22、勇気の代償
天覧闘技場での一戦の後、文城は有名人になった。
元々は知る人ぞ知る、程度の知名度だったのが、磨平との戦いで一気に広まることになってしまった。
俺たちは対策を協議し、てなもんや新聞へインタビュー記事をを出したあと、ケガと疲労回復の長期療養として、関係者以外の接触を禁止した。
しかも、【驚天】の一室を療養所として貸し出してもらったので、対戦希望者や怪しげな冒険者パーティの引き抜きも、シャットアウトできた。
二か月も過ぎた頃には、文城の毛皮も体調も元通りになり、体も緩みがちになって、柑奈を興奮させたりしたっけ。
磨平周は、姿を消した。
療養先の三根医院で、何度も何度も、自傷行為を繰り返したあげく、装備も持たずに塔ダンジョンへ侵入。現在も行方は分かっていない。
右目の視力を失い、肺機能も低下、左膝蓋骨の粉砕骨折による歩行困難など、冒険者どころか、ならず者としても、先行きはないも同然だ。
とはいえ、滞留資格が二年分残っているから、Pの館の捜索も期待できなかった。
最初の頃は目撃情報などもあったが、今ではどこかの階層で死んだという説が有力だ。
俺たちの日々は少しづつ、平穏を取り戻していく。
たとえそれが、超越者の気まぐれで、電源を落とすように消えてしまう、儚いものだとしても。
「最近のふみっち、どう思う」
ムーランの店内。準備時間の掃除をしながら、柑奈は物憂げに問いかけてきた。
「五人目」
「は?」
「その質問、五人目だって言ったの。乙女さん、紡、しおりちゃん、柚木に明菜さん」
「おにいさん、文城、元気ない」
六人目が店内に入って来て、両手いっぱいのおにぎりを、カウンターに置いた。
「そんなに腹減ってたのか?」
「違う。うち、一個だけ。でも、文城、ぼーっとして、どんどん出した」
「そっか……」
俺は、鈴来から受け取ったおにぎりを、売店に陳列しつつ、思案する。
試合が終わった後、文城の雰囲気は変わった。それはむしろ、当然の変化でもあった。
危険に対しての目付を、武術として身に着けた結果、以前のような鈍重さは鳴りを潜めてしまった。人ごみを歩く時や、ちょっとした作業の動きが、まるで違う。
朝のトレーニングも、俺の方が先行されるようになり、壁登りをこなした後で、武術の塘路をするまでになっている。
コウヤとやっていた棒術の修業は、今では文城との日課になって、時々紡も混ざるようになった。
日々あいつは変化して、できることを増やしていっている。
でも、それとは別の、何かも感じていた。
「確かに、俺もそう思うよ」
「でしょー? こう、みんなで元気づけるイベントとか、考えない?」
「お絵描き! ピクニック! 楽しい!」
俺は少し考えて、二人の好意を差し戻しした。
「まずは俺が聞き取りするよ。たぶん、心の整理がついてないんだと思うから」
「……了解。でも、心配しすぎて、一緒にドツボにはまんないでよ」
「善処する」
その日の晩。
営業の終わった銭湯の湯船につかりつつ、文城に提案していた。
「明日、時間あるか?」
「……何か用事?」
「いや、最近、文城の仕事が増えすぎてると思ってさ。ちょっと見過ごせない」
実際、文城は何かに追われるように、弁当の配送先を増やしつつあった。
甲山組や山本工務店だけでなく、塔前での売り子に、いくつかの商店への卸しまで。
朝のトレーニングが終わると、各商店へ出向き、昼になるまでダンジョン前で売り子をして、昼の休憩の後は飲み屋などを回っている。
「オーバーワークだし、市場に文城の弁当が流通しすぎだ。このままじゃ、本業にも差しさわりが出る。今後は取引先を絞っていくようにしよう」
「う、うん」
「俺たちは、ダンジョンを攻略するパーティなんだ。そこを忘れないでくれ」
「分かった。それで、明日の用事って?」
俺は、隣のネコの肩を叩いた。筋肉で、少し厚みと弾力を増したそれを。
「完全オフ。練習も最低限、一日中遊ぼうぜ」
「い、いいのかな?」
「お前、俺に言ったこと忘れたのか? 『がんばりすぎないで』ってさ」
照れくさそうに頬を掻くと、ネコは小さく頷いた。
「決まりだ。つっても、どこに行くかなあ」
「『人参畑』とか?」
「いつもと同じじゃん。えー、マジでどうすっかなぁ」
「おいお前ら! いつまで入ってるんだ! 掃除があるんだから、とっとと上がれ!」
キレ散らかした柚木に追い立てられつつ、俺たちは休みの計画を話しながら、部屋へと戻った。
「ということで! 今日は『普段いかないところに行こうぜツアー』な!」
笑って頷く文城を前に、俺はちょっと、後悔していた。
この街の娯楽施設は本気で少ない。普通に考えれば、ぱちもん通りか東前通りがド定番で、後は城下町なんだが。
(し、しまったあああああ、普段行かないとこって言ったら、『別天』も候補じゃん!)
朝っぱらから吉原通いとか、コウヤじゃあるまいし。そもそも文城に、そういうのに対する免疫とか期待できるのか!?
「あ、あのね、孝人」
「えっ!? あっ、今から大川さんにお願いして、両門を」
「行きたいところ、あるんだけど、いいかな」
俺は覚悟を決めて、頷く。
そうだよ、文城の自主性を尊重して、俺はどんと構えるべきだ。幸い、文城の修業中に稼いだプラチケも持ってきてるし、豪遊とまではいかなくても。
「こんにちは、ニーナさん」
「あら、文城君、ごきげんよう」
やってきたのは、ぱちもん通りの表から少し入ったところにある店だった。
テーラー『フローレス・ニーナ』。こんな店があることさえ、俺は知らなかった。
「ずいぶんと、毛艶もよくなってきたわね。実によくってよ」
「は、はい。えっと、僕のパーティのリーダー、小倉孝人、さん、です」
「いらっしゃい。文城君から、お話は伺っていましたわ」
でかい、とにかくデカい店主が、上から語りかけてくる。
おそらく百八十センチはあるだろう、シカの模造人。
身に着けているのは薄手のワンピースに、頭にはもっさりした飾りの帽子。長くてごつい指先には大ぶりな指輪。模造人用に調整されたハイヒール。
おそらく女性、なんだろうけど、ボディラインを最大限に見せつける服装のためか、胸やらお尻の強調がすごくて、すごかった。
「遅れてしまったけど、貴方の勝利に賞賛を。素晴らしい戦いでしたわね。わたくしも、腕を奮った甲斐がありましてよ」
「でも、服がボロボロになっちゃって……ごめんなさい」
「良くってよ。あれも作戦の内、ですものね。あのクソッタレのろくでなしから、お足は頂戴していますから、お気になさらないで」
ニーナさん、とやらは鷹揚に頷く。喋り方もそうだが、彼女の服や装身具は、どれも自己主張に余念がなく、情報量で圧倒されそうだ。
「小倉さんも、戦装束のご用命は、ぜひ当店を御贔屓に。最高の御召し物をご用意させていただくわ」
「は……はあ。ところで、作戦って?」
「あら……ご存じなかったの? わたくしの口から告げても、よろしくて?」
文城は照れ臭そうに笑い、頷いた。
「敵を欺くには味方から。あのインケンろくでなしは、そう考えたのでしょう。文城君の見た目を変えず、内側の変化を悟らせないため、厳しい修行でも瘦せ衰えさせず、ふくよかな体型を維持させていたそうよ」
「ま……マジかよ。俺たちも、すっかり騙されましたからね……あのクソヤロウめ」
「とはいえ、荒々しい修行で傷ついた体を露わにしては、作戦も台無しというもの――
そ・こ・で! わたくしの出番、と言うわけですわ!」
カッ! という効果音さえつきそうな顔で、キメ顔を作るニーナさん。
ほんっとこのヒト、派手なのが好きなんやなー。
「モック・ニュータウンの天才テイラー、フローレス・ニーナによる高級仕立服、最高の戦闘服を仕上げ、文城君の七難を隠して差し上げたのです!」
「えっと、はい。ありがとう、ございました」
「ちなみに、当店は冒険者用の鎧なども扱っておりますので、よろしければご覧になってくださいましな」
実際、店内には普通 (?)の服と一緒に、美しい曲線で構成された金属鎧や、革鎧が飾られていた。俺たちが普段使っているのは、近所の防具屋の奴で、そういう二級品とは縫い目からして、全く別物だった。
「もしかして、海外渡航経験があるとか?」
「イタリアで少々、修行していましたわね。皮革の扱いはやはり、欧州のテーラーで学ぶのが一番ですもの」
うわー、めっちゃくちゃその話聞きたいんだけど、どこに厄ネタがあるか分からないから、迂闊に聞けないなー。
「ちなみにわたくし、お酒の飲みすぎで、肝硬変をこじらせておっ死んでしまいましたの。享年四十と八歳でしてよ」
「さらっと言わないでくださいよ! もしかして営業トークの定番ネタすか!?」
「おほほほほ、商売人、売れるものは何でも売れ、ですわ」
「その覚悟は見上げたものだけど、こっちではご自愛くださいね!」
それから俺たちは、ニーナさんの営業トークを聞きつつ、お茶をご馳走になった。
文城と彼女が引き合わされたのは、修行の間のわずかな期間だったが、きつい修行の彩りになっていたらしい。
「しっかし、敵を欺くって言っても、元の体型のままって、どういうこだわりだよ。あいつもデブ専なのか?」
「誰がデブ専だコラ。いい加減にしないとシメるぞ」
「あらロクデナシ、いらっしゃい」
「アンタもたいがいだな、ニーナ。俺も一応、客だぞ?」
さすがに服屋では自重したのか、コウヤは煙管をしまったまま入店してきた。
「それで、本日のご用命は?」
「近々、獄層に潜るんでな、俺の装備を受け取りに来た」
「そうなのか?」
「ようやっと、後輩どもからおしめが取れたんでね。用心棒も、お役御免ってわけだ」
驚く俺たちに、コウヤは笑みを浮かべた。
「『ムーラン』は常駐の専属パーティを得て、ようやく乙女も、組織の長らしくなってきた。いざとなれば孝人がいるし、柚木も、いずれモノにはなるだろう」
「や、やめちゃうん、ですか?」
「俺は元々『ナイトホークス』だぞ? 渡世の義理で、付き合ってやっただけだ」
「次に会うのは二十一階で、かな」
赤い竜は頷き、それから表情を悪辣に歪めた。
「俺が磨平に張った罠は三つ。試合会場、開始時期、文城の仕上げだ」
「あの時の種明かしか」
「奴の強さは、暴力にためらいがない事と、いつでも逃げを打てる場所を選ぶこと。闘技場で真面目にやる仕合なんて、持ち味は死んだも同然だな」
考えてみれば、あいつの駆け引きは常に『逃げ』を前提にしていたっけ。悪辣だと思っていたが、アレがあいつの生存戦略だったんだろう。
「三か月の間、あいつは狭い二十一階で、飼い殺しにされていた。だらしないチンピラだが、獄層攻略前には体を調整する頭ぐらいはあったよ。だが、ギルドは潰れ、嫌われ者のあいつには、スパーの相手さえない」
「下に置いておいたら、最悪ダンジョン攻略で、体を慣らすってのもあったろうからな」
「そして三つ目。あいつは出てきた文城の姿を見て、笑った。何も変わっていないように見えた文城をな」
本人の持ち味を殺し、体をなまらせ、対戦相手を弱く見せて、油断を誘う。
ほんと、心底クソ意地悪いよな、こいつってば。
「ちなみにあいつの『ギフテッド』だが、おそらくは『逃げ道を見つける』だ」
「逃げ道? ……あ、ああ。そういうことか」
「降りかかる災難や悪意を避け、いかに相手を弱らせるか、それだけに特化した目。だから、全く弱いと思った相手や、逃げ場のない状況では、役に立たねえのさ」
おそらく、コウヤの見立ては正しいだろう。
そんな『ギフテッド』を見出された磨平には、どんな過去があったんだろうな。
「でも、体型については、やりようはあったんじゃ? 詰め物してごまかすとかさあ」
「バカだな。文城の体重は百三十一キロ、対する磨平は七十キロ強、ヘビー級とライトミドルの体重差、生かさない方がもったいないだろ」
「正直、まだ信じられないよ。こんなでっかい文城が、飛んだり跳ねたりできるのが」
煙管をくわえると、コウヤは自分の成果を誇るように、悠々と語り出した。
「七十年代初頭。偉大なスターによって生み出されたアクション映画が、一大ジャンルを築き上げた。いわゆるカンフーアクションって奴だな」
その人物は知っている。
鍛え上げられた肉体と、スピード感に溢れた技、怪鳥音と呼ばれる独特の発声で、映画史に不滅の名声を刻んだ男。
「そんなカンフー映画界に、一人の異端児がスターとして登場する。そいつは均整の取れた瘦せ型ではなく、丸々と太った、肥満体の男だった」
え、なにそれ。そんなん初耳だぞ?
俺の守備範囲は、基本的に日本の古い時代劇中心だし。
「彼は、アクションとは無縁そうな体型と裏腹に、華麗に動き、俊敏にカンフーを披露した。いわば、デブという存在の、異端でもあったわけだな」
「つ、つまり、文城に、そのヒトのマネを期待したってコトか!?」
「名付けて『燃えよフミゴン大作戦』。腐ってもネコの模造人、期待通りの動きだったぜ!」
俺とニーナさんは呆れてものも言えず、文城は宇宙を背負ったような顔になっていた。
いや、文城も聞いてなかったんかい。
「ほんっと、お前って奴ぁ、マジで……」
「はっはっは。お前らが言った通り、俺はロクデナシなんだよ。だから」
穏やかに笑いながら、コウヤは俺たちを、卒業させた。
「もう二度と、俺を師匠なんて呼ぶな」
南の果てにある修行小屋は、まだそのままの姿で建っていた。
硬装竹の林を抜け、扉を開け、俺ははじめて、中に足を踏み入れた。
ここが今日のツアーの、最後の目的地だ。
「……っ!」
凄惨な光景、としか言いようがなかった。
むき出しの土の地面には、不自然な凹凸がいくつも刻まれ、内側の木の壁はへし折れた部分や、ヒビの入った箇所が無数にある。
そして、そのあちこちに、どす黒く変色した血の後が、生々しく残っていた。
「文城、お前……」
「……うん」
壁の向こうから聞いていた、修行の音。
その内側で、俺の想像の何倍もの、地獄の修業が、繰り広げられていた。
「コウヤさん、すごいんだよ。磨平の声とか、行動とか、全部そっくりで。本物より、本物で。試合形式の練習が、一番、こわかった」
「まさか、そんなのを……毎日?」
「うん。毎日、毎日、何回も、何十回も、ずっと」
あの真に迫った『コピー』を前にか。
磨平が二十一階で、無為徒食の内に過ごしていた時、文城は気の遠くなるほどの回数、対戦相手とのスパーリングをしていた。
まさに『負けに不思議の負けなし』、だったのか。
「いっぱい、殴られて、いっぱい、蹴られて、いろんなもの、吐いたよ」
「……つらかった、よな」
「孝人が、持ってきてくれた、ご飯も、最初はぜんぜん、食べられなくて。お水しか、飲めない時もあった」
あいつはこともなげに語っていたけど、文城にこの体型を維持させながら、あの動きを仕込むために、計り知れない努力があったんだな。
「太ってるのは、悪いことばかりじゃないって。断熱材で、防具で、燃料タンクで、武器にもなるって」
「考えてみれば、そうなんだよな。それが自在に使えないのが問題であって、今の文城はすごいもんな」
太った体をものともしない、身軽な動きで、戦うことができる。
もちろん、今のままじゃ重たすぎるから、少しは減らしたほうがいいだろうけど。
「昨日の我に、今日は克つべし。文城はちゃんと、昨日の自分に克ったんだよ。本当にすごいよ!」
「ねえ、孝人」
文城の顔は、歪んでいた。
笑いでも怒りでもない、もどかしさにもがいていた。
「僕ね、殺したんだ」
「……え?」
「おかあさんと、おとうさんを、殺した」
胃袋が震えて、肺が痺れたようになった。
薄暗い小屋の中で、文城の告白が、ぽつり、ぽつりと、落ちていく。
「僕ね、中学生の時から、学校に、行ってないんだ。行けなくなっちゃった。怖くて、だめになっちゃった」
本能が、その先を聞くことを拒絶する。
知りたくない、知ってしまえば文城が、別の何かに変わってしまう、気がして。
「おかあさんも、おとうさんも、だいじょうぶだよって、言ってくれた。僕は、ずっと部屋にいて、ずっと、ずっと過ごしてた。でも、毎日、すこしずつ、世界が、暗くなった」
いつのまにか、ネコは背を向けて、闇に語り掛けていた。
声から感情が抜け落ち、壊れたスピーカーのように、音声を垂れ流す。
「見たくなくなった。おかあさんが、いやになった。おとうさんが、つらくなった。ドアを閉めて、ごはんのときだけ、ごはんを、すきまから、なかにひっぱりこんで」
自分の部屋で背を丸めて、食べる文城が見える。
何もかもを拒絶して、栄養と絶望を溜め込んで、膨れていく姿が、見えた。
「ごはんが、だんだん、かわった。たべたくないって、僕が残すから、おかあさんが、ドアの前に、どさって、落とすんだ。コンビニの、お弁当を」
それは最低限のコミュニケーション。通い合うことも出来ない親子の、パッチワークの愛情。
「どさって、音がして、僕がおべんとうをとって、それが、ずっと、ずっと、続いた。僕は、寝て、起きて、コンビニのお弁当をたべて、パソコンを見て、ずっと、ずっと」
世界は単純化して、いびつな日常生活が続いていく。
だがそれは、唐突に終わる。
「気が付くと、おなかがすいてて、ドアを開けたけど、おべんとうがなかった。僕は二階から、下に降りて、誰もいない部屋を見た。なんにも、なかった」
空っぽの居間、テレビも冷蔵庫も、両親の私物も、なにもない家。
「それから、玄関に誰かが来て、おまわりさんと、しらない、親戚のひとがいて。おかあさんと、おとうさんが……死んだって」
運び込まれる遺骨。急ごしらえの仏間。読経。パジャマのまま、座らされる文城と、酷薄な顔の親戚。
「ぼくの、せいだって。おかあさんが死んだの、おとうさんが死んだの。おまえみたいなできそこないの、せいだって」
「な、なんで……」
「事故。僕のこと、支援するとこに、頼みに行く、途中で」
文城の両親は、最後の最後まで、息子のことを信じて、何かしようとしていた。
足しにもならない家財を売り払い、自らの人生を使い潰すことも厭わず。
「みんなに、聞かれた。どうするんだ、どうしたいんだって。僕は……僕は……」
そして、泣きながら、悲鳴を上げて、逃げ込んだ。
たった一つの、安息の場所へ。
「おとうさんたちが、残してくれたお金が、なくなって。さいしょに、電気が消えて、ガスが、止まって。お水が、でなくなった」
行き詰まり、助けに手を伸ばすことも、できないまま、衰えていく。
「おなかがすいて、なにもなくて。うごけなくて、そしたら……まっくらな場所にいて」
すべてを見下ろす、超越者の前に投げ出された文城に、降る問いかけ。
「生きたいか、生まれ変わりたいかって。僕は……言ったんだ」
そして、文城は告げた。
「おなかが、すいたって。ごはんが、たべたいって」
最悪の罪にまみれた、願いを。
「おかあさんの、ごはんが、たべたいって」
いつの間にか、文城は膝をついて、何もない虚空を見つめていた。
「なくなっちゃった。おかあさんの、おかあさんのごはんが。コンビニの、おべんとうになっちゃった」
息子を愛しながら、その愛にすり減ってしまった愛情の残骸こそが、文城に与えられた『おくりもの』。
「思い出せないんだ。おかあさんが、僕に、作ってくれたごはんのこと」
「文城……」
「でもね、みんなが、言ったんだ。すごいねって。僕の、おべんとうを」
ああ。
ああ。
俺たちは、何をした。
「ギルドのヒトたちも、孝人たちも、ありがとうって。ほめてくれて、だから」
俺たちは、文城になにをしたんだ。
なにを、させていたんだ。
「ねえ、孝人。僕……かったんだよね。昔の、僕に」
ネコは両手を、虚空に差し伸べた。
「ダンジョンに、いけるようになって、いろんなヒトと、ちゃんとおはなしして、怖いヒトとも、戦えるように、なって」
「ふ……み、き」
「ねえ、こうと、なんでなの……」
堪えていたすべてが、あふれ出した。
「なんで……なんで、なんで! もっとはやく、はやく! ぼくは! ぼくは、できなかったの!」
叫びが、暗い小屋に響き渡った。
「ぼくは、つよくなれるのに! つよくなれたのに! つよく、なれてたら! おかあさんも、おとうさんも、しななかったのに! どうして……なんで、なんで、なんで、なんで、おかあざんっ、おどうざんっ、なんで、なんでぇえええぇぇぇっ!」
罪の許しを請うように、あらゆる罰を願うように。
その場にうずくまり、こぶしを握って。
生まれ変わってしまった青年は、叫んでいた。
なんで、なんでと、繰り返して。
「文城」
俺は、静かに歩み寄って、その頭に手を触れた。
ゆっくりと、その毛皮を撫でる。
「文城」
「……うん」
「文城」
「うん」
それから、精いっぱいの力で顔を持ち上げて、胸に抱く。
「いっぱいあるよな、なんでって」
「……うん」
「なんで、なんでって、ずっと、俺も思ってるよ」
「うん」
「たぶん、これからも、ずっとさ。なんでって、思うよ」
堪えきれなくなって、俺はあたたかな文城の毛皮に、顔をうずめた。
「だから文城、聞かせてくれ」
「……うん」
「全部、聞くから。おまえの、なんでって、言葉を」
「ありがとう……孝人」
文城の両腕が、俺を包み込む。
泣き濡れて、冷たい頬をこすりつけて、文城は告げた。
「僕にも、聞かせて。孝人の、なんでを」
「……ありがとう、文城」
そして俺たちは、立ち上がった。
「帰ろう、みんなの所へ」
「うん」
文城が先に立ち、自ら扉を開ける。
月も星もない、夜闇に続く道へと、歩み出していく。
永遠に、克服されることのない「なんで」を、置き去りにするように。