21、弱虫な君へ
荒く息をついていた磨平は、文城の構えに対して素早く応じた。
両の拳を握り、文城と同じように前に構えて、軽いステップを刻み始める。
「あ、あいつ、ボクサーかなにかだったのかよ!?」
「さっきの蹴りといい、格闘技経験者か」
「いいや」
俺と紡の言葉に、佐川さんは静かに否定する。
それと同時に、ライオンの模造人が、呼気と共にジャブを放つ。
一撃でネコの顔が弾け、鈍い打撃音が観客席まで届いた。
「あいつはどこのジムにも、道場にも属したことはない。その代わり、見ればだいたいわかるんだそうだ」
文城は構えを下げず、磨平の正面に来るように体を正対させ続ける。
その動きを凌駕するように、ステップインから、文城の左側に磨平が躍り出て、
「あぐっ!?」
打ち下ろしの右ストレートが、肉厚の頬を打ち抜いていた。
そのまま、よろめいた文城のボディに、磨平の左アッパーが――
「うおっ!?」
それはただ、手を前につきだしただけの動き。
文城の挙動で、磨平の猛攻が途切れ、舌打ちをしながら下がっていく。
「残念。絶好のカウンターだったが、さすがにそこまで間抜けじゃねえか」
「え?」
「腐っても、うちのダンジョン攻略組です。褒めてやる気はないですがね」
どうやら、こっちの二人にはさっきのやり取りは予想済みだったらしい。というか、佐川さんも、早い段階で文城の動きに気づいてたっぽいな。
呼吸を整えた磨平が、拳を開いて文城と同じような構えを取る。
そのまま無造作に踏み込んで、勢いよく手を払い抜けた。
「トラッピングか。チンピラの癖に、小癪な真似をするよなあ」
「向こうにいた時、ボクサーくずれや格闘マニアのツレから、盗み取ったらしいですよ。技にこだわりも癖もないから、起こりが無くて怖いんですよね」
それは、俺とコウヤの『棍』の修業に似ていた。
文城の前手を払いのけつつ押し込み、動きが固まったところで関節を取りに行く。
それ嫌がって払いのけようとすれば、左手の掌底が飛ぶ。
さらに応じて文城が左手で払いのけようとすれば、両手を使って引き倒そうとする。
攻防の回転が上がる。
払いのけ、撃ち落とし、かわし、押さえつけ、それを追いかけて、掌底を突き――
「ダメだ福山君!」
突きの姿勢のまま文城が前のめりになり、磨平は手に取った文城の手に、関節を決めにかかる。
だが、
『うおおおおおおおっ!?』
文城の巨体が、空中で回転した。
磨平の技に投げられたように見えたのが、腕を軸にするようにして姿勢を返し、磨平が勢いよく跳ね飛ばされている。
素早く受け身を取ったものの、サングラスのつるが折れて、だらしなく垂れ下がった。
「な……なんだっ、あれ!?」
「小手返しのつもりだったんだろうが、技が甘すぎて、あくびが出るな」
「というか、あんな返しを教えていたんですか? この短期間で、よくやりますね」
いやいやあんたたち、感心してないで解説してよ。
磨平の多彩さも驚いたけど、それにきっちり対応してる文城に、全く理解が追い付いて行かない。
「技への理解度が低い。あれは手を極めて制圧するか、重心を崩して投げ落とすか、状況によって使い分けるもんだ。『関節を絞めて』『投げる』事しか考えてないから、あんな見せ芸にやられるんだよ」
コウヤの顔に、始めの頃の険しさは、もうない。
おまけに、買っておいたビールを、うまそうに飲み始めた。
「いやおっさん! 文城の試合だぞ、真面目に」
「もうやったよ。さんざん。真面目に。んで、真面目にやる必要がなくなったんだ」
「ど、どういうこと?」
どっちを見ていいのかわからず、闘技場とコウヤの顔を往復する柑奈。
ナッツをぼりぼり噛み砕きながら、赤い竜はうっとりと告げた。
「最初のやり取りがあったろ。レフリー殴り飛ばして、文城に蹴り入れたの」
「あ……ああ」
「あれで文城が死ななかったから、あいつの勝ち確定なんだよ」
そんな馬鹿な。
あの時ホントに、文城が蹴り殺されるかと思ったんだぞ?
「いや、あれはどうするんだ!? あいつの『ギフテッド』は」
「あー? そんなん気にするだけ無駄。こけおどしの使えねーシロモンだ。ほれ、あいつを見てみろ」
立ち上がった磨平は、間合いを計るばかりで、攻めあぐねている。
対する文城は静かに構えたまま、呼吸を沈めて様子をうかがっていた。
「な? あれが『未来の見える』奴のすることかよ」
「……コウヤさん、あんたはこうなることを見越して、仕込んでいたんですか」
「仕事ってのは、準備で九割決まる。残りの一割はただの作業ってな」
「え?」
それは俺が、仕事の時に常に考えてることだけど、こいつにそんなこと言ったっけ?
「なに縮こまってんだコラァ! ちっとは攻撃して見ろやクソデブ!」
しびれを切らした磨平が、構えを解いて、顔を突き出しつつ威嚇する。文城の顔に、嫌悪感のようなさざ波が立って、少しずつ下がっていく。
格闘家然としたやり取りではなく、街中のチンピラと脅される一般人の姿へ。
「要するに、テメエのケンポーごっこは、そこまでってことだ。こっちの動きに必死に合わせるだけ、どうせ殴るのがイヤだとか、しょーもねー考えなんだろがよ、ああ!?」
そう言えば、文城はさっきから、自分から攻撃していない。
確かに途中のカウンターや、投げを交わした動きはすごかったけど、あいつの性格じゃ磨平だって、殴りたくないって言いかねない。
「だ、大丈夫だよな!? お前、さっき勝てるって」
「言ったっけ、そんなの」
「いや、でも」
「信じてねえのか、文城を」
俺を見るコウヤは、軽蔑に近い表情をしていた。
たった一言で、俺は自分の浅はかさを思い知らされた。
そして、両手で顔を張り飛ばして、戒める。
「信じてるに決まってんだろ! 馬鹿野郎!」
「なら、見てろ」
言われなくとも、全部見届けてやる。
相変わらず磨平は、顔を突き出して吠えたてる。それが挑発であるのと同時に、文城の不用意な攻撃を引き出し、カウンターを狙う行為だと分かる。
対する文城は、
『え……』
いつの間にか、磨平に向けて自ら進み出ていた。
前につきだしていた文城の腕を、磨平が嬉々として掴み、
「お、ご……っ」
鈍く、二つの肉体がぶつかり合う音。
吹き飛び、腰から地面に叩きつけられる磨平。
その目の前に、文城の重く太い左足が、大砲のように襲い掛かり、
ごぐんっ。
鈍く、痛々しい音と共に、磨平の頭が吹き飛んで、地面に打ち付けられた。
「うぎっ、ご、ごの」
ごぎん。
立ち上がろうとしたライオンの顔に、文城の右内回し蹴りが、叩きこまれる。
ガードに回した磨平の左腕が、明らかにへし折れた。
「ふざっ、け」
どずん。
まるで大岩でも落としたような、重々しい音。
磨平のみぞおちに、腰を落とした文城の肘が深々と突き刺さり、その身体が膝から崩れ落ちた。
「踏脚、圏脚、頂肘。綺麗に決まったな」
文城は構えを取り直し、素早く磨平と距離を取る。
その技の威力と残心の見事さに、俺はただ口を開けて見とれるしかなかった。
「最初のアレは、いわゆる『靠』、体当たりって奴ですか?」
「便利だぜ。引き込まれた時のカウンターに最高なんだ。文城の体重だと、軽トラと衝突するようなもんかもな」
え、あれも技だったのかよ!?
しかも軽トラと衝突って……おっかねえ……。
「それにしても、たった三発、いや四発って……なんだあの威力」
「あんなもん、まともに武術やってる奴なら当然なんだがな。つか、磨平の技は、どれも見掛け倒しで軽いんだよ」
「そ、そんなわけ」
「ふざ、けんじゃねえっ!」
叫んで、立ち上がる磨平。
だが、その膝は完全に笑っていて、まともに立っている方がおかしいと思えた。
左腕は、二の腕辺りでへし折れたのか、だらりと垂れ下がったままだ。
「な、なんで、てめえ、みてぇな、デブ、ぐ……ご、おっ、ごえ、げぇえええっ」
突然嘔吐し、胃液に混ざって血の塊がぶちまけられる。途端に息が荒くなり、足元もおぼつかないまま、それでも文城に歩み寄っていく。
「バカな奴だ。さっきの肘で、あばらと胸骨をイワしてるってのに。今は脳内麻薬がキマってるからいいが、これ以上やったらマジで死ぬぞ」
苦し気にあえぐ磨平は、革ジャンを脱ぎ捨て、自分の鬣に編み込まれたビーズの一つをむしり取った。
それを口元に当てて、嚙み潰す。
「あいつ、まさか!」
「っぐ、はっ、はあっ、はっ、はぁっ!」
何かに気づいた佐川さんが叫ぶ。
それまで足元のおぼつかなかったライオンが、背を曲げて右手を伸ばし、襲撃の姿勢を取る。
「殺す、殺す、ぶうっ殺すっ!」
「ちょっと待て!? さっきのアレ、なんかの薬か!?」
「『加速剤』、獄層攻略の時、必ず一個は携帯するんだが……あんなものまで!」
それまでの動きを凌駕するような、強烈な急加速。
あっという間に懐へ飛び込み、かざされた爪が、衣装ごと文城の皮膚を引き裂いた。
「文城!」
浅く血が流れ、下の毛皮が露わになる。
だが、そこにあったのは、俺が知っている文城の体じゃ、なかった。
毛艶の良かった毛皮はボロボロになって、むきだしの皮膚がまだらに変色している。
同時に、筋肉を感じさせる分厚い胸板と、やはり変色し、毛の抜けてしまった腹が見え隠れしていた。
「な……あっ」
「いやぁ、ふ、文城、そんな……」
こちらの動揺などお構いなしで、磨平の爪が文城の服を切り裂き、体に刻まれた決死の修業の痕跡を、暴いていく。
「死ねっ、死ね、しねっ、しねよおおらあああああ!」
確かに、磨平の爪は文城の体を切り裂いていく。
でも、それはほんの薄皮、浅い切り傷程度だ。
磨平は全く気付いていない。興奮で目がくらみ、薬で痛みを打ち消している、狂った頭では気づけない。
目の前の男が、容赦と手加減という『枷』を外していたことに。
「し……」
「あぁあっ!」
地面を擦るように跳ね上がった右の蹴りが、磨平の左膝を踏み砕いて縫い留め、
「いやぁああっ!」
天を貫く、左の垂直蹴り上げが、磨平の顎を粉々に砕けちらし、
「うああああああああああっ!」
振りかぶった右の裏拳が、ライオンの左顔面に吸い込まれ、地面に叩きつけた。
ぐちゃり。
そうとしか形容できない、凄惨な音と一緒に、側頭部からじわりと、血が流れだす。
その光景に、一瞬顔を歪ませたが、文城はただ静かに、くずおれた磨平の体から距離を取った。
「…………」
誰も、言葉を発さなくなっていた。
目の前で起こった出来事が、どうしても信じられない、とでも言うように。
ほんの一瞬前まで、磨平は文城を圧倒していた。
反則によって先制し、嵐のように攻め立て、多彩な技で翻弄し、残酷で容赦のない攻撃を繰り出していた、はずだった。
対する文城の手数は、十に届く程度。
その一撃ごとに、あっけないほど簡単に、磨平は壊れていった。
「だから言ったろ、見る価値もないって」
「さ……さっきのあれは、文城のやられた姿にじゃなくて……」
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。磨平の敗北は、当然の結果だ」
レフリーが磨平に近づき、意識と容態の確認をする。
そのまま、大きく頭上で手を交差、それから文城に近づいた。
「勝者――福山文城!」
宣言と共に、文城の手が高々と差し上げられる。
そこでようやく、世界が音を取り戻した。
爆音、轟音、天地を揺るがす絶叫が、死んだものまで蘇らせそうな振動を生み出した。
「一ラウンドTKO。終わってみれば、あっけない勝負でしたね」
「ざっとこんなもんだ。チンピラの処刑にしては、ずいぶん贅沢な仕掛けだったがな」
「なあ……コウヤ」
俺はめまいのするような気持で、尋ねていた。
「この『不思議の勝ち』を生み出したのは、一体どんな魔法なんだ?」
「どうでもいいだろ、もう。そんなことより」
赤い指が指した先、治療班が大急ぎで駆けつけていく。
意識を失った磨平は運び出され、医師に問診を受ける文城が、困惑したように取り残されていた。
「あいつのところへ、行ってやれ」
走り出す。ヒトの群れをかわして、観客席の最前列へ。
「孝人、つかまれ!」
紡にしがみつき、狼の身体が軽々と、客席前のフェンスを飛び越えていく。
その後を柑奈としおりちゃんが、自前の飛行で闘技場に飛び降りた。
俺たちの動きに触発された観客が、フェンスによじ登り、警備のヒトたちと揉めるのを申し訳なく思いつつ、俺たちは――
「あ……!」
『ふみきいいいいいいいいいっ!』
大きなタオルで身をくるんだ体に、抱き着いていた。
「あっ、ぐううっ!? い、た、いよ、みんな」
「ご、ごめんっ! ホントゴメン! その、ゴメン!」
俺は目の前にいるネコを、改めて見上げた。
遠くからは分からなかったけど、顔の毛皮もだいぶボロボロで、ここに来る前にカットやメイクを施して、ごまかしているのが分かった。
体型こそ変わっていないものの、抱き着いた時の感触は、以前のような鈍重な柔らかさではなく、身の詰まった重さがあった。
「文城……お前、体……大丈夫か?」
「そうだね。すごく痛い。今、お薬飲んだから、少ししたら、痛みも治まるって」
話したいことが、いっぱいあった気がした。
でも、さっきまで見ていた光景に、言葉が詰まる。たった三か月で、文城は、あんな。
「あのね……孝人」
「う、うん」
「ずっと、言いたいことが、あったんだよ」
少しやつれて、目じりに疲れがあったけど、そう言って笑う顔は、間違いない優しさがあった。
「ありがとう、孝人」
「……あれはその、お前の決断を、鈍らせたくなくて」
「それもだけど。ずっと、一緒に修行してくれたでしょ」
俺の手を、そっと包んで、囁く。
「怖くて、苦しくて、辛かった。こんなこと、今すぐ、止めたいって思った。みんなの所に、帰りたいって。変わりたく、なんか、ないって」
囁きながら、文城は涙をこぼしていた。震えて、声を絞り出す。
「戦ってる……ときも、蹴られて、殴られて、怖かった。習ったことも、うまく……でき……なくて。しんじゃうかも、しれ、ないって」
ああ、そうか。
磨平の攻撃を喰らってたのは、わざとじゃなくて、本当に。
あの一瞬ごとに、文城はずっと、泣きたいのを我慢して、戦ってたのか。
「でも、孝人が、一緒にいてくれた。がんばれって、毎日、毎日、言ってくれたんだ」
「うん……うんっ……そうだよ。そう言ってやりたくて、でも」
「だいじょうぶ」
ボロボロになったハチワレネコの模造人は、壊れ物を扱うように、俺を抱き締めた。
「ずっと、きこえてたよ」
そう言うと、突然、文城から掛る圧力が増した。
「え、ちょ、ふみ……ぐへぇっ!?」
抱き締められたまま、俺の倍以上ある巨体に押しつぶされてしまう。
精も根も尽き果てた文城は、目を閉じて、寝息を立てていた。
「だ、大丈夫か、孝人!」
「ふ……ふみっちぃ! 大丈夫だよね、このまま死んじゃったりしないよねぇ!?」
やがて、移送用のストレッチャーが運ばれてきて、文城が載せられる。
俺を抱きしめたままの状態で。
「そ、そう言う訳だから、このまま文城に付き添うわ」
「いいなぁ。あたしも一緒に添い寝したいぃ」
「色々話したいことがあるけど、文城の体が治ったらにするわ。あとは頼んだぜ、孝人」
「文城君」
乙女さんは、寝息を立てる文城に顔を寄せて、そっと額に口づけをした。
「よく頑張ったわね。ゆっくり、おやすみなさい」
ストレッチャーが動き出し、みんなを残して俺たちは医務室へと運ばれていく。
喧騒が遠ざかり、静かで暗い通路を進んでいく。
眠くなるような薄明かりの中で、俺は傍らで安らぐ文城を見た。
「おかえり、文城」
そして、精一杯の勇気を奮い起こした、弱虫な友達の顔を、そっと撫でた。