いや……だからね、人生というのは、セーブもロードも無くて」

「あるんだ!」


 小弥太はゲーセンのフロアを睨んだ。

 そこに、青く輝くサークルが、唐突に現れた。


「お、俺、俺、貰ったんだ! あいつに、セーブできる能力! セーブポイントを作れる『ギフテッド』を!」


 昔、やっていたゲームにあったのとそっくりの、輪の中に入る。

 きらり、と全身が発光して、何かの行為が行われたことが、感じられた。


「……ちゃんと、セーブできてるはずなんだ。だから」


 だが、おねえさんは悲しそうに、首を振った。


「ロードの方法は?」

「……っ!?」

「ないんだろう。君のセーブファイルに、アクセスする方法が」


 小弥太は、顔を歪めた。

 枯れていたはずの涙が、あふれ出していた。


「み、みえるんだ。見えてるんだよ! でも、ロードできない! どうやっても、ずっとずっと、試してるのに! なんで!」

「『セーブする能力』を願ったんだろう? ちゃんと叶ってるじゃないか」

「な……なんなんだよ、それっ! セーブだけって、バカみたいじゃないか!」


 ここに来るとき、確かに自分は願った。

 セーブできる能力が欲しい、やり直しできるようにと。

 でも、ロードを願わなかったから、ファイルにアクセスできないなんて、思ってもみなかった。


「ちなみに、その能力が発動しても、今と変わらないと思うよ」

「なんで!?」

「似たような能力を持っているヒトを、知っていたんだ。そのヒトは確かに『やり直し』ができると言っていた。おそらく本当に『やり直し』てるんだろう。わたしには、分からなかったけど」


 セーブしたファイルで状況再現する、その時と同じ状態を(・・・・・・・・・)

 つまりそれは、記憶も行動も、その時点に戻ってしまうという事。


「君が過去の『ファイル』に戻れても、ここでの会話も情報も、持ち出すことはできないんだよ。君はゲームの『プレイヤー』じゃない、ゲームの『キャラクター』なんだから」

「そんな! じゃあ、何のために、こんな能力があるんだよ!」

「あの超越者が、私たちが慌てふためく姿を見て、笑うため、かな」


 それは完璧な、終わりの証明に思えた。

 セーブしても過去には戻れず、戻ったとしても同じルートをたどるだけ。

 その先に待っているのは、死よりもひどい生だ。


「……おねえさん、俺の……バッドステータス、どうやったら消えますか」

「『信用崩壊』は、そう簡単には起こらない状態異常と言ったはずだ。ゲームにおいて、それがどういう意味か、わかるよね?」

「な……なんだよそれ! 俺、聞いてないよ! そんなことがあるなんて、最初から言ってよ!」


 おねえさんは深々と、ため息をついた。


「いいや、おそらく乙女さんは、ずっと言い続けていたはずだ。直接的ではないにしろ」

「し、しらない。そんなの、俺は」

「仕事をちゃんとしましょう、頼まれたことは最後までやってね、嘘はつかないように、遊ぶのは全部終わった後で、次からはちゃんとしてね。このどれかは、確実に聞いていたんじゃないかい?」


 覚えは、あった。

 でも、そんなことが、大事だなんて、思えなかった。


「君はね、少年。大事な『チュートリアル』を、すっ飛ばしてしまったんだよ。ムーラン・ド・ラ・ギャレットという『チュートリアルステージ』を、軽く見ていたんだ」

「い、いやだ……そんな、だって!」

「あのギルドがある時点で、あのギルドに関われた時点で、異世界転生した君の人生は、恵まれていたはずなんだ」


 それは本当のことだった。

 道端で出会った連中は、瞬く間に姿を消していた。自分は、こっちに来てすぐに、誰かに誘われてあのギルドに入った、はずだ。

 乙女さんがあまりにも優しくて、居心地が良くて、日々を適当に過ごして、自分が死んだ時のことも、忘れて。


「みんな、死んじゃったんだと、思う」

「……それは、誰さんのことだい?」

「クラスのみんな。移動中のバスが、事故起して、崖から落ちて」


 親しい友人はいて、クラスだって特には問題なくて。でも、こっちに来たのは、自分一人だけだった。


「帰れないって分かった時は、辛かったけど、乙女さんが、大丈夫って、ずっとここにいてもいいって、みんな仲間だからって、言ってて」

「そして君は、その言葉の意味を取り違えてしまったんだね。ここでいう仲間って、クラスの友達って意味じゃ、ないんだよ」

「そんなの……」


 知らないと言えば、許されると思っていた。

 でも、それは、許されなかった。


「ここにいる模造人モックレイスは、基本的に『大人』なんだ。大人として見なされて、仕事をしたり、責任を持つことを期待される。拒否もズルもできない、それをすればどうなるか、もう分かったよね?」

「こんなの、どんなアニメにもなかった」

「そうだね。わたしもびっくりした。ここまで塩対応の異世界転生物は、そうそうないと思うよ」


 おねえさんは立ち上がり、それから壁際にある大きなレバーを入れた。

 途端に、何かが蠢く振動が起こって、薄暗かったゲーセンのあちこちで、モニターが輝き、目を覚ましていく。

 どこかの筐体から特徴のある曲が流れ、小さな爆発音や合成音声が、産声を上げた。


「さて、君に割いてあげられる時間も、ここまでだ」

「え?」

「言ったろう。わたしはあくまで『君の現在の状況(ステータス)』を、教えてあげるだけだって」

「で、でも、俺、俺の信用は、どうしたら!?」


 おねえさんは、にこりともせずに、裏口を指さした。


「信用度は、失われやすく、取り戻しにくい。取り戻したかったら、仕事を真面目にするとか、集団に奉仕するほかはないよ。何年も掛けてね」

「そ……そんなの、どう、すれば」

「まずは、Pの館の掲示板に行くことをお勧めする。そこで、館からのクエストを探して受けたまえ。あれは信用度に一切関わりのない、最後の救済措置だ」


 彼女の背中に、見慣れたドローンが浮かび上がる。

 それは彼女のマスコットであり、このゲーセンを守る警備ロボットでもあった。

 つまり、これ以上は、侵入者として排除する用意があるという意思表示。


「おねえさんのゲーセンで、君の助けになれるイベントは、ここまでだ。以後はちゃんとチケットを払って、お客さんになってもらう以外、対応する気はないよ」

「な……なんで!」

「言ったろう。この街の関係は『大人同士』しかないって。わたしも、日々働かなければ生きていけない弱者なんだ。無償の善意を、君に払えるほど強くはない」


 その言葉で、一層、ムーランでの生活が思い出された。

 最後の最後で、そこからも切り捨てられてしまった、自分の愚かさを。


「おそらくここが、君にとっての『落下阻止限界点ポイントオブノーリターン』だろう。這い上がるか、惨めに土に還るか。選ぶのは君だよ」

「おねえさん……」

「いきたまえ、少年」


 照り返すゲーセンの輝きに包まれて、店の主であるおねえさんは、厳かに告げた。


「本当の意味での、君の人生の始まりだ」



 Pの館前には、巨大な掲示板エリアがある。

 そこには各ギルドや個人、あるいはPの館から出されるクエストが貼りだされる。

 今まで、そんなものを気にしたことはなかった。ムーランで頼まれた仕事を適当にこなすか、どこかの店で番をするとか、その程度の話だったから。


「うわ……こんなにヒトが」


 Pの館のクエストは、たくさんの連中が群がっていた。内容は様々だが、軽作業や納品が中心で、場合によっては館内の清掃作業なども入っていた。


「はい、こちらの作業はすべて募集終了です!」

「館内作業全滅。資材の搬入も無し、保存食の製造もダメかぁ」

「朝一じゃないと無理だって。飲み過ぎなんだよ、お前」


 自分の手前にいたトカゲと何かの鳥の模造人モックレイスが、苦笑いしつつ、ぼやいている。

 考えてみれば、Pの館で売っている品物は当然、よそから持ってくるもののはずで、その製造や運搬も業務に入っている。

 模造人モックレイスの生活を支援する、というPの館の宣言は嘘でもポーズでもなかったのだ。

 死なない程度の食事と、生活を維持できるだけの収入の先が、整えられていた。


「下水道掃除があんじゃん。オレそっちに回ろっと」

「あんなくっせえのよくやれんな。毛皮が臭って、三日はとれねえぞ?」

「その代わり、一日でログボ二枚だろ。狙わない手はないって」

「同じ臭いんでも、浄水場の果樹園の方がいいんだけどなあ、すぐに埋まっちまうし」


 そんな会話をする二人組は、募集の張り紙の下に入っている小さな募集用紙を手にしてPの館へと入っていく。

 今まで自分で仕事を探すなんて頭はなかったから、そういう行為の一つ一つが、かえって珍しかった。


「深夜の見回り、塔の検問所の夜勤、結晶採掘……か」


 残っている仕事は非常に安いか、作業時間が昼夜逆転、そして肉体労働のみだ。

 結晶採掘の方は色々嫌な話を聞いていたが、それでも『軽作業』の項目があることに気が付いた。

 作業は出来高、うまくすれば一日に一枚以上、ログボを稼げる。

 小弥太は、結晶掘りの作業の軽作業に応募するため、小さな応募用紙を手に取り、仕事の受付窓口へと向かった。



 北の結晶鉱山は、晶獄崩落が長年にわたって降り積もってできた残骸だ。

 真正面から見れば正気を失うと言われ、この街における必須の燃料であるにもかかわらず、すべてを採掘しきろうとするニンゲンは、一人もいなかった。


「軽作業のヒト? じゃあ、こっちに名前書いて。ペアになる採掘者のヒトと引き合わせるからね」

「は、はい」


 結晶掘りは、大きめの結晶を砕いて解体する係と、手ごろな大きさになった結晶をさらに砕いて、手の平サイズ(といっても、小型の模造人モックレイス基準)の大きさに砕いて収集する係に分かれていた。

 そして、小弥太が組むことになった相手は、


「君が今日のパートナーか、よろしく頼むよ」


 天を突くような、巨大な体のオーガだった。

 身に着けた服も粗末で、いかにも肉体労働に適した姿だったが、その顔には見覚えがあった。


「佐川……彩羅」

「ああ。その通りだ。どうする、俺とは組めないか? それなら今から、別のヒトに変わってもいいが」


 彼はそう言ったが、すでに作業者と収集者は仕事に入ってしまっている。おそらく、自分は貧乏くじを引いた側なのだろう。

 ローンレンジャーが解体され、このヒトも、落ちぶれてしまったのだ。


「だいじょうぶ、です」

「よし。じゃあ俺たちも仕事だ。こっちも気を付けるが、破片には注意してくれ」


 専用の機械で切り出され、採石場と呼ばれる場所に置かれた巨大な結晶に、佐川は手にしたつるはしを叩きつけた。

 さすがに筋力と頑丈さに定評があるオーガは、本人の背丈の倍以上もある結晶を砕きながら、こちらに小ぶりの石を手渡してくれる。

 こっちは、それに対して、結晶の色や形に適した方向から、ノミを入れて細かく割っていく。


「古郷君、その石は少し大きいな、俺が割った後のを砕いてくれ」

「は、はい」


 言葉は少なかったが、彼はときどき、そうやって必要な手を貸してくれる。


「その石は色が濃いな。別分けにして提出しよう。うっかり壊すと『暴発』する」

「あ、は、はいっ!」

「単一の色が濃い場合は特に気を付けてくれ。衝撃を与えた時に様々な性質を発揮して、急激に爆発するんだ。炎や雷、氷なんかをね」


 今まで結晶掘りなどやったこともなかったが、こうしてみると新しい発見がある。

 やがて昼飯時になり、二人は指定された休憩所に落ち着くことになった。


「少しペースが速かったか?」

「だ、大丈夫……です」

「食事休憩が終わったら、後は袋詰めにして三時には上がろう」

「あ、あの……」


 まずい携帯食を食べながら、問いかける。


「どうして、ここに?」

「資金稼ぎと社会奉仕、といった感じだな」

「社会奉仕?」

「『ローンレンジャー』は、俺のギルドだった。その構成員がひどい事件を起こして、迷惑をかけた。その罪滅ぼしには足りないが、ここで結晶を掘ることにしたんだ」


 結晶山は、そのまま放置すると街中に良くない影響を及ぼすと言われている。小弥太は見たことなかったが、透明な怪物や、精神に異常をきたした浮浪者を生み出すらしい。

 とはいえ、結晶は固く重く、壊す時に暴発も起こるから、やりたがるニンゲンはあまりいないと聞いていた。


「信用度を、回復させるためですか?」

「信用度、って?」


 おねえさんに聞いた話を伝えると、オーガは笑って頷き、遠くを見る目をした。


「そういう考えもあるか。とはいえ、ニンゲンの心は、数字で割り切れるようなものでもないからね。本当に信頼してほしいヒトから、軽蔑されてしまえば、たとえ他人の信頼が百あっても、辛いものだよ」

「……うん」

「すまない。言いたくないなら、言わなくてもいいんだが、君は、尾上さんのところにいなかったか?」


 小弥太は少しためらい、頷いた。


「もしかして、磨平のせいか?」

「……俺が、悪かったんだと、思います」

「そうか。じゃあ、作業に戻ろうか」


 それから言葉も交わさず、大きな袋いっぱいに結晶を詰め込むと、Pの館へと向かう。

 同じように成果を抱えた連中と一緒に、受付の窓口に入ると、交換にチケットの束が払い出されてきた。


「今日はかなり調子が良かったな。そら、君の取り分だ」


 数えてみると、ログボが十枚ほどもある。自分たちが持ち帰った結晶はかなりの量だったが、彼はきっちり、成果を等分していた。


「どうした?」

「いい、んですか」

「同情とか気遣いじゃない。君が一人の大人として、俺の仕事を手伝ってくれたからだ」


 めまいのするような、幸運だった。

 全く何も期待していなかったのに、こんなとんでもない成果が。


「あ……っ!」


 その時、部屋の隅から嫌な視線を感じた。館のあちこちから感じる、窃盗団の『目』。

 自分はもう何度も、連中に巻き上げられているから、折角のこれも。


「い、いいです! 俺、やっぱりいらない!」

「遠慮することはないんだぞ?」

「だ、だめ。持ってても、どうせ、取られちゃう」 


 小弥太の告白を聞いて、目の前のオーガは眉間にしわを寄せ、荒々しく息を吐いた。

 そして、こちらの体を抱き寄せる。


「俺と、一緒に来るといい」

「ど、どこに?」

「俺の家だ」



 彼の『家』は、驚くことにムーランの裏手にある、雑居ビルの一つだった。

 ギルドメンバーに顔を見せたくないという小弥太の言葉を受け入れて、佐川はわざわざ裏通りから、ビルに入っていた。


「おかえりなさ、こ、古郷!?」

「え、氷橋すがはし、おまえ、なんで?」

「ああ。君たち、知り合いだったか」


 互いに不審な目を向け合う二人の間に、佐川の大きな手が割って入る。


「古郷君は行く場所がないそうでな。質の悪いごろつきに目を付けられている。住む場所が決まるまで、ここに住んでもらうことになりそうだが、構わないか?」

「……別に。ここは、佐川さんの家だし」

「たぶん、夕飯も足りなくなりそうだから、外で買ってきた。みんなで食おう」


 その日の晩は、外から買ってきた総菜と、氷橋が作ったらしいスープが夕飯だった。


「いただきます」


 大きな体に似合わず、大変に行儀のいい仕草。

 つられて小弥太も、氷橋も手を合わせる。

 こんなことをして食べるのは、いつぶりだろうか。ムーランはもちろん、日本に住んでいた時も、やっていなかった気がした。


「……おいしい」

「あんたに作ったんじゃないから。大体なんで、あんたが外にいるのよ」

「うるさいな。お前だって、サキュバスのねーちゃんのとこに行ったんじゃないのか」

「うっさい! そんなことどうでもいいでしょ!」

「二人とも、食事は楽しくだ。ケンカは、止めなさい」


 穏やかだが重みのある声。さすがの氷橋も、オーガの威圧感には黙るしかないらしい。


「それにしても、氷橋君は料理がうまいな。上にいた頃は、炊事がヘタクソな連中ばかりでな。店売りの総菜か、ごった煮の鍋ばかりだった。こういうのは、本当にありがたい」

「……ムーランの厨房で、やってただけで。すごくはない、と思います」

「俺、食ったことねーんだけど」

「あんたは文城の弁当か、『藤巻商店』の半額ランチボックスばっかだったでしょ。うちの店は高いからって」


 いちいち氷橋が当たってくるのはいつものことだが、さっきからの言葉は、以前に増して棘がある気がする。

 とはいえ、本当に料理はうまくて、暖かい。

 スープをすすり、野菜と肉の煮ものを食べて、暖めたパンをかじって。

 こんな当たり前のものを、また食べられるなんて。


「う……ぐ、ぐすっ、く……ぅっ」

「ち、ちょっと! なんで泣くのよ! あ、あたし、そんなに強く言ったつもり、ないんだけど……」

「お茶の準備をしよう。氷橋君、手伝ってくれ」


 涙をこらえつつ、必死に目の前の料理を平らげ、それでも泣くのが止まらない。

 ただ、誰にも邪魔されずに、安心して食べられるということが、こんなにも胸に迫ることとは、思っても見なくて。

 それから、お茶を用意して戻った二人の前で、これまでのことを話して聞かせていた。


「……ほんと、バカじゃないの、あんた」

「氷橋君。そういうことは、言ってはいけないよ。ヒトはみんな、どうやっても愚かなんだ。少なくとも、俺も君のいう『バカ』の一人だしな」

「あ、あの、その……ごめん、なさい」


 小弥太は涙をぬぐい、そっと息をつく。

 とはいえ、こうしてヒトに話してしまうと、これまでずっと曇っていた頭の中が、霧が晴れたようにはっきりしてくる。


「ともかく、しばらくはうちに居るといい。仕事の当てがないなら、俺を手伝ってくれ。『新皇』の連中や甲山さんの若いのが来るまでは、あそこで仕事をするつもりだ」

「は、はい!」

「その後は、どうするつもり?」


 氷橋から『さっさと出て行け』という気配がするが、そこまでは構っていられない。

 それに、ここでならという、予感があった。


「佐川、さんの、手伝いを続けるんじゃ、ダメかな?」

「……俺はいずれ、ダンジョンに戻るつもりだ。それまでに、君もなにか」

「お、俺も、ダンジョン、入れるかな」


 その問いかけに、佐川はすぐには答えなかった。

 目を閉じて、それから答えた。


「しばらく俺とトレーニングをしてみよう。それと、一階の結晶ゴーレム、あれを相手に訓練する」

「う、うん。わかった」

「適性があるかは、試してみないと分からないからな。ただし」


 それまで穏やかだった佐川の顔が、焼けた鉄のような熱を込めて、引き締まった。


「やるかるからには容赦はしない。厳しく指導するので、そのつもりでな」

「う、あ、はい!」

「よし。じゃあ、今日はもう寝よう」


 そのまま氷橋は自分の部屋に入り、佐川は自分の部屋をこちらに譲ると言い出した。


「えっと、いいん、ですか」

「今は客間もないし、君も普通の寝床で寝たいだろう? 俺は慣れているから、適当に敷布一枚でもあれば……」


 そこで佐川は何かに気づいたように笑い、こちらと顔を合わせた。


「どうして君は、いいかと聞いたんだ?」

「それは、佐川さんの、ベッドだから、俺のじゃなくて」

「……続けて」

「おねえさんが、大人の付き合いは、されるだけじゃなくて、責任とか、思いやりだって……もし、ここで寝たら、今までと、同じになる、気がして」


 大きなごつい顔が、頷いた。


「それなら、今日は俺の毛布を使うといい。その代わり、寝床は居間のソファだ」

「う、うん」

「明日は君専用の部屋を作ろう。そうしたら、気兼ねなく寝られるさ」


 それから、太くてたくましい手が、小弥太の肩を軽く叩いた。


「さっきの気遣い、それが礼儀の一歩だ。覚えておくといい」

「……はい」


 そのまま、大きな毛布にくるまって、ソファの上で横になった。

 何が何だかわからないまま、それでも自分はここにいる。

 自分のものではない、今まで知ることもなかった『大人のヒト』の毛布にくるまって。


「へんなの」


 呟いて、古郷は目をつぶる。

 そして夢も見ずに、眠った。

ということで、古郷と氷橋が佐川さんの所へ転がり込んだ話で、第三エピソード終了です。

それぞれのキャラの勇気の話、いかがでしたか。

次は速ければ七月末か八月初頭にお送りできるはずです。


ということで、次の更新までしばらくお待ちください。

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[良い点] 面白かったです。 [一言] これは、幸運なのかそれとも……? どちらにしても、良かったです。 悲しい結末を『運良く』優しい人が知らないで済む……。 そんな事は期待できませんからね。 彼…
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