0、ルーチンワーク
目覚ましのアラーム音と共に、彼は目を覚ました。
厚いクッション材とスプリングで、肉体の重さを消し切るほどの豪勢なベッドは、彼にとってはある種の拷問だった。
身の丈に合わない、本来自分は、こんなものに体を横たえる身分ではない。
だが、これもまた、己に課した課題だ。
「おはようございます、マスター『P』」
燕尾服を身に着けたゴブリンが、恭しく礼を取る。よく躾られた側近に、手を貸してもらいながら体を起こし、身支度を整える。
「夜間業務の報告を頼む」
そのまま寝室を抜けると、小さめの私室に用意された、朝食の席に座る。
外の大通りからは目立たない位置に、明り取りの窓があり、太陽のない魔界の空が、次第に白んでいくのが見えた。
「巡回していた警邏の者から、原住模造人による暴行傷害事件が、一件報告されました。直ちに主犯を拘束、事情聴取の後、処理しました」
「暴行の理由は?」
「痴情のもつれだそうです。それ以外は、南森林から小型の蟲と獣が接近、巡回していた冒険者と、共同で撃退した程度です」
食事は大変に質素だ。
木卵のスクランブルエッグにベーコン、パンにスープ、葉野菜のサラダと果物。
まるで儀式のように、館の主は朝食を摂っていく。噛みしめ、飲み込み、丁寧に栄養補給を行っていく。
「外征していた『新皇』からの連絡は?」
「先ほど、伝令役の『山鯨』が到着しました。本隊の到着予定は、二日後とのこと」
「では、先延ばしになっていた『食事会』も、近々開催するな」
「『蕾』と『機獄層』に遠征しているアタックチームも、帰還に入ったようです」
すべての皿と器が空になると、『P』は湯気の立つコーヒーカップと一緒に、書類を受け取った。
そこに並んだ事実と数字を確かめ、指示が必要な部分に命令を書き添えていく。
判断を終えた紙束を手渡すと、代わりに新聞が一部、供された。
てなもんや新聞。この街唯一の報道機関から刊行されたものだ。
「……不思議なものだな」
「なにか、ございましたか?」
「このまがい物の世界で、ここまで真に迫った日常を営める、連中の感覚がだ」
街の総括者であるゴブリンは、皮肉と好奇心を込めた、笑いを浮かべた。
「一面の大見出し、各ギルドの動向、街の日常的な出来事、商店街の広告、他愛のないゴシップ記事、人探しや仕事の依頼。挙句には、四コマ漫画やクロスワードパズル、連載小説さえ載っている」
「そこにラテ欄でもあれば、『神去』の新聞と変わらなかったでしょうね」
「環境へ適応しながら、自分たちが『人間』であった時の生活を続けること。それが連中のしたたかさ、なのだろうな」
彼は新聞を斜め読みし、一面を占有した記事に目を留める。
冒険者パーティへのインタビューコーナー。神去の新聞には、決して存在しない、こちらでは人気の記事だ。
取り上げられているのは、小さなネズミの模造人をリーダーにした、新興のパーティ。
「『パッチワーク・シーカーズ』。なるほど、いかにもな名前だ」
「塔の『爆破解体攻略』を行ったチームですね。所属は確か『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』でしたか」
「乱用されるようなら『パッチ』を当てるつもりだったが、このリーダー、なかなか機転が利くようだ」
リーダーの男は、自分たちの持ち味となるはずだった、特殊な攻略法を封印し、以後は地道な活動に専念すると発言していた。
参加メンバーの中にいる狼の模造人は、こちらの職員として扱っていたが、ごみ焼却の仕事を縮小したいと申し出ている。
「鶴巻紡を専属職員から外部協力員に切り替えろ。ただし、対処難度の高い廃棄物があった場合、こちらの招請に従うよう通告するように」
「よろしいのですか?」
「塔に挑む者は多い方がいい。希少な『ギフテッド』を持つ者を、清掃作業で使い潰すのは、惜しいからな」
それから、一人一人のメンバーに目を通す。
人の擬態を取った機械の少女に、利発な答えを返す鳥の模造人。
「美雪栞。グノーシス魔界派で、新たな俊英と目された少女だったな」
「現在は袂を分かち、このパーティの活動に絞っているとか」
「神崎柑奈。二重属性の『ギフテッド』を持つ観察対象」
「鶴巻紡、神崎柑奈、美雪栞、要観察が三名……偶然、にしては出来過ぎています」
参謀役のゴブリンの顔が、新聞にきな臭い目を向けている。
自分たちの知らない陰謀が、隠されているかもしれないと、探るように。
その前のめりな姿勢を、Pはたしなめた。
「『ハンロンの剃刀』という言葉を知っているか?」
「『無能で説明できることに悪意を見出すなかれ』でしたか。それがなにか?」
「鶴巻紡は自らの能力を持て余し、冒険者になれなかった。神崎柑奈はムーランの所属であり、戦闘継続に問題を抱えている。美雪栞もムーランの常連だった」
「当たり前の可能性を無視して、陰謀論をでっちあげるな、ということですね」
「とはいえ、だ」
Pと呼ばれるゴブリンは、座席に身を預けて天井に顔を向ける。
それから、屋根のはるか向こう、太陽も月も星も浮かばない、空の彼方を見晴るかすように、目を細めた。
「万能無益のガラクタ置き場では、何が起こるか分からないのも、一つの真理だがな」
この世界の全てを自在に扱い、その一切をガラクタと断じる超越者にとって、この世界はどんな風に見えているのだろう。
他愛もない想像を切り上げ、Pは立ち上がった。
「一応、それとなく監視はしておけ。あまり意味はないと思うが」
「……そう思われる根拠は?」
「こいつらだ」
リーダーのネズミと、その小さな背中に隠れるようにして、太った体を縮めている肥満したネコの模造人。
「物質具現系の、二線級ギフテッド所持者。この二人まで特殊系なら、俺も見る目を変えたがな」
「アニメや漫画のように、ギフテッドは成長も、進化もしませんからね」
執事が主を誘うように扉を開け、その後に従って廊下を歩く。こちらの姿を認めた別の職員が、小走りに走り寄ってきた。
「新たな転生者が召喚されました。今回は十代が一名、三十代が二名です」
「分かった。準備ができた者から、執務室へ通せ」
執務室に入ると身だしなみを整え、執務卓の上に置かれたミラーシェードを掛ける。
視界にブルーグレーのフィルターが掛かり、心が仕事モードへと切り替わっていく。
軽いノックが数回、扉の向こうに誰かが立つ気配。
「どうぞ」
入ってきたのは、薄汚れた毛皮の犬の模造人だ。
口元に笑みを浮かべると、Pは歓迎の言葉を告げた。
「初めまして、異国から来られた転生者の方。私はPと申します」
戸惑い、うろたえ、こちらを見る姿。その全てが、自分にとっては見慣れた光景。
ありふれた日々の営みだった。
「ようこそ。魔界の底の底の街、モック・ニュータウンへ」
お待たせしました、case03開始です。いつもの如くプロローグのすぐ後に01が上がっていますので、そちらも合わせてどうぞ。今回ボリュームすごいです。