12、快楽の園
魔界の底の底に存在する、弱者の吹き溜まり、モック・ニュータウン。
その周囲には高さ三十メートル、厚さ約五メートルの、巨大な防壁が築かれている。
名を『凡庸の壁』。苛烈で渾沌とした魔界の非常識から、元日本人の転生者を守るように、そそり立っている。
その東門から南方面に続く壁の一部に、いくつもの壁画が描かれていた。
「キリコの『バラ色の塔があるイタリア広場』に、ブリューゲルの『バベルの塔』、その隣は……確か日本画家の、エッフェル塔モチーフの奴か」
とはいえ、タッチと構図は似せてあるが、ニンゲンは全部模造人だし、描かれた塔も、こっちの塔に置き換わっている。
どれもこれも、とんでもなく巨大な傑作。
これを見るだけでも、あいつの才能に嫉妬していた自分が馬鹿らしくなってくる。
「小倉君、足場の模型ですが、こんなもので大丈夫ですか?」
俺よりはるかに高いところから降ってくる声。
鷹の模造人、山本保志さんは、精巧な模型を手渡してきた。
「ありがとうございます。あいつの注文通りにするの、大変だったでしょ」
「そうですね。日本基準の建築法が頭にちらついて、イメージするのに苦労しました」
あいつが絵を描く幅の分だけ、城壁の上に張り出しを作り、そこからロープが下げられるようにする。
さらに、自由に描きたいからと、横渡しの足場は拒否されて、長めの楔のような足場を打ち付けることになった。
「実は、二作目の時、彼女の制作風景を見る機会があったんですが、心臓に悪すぎて、途中で見るのを諦めました」
「建築業のニンゲンにしてみれば、嫌な光景だったでしょうね」
「で、あの嬢ちゃんに首輪をつけるとは、一体どうやったんだ?」
ぬっと顔を出してくるのは、甲山の親方。二人とも『甲山組』と『山本工務店』の刺繡の付いた作業着を着ている。
「なんか知らないけど、なつかれたんですよ。って、親方も鈴来と知り合い?」
「俺じゃなくて菜摘がな。行き倒れてたのを飯食わしてやって、時々遊びに来てんだ」
「うわー、出会いが想像できるわ。集中すると食事忘れるタイプだもんなー」
「甲山さんも、模型をどうぞ」
なんて言いつつ、山本さんは寸分違わない建築現場の『モックモデル』を差し出す。
建築業のニンゲンにしてみれば、喉から手が出るほど欲しいだろう『イメージした現場の再現模型』を出すギフテッドだ。
だから何で、ギフテッドって奴は、人によって使え度合いが違うんだよ。
「おやかたー、足場と材料来ましたー! 組んじまっていっすかー?」
「その前にこっちを確認しとけ! 図面と照らし合わせてな!」
現場に親方が出向いていき、作業前のミーティングが始まっていく。
二つの建築系ギルドのメンバーが呼ばれたせいか、現場はだいぶにぎやかだ。
というか、想像以上に大事になってないか?
二日前に親方に依頼したときは、ここまでの規模になるとは思ってなかったぞ。
「予算は大丈夫ですか、山本さん。鈴来と交渉して、もう少し出して貰っても……」
「請負仕事としては確実に赤字ですが、仕事自体は益になるので、問題ありませんよ」
「こういう現場を経験させたい人がいる?」
「ご存じの通り、『山本工務店』は十階以上の攻略を中心にした、迷宮攻略者の育成、支援をしています。ただ、それも十全ではありません」
山本さんの所には十一階以上の攻略、特に獄層を目指す、罠対応の専門家『解除者』が集まっている。
とはいえ、獄層は難所であり、殉職や傷痍リタイアもざらの危険な職場だ。
「甲山さんのところでは、道路整備や運搬、下水道清掃を斡旋していますが、うちの副業は家具の製作や内装が中心で、引退した人の受け皿が弱いのが実情です」
「親方に、仕事を融通してもらうのにも限界がある、ってことですね」
「高所作業の足場組みを通じ、建物の補修や塗装などにも手を広げようかと」
「大物建築は甲山組、修繕や保全は山本工務店、って感じですか」
この街は、塔のダンジョンに産業構造を依存している。
でも、そこに立ち入れないヒトや、立ち入れなくなったヒトにとっては、命にかかわる問題となってきた。
親方も山本さんも、現場のヒトだから、そういうのに心を砕くんだろうな。
「次からは、もう少しコンパクトにできるでしょう。そうなれば、料金も今回のもので適正化できます。もちろん、彼女が発注してくれるかどうか次第ですが」
「その辺りは、俺もお手伝いしますよ。なにより、あいつの安全が大事だ」
「ありがとうございます、小倉君」
山本さんが現場の作業員と合流していき、いよいよ本格的な作業が始まる。足場が組まれて、壁面上部にも人が集まっていく。
「うおー、オレ、工事現場とか見るの初めてかも」
感慨をあげる紡が脇に立ち、一緒に来たみんなも、物珍しそうに現場作業の人たちを眺めていた。
「……なんか、ちょっと緊張するぅ。うち、こんな風に、やってもらったこと、ない」
「今までがムチャだったんだよ。山本さんなんて、お前の製作姿、怖くて見てられなかったって言ってたぞ」
「でもこの子って、滅茶苦茶身軽なんだよね。その上、下書きなしでさっと描くから、足場なんて必要ないし」
「昨日は大丈夫だったから今日も大丈夫、は絶対にダメ! かもしれない運動で、ゼロ災で行こう、ヨシ!」
やがて、組まれた足場から順に、例の足場になる棒杭が打ち込まれていく。さすがは建築業の人たちで、手際よく作業が進んでいった。
「そういえばリーダー、この仕事持ち掛けたの、あんたなんだって?」
「高所作業の安全性も考えない、絵描きの話を聞きましてね。俺も一応、甲山組なんで」
「あ、あんな風に、壁に穴開けて、大丈夫なのかな?」
「あれ自体はPの館からもOKが出てるんだ。鈴来もやってたらしいし」
「そうですだよ! でも、うちがやるより、早くてきれい」
本当に、ほれぼれするぐらいの速度で、すべての足場が打ち込まれ、作業用の足場が撤去されていく。それから、現場監督の二人がやって来て施工主に挨拶した。
「おう、嬢ちゃん。注文通りに仕上げたぜ。まあ、こんな危なっかしいもん、俺らの流儀には反するけどな」
「滑り止めは付けてありますが、安全索はきちんとつけてください」
「あ、あい。分かりましたですだよ。それじゃ、使っていい?」
二人の了承を取ると、鈴来は軽いランニングから、一気に壁へと飛ぶ。それから、踊るように足場を踏んで、縦横無尽に飛び跳ね始めた。
「うわすっげ! あの動き、オレでもちょっとできる気がしねぇ」
「紡が無理って言うとか、とんでもない身体能力だな」
「マウンテンゴートですね、まるで」
「……カッコいいなぁ」
まさに、崖を飛び回るヤギのように、全身を使った動きで鈴来は壁を登り、飛び降りていく。その動きに感心しながら、山本さんは注意を述べた。
「作業の当日には、上の台座をチェックしたほうがいいですね」
「何かあるんですか?」
「まれに、外の魔獣が壁に当たることが。台座や金具が緩む可能性があるので。問題があったらすぐ呼んでください」
「あとは夜番も置いとけ。不心得な奴がちょっかい出す場合もあるからな」
そして、現場作業のみんなが帰っていき、残されたのは俺たちだけになった。
足場の具合を確かめ終わった鈴来が、上機嫌で集まりに加わる。
「ありがと、おにいさん! うち、めちゃくちゃいいの描くからぁ!」
「そこは疑ってないよ。ところで……みんなにちょっと相談が」
「夜番と上のチェックだろ。任せろ!」
「だからバカイヌ、報酬も決めずに請け負うなって、リーダーがいつも言ってるでしょ」
その後のことは、問題なく進んだ。
報酬は夜番と作業中の警備を込みで、その間の飲食や雑費を鈴来が持つという形で落ち着いた。そもそも、今回の仕事自体、アフターケアみたいなもんだしな。
鈴来はだいたい二日あれば書きあがると豪語し、眠いのに弱い文城と、体力に心配があるしおりちゃんを除いた四人で、現場を見張ることになった。
「こうしてっと、学校でキャンプ行った時の事、思い出すなあ」
壁の直下に焚火を起し、それぞれが向かい合う。
こういうイベントごとが大好きな紡は、ずっとハイテンションだ。
「寝るのがもったいなくて、友達とずっと喋ってて、滅茶苦茶怒られた!」
「その性格は、生まれ変わっても治んなかったわけね」
「うち、こういうの初めてぇ。学校行事も、ずっと、絵描いてたしー」
「そっか。お前にとっちゃ、自分の絵を探すほうが大事だもんな」
不思議そうな顔をした二人に、俺は鈴来に断りを入れて、説明を付け加えた。
「……ごめん、あたしには想像もつかない。そういうのが、天才って奴なのかぁ」
「オレは、カッコいいと思った。自分の絵を探して、こんなデカい絵描くんだもんな!」
「うへへ……でも、うち、そんなんじゃないですだよ」
手にしたカップから飲み物をすすって、鈴来は遠くを見る目になった。
「学校、いかなくなった。その後、家を飛び出して、仕事やったり、絵、描いたり。そんで、テレビで見た。壁に勝手に絵描いて、有名になった人」
「もしかして、そのラクガキを国が保存するとか言ってたやつ?」
「……ごめん。俺、あの話聞いた時、キレて下宿の壁殴って、穴開けた」
「なにやってんの? バカじゃないの?」
いやだって、しょうがねえだろ。
絵を諦めて、ブラック企業で死にそうになってる時に、匿名のラクガキが、バカみたいな値段で取引されるとか聞いたらさ。
「うち、同じようにやろうとした。で、知らないおじさんに見られて、殴られちゃった」
「おい……ちょっと待て、それって」
「うん。うち、それで死んだんですだよ、ふへへ」
俺たちは言葉を失い、カップから飲み物をすすった。鈴来の方はへらへらと笑い、それから壁を指さした。
彼女自身が生み出した、芸術作品を。
「うち、あの変なのに、感謝してるですだよ。憧れの絵かきみたく死んで、憧れの絵かきみたく生きてけるから」
「もしかして、そのギフテッド、ジョウ・ジョスに、変なのに頼んだのか?」
「うん! 生まれ変わったら、一杯、絵の具に困らないようにしてって! んで『おもしろいガラクタだから、持っていけ』って!」
誰からともなく、俺たちは笑った。
不思議そうな顔の鈴来を、置き去りにして。
あの聖堂の中で、神を願い続ける人々を尻目に、本物の恩寵を受けて、こんなにも自由に生きている奴がいることに。
「そういや、紡もあいつに願って、叶えてもらった口だろ?」
「直接話した記憶はないけどな。でも、転生すんならって、ファーソナと一体化したい、聖竜天狼騎士になりたい、超魔法が欲しいって願ってた」
「なにそのアホアホハッピーセット、さすがのアレもドン引きパラダイスでしょ」
このことを知ったら、『グノーシス』の連中はどんな顔をするだろう。まあ、顔真っ赤にして否定するか、異端として排除するかの二択だろうけど。
「いい時間だし、そろそろみんな寝ときなよ。あたしが見張っておいてあげるから」
「……交代制にするか。柑奈ばっかりじゃ悪いし、一人じゃ退屈だろ」
「そ。好きにすれば?」
依頼人の鈴来を寝かせ、俺と紡の二交替にして、先に紡を休ませる。
もちろん、二人とも朝まで起こす気はないけどな。
「そんなことばっかやってるから、こっちに堕ちてきたんでしょ」
「そうだな。人の面倒ばっか見てたら、足元御留守で、ホームの端からおっこっちた」
「……別に、言わなくてもいいのに」
「口が滑ったんだよ。メモリから削除しといてくれ」
燃える焚火を前にして、俺たちは夜明けを待った。さすがに徹夜は辛いから、少しだけ仮眠させてもらって。
そして、夜明け共に、
「うちの連作、五作目『パスティーシュ05』」
天才が、空へ向かって飛んだ。
「製作開始、ですだよぉっ!」
最初の一筆から、片時も休まずに、鈴来は動き続けていた。
彼女の筆は特別製で、能力によって筆先に充填された顔料が、次の顔料に押されて排出される仕組みだ。
筆を洗う必要もなく、好きな色を自在に出せる鈴来のギフテッドが成立させた、奇跡のような描画法。
時々、腰のボトルから水分を補給し、最上階に設置した仮設トイレで用を足す以外、休みを取っていない。
「さすがに、あれは無茶すぎるのではないでしょうか」
「聞いた話だと、あれをぶっ続けで、半日は食事にも見向きもしないって」
「……僕、絶対無理」
上で待機している柑奈と紡も、魅入られたように動けない。
狂暴を絵に描いたような笑いを浮かべたヤギの模造人は、動き続け、駆け続け、描き続ける。
「あれは、なにを描いているんですか?」
「ヒエロニムス・ボス『快楽の園』。そのパスティーシュだよ」
本来のそれは、三枚一組で描かれた祭壇画だ。
その中央に描かれたのは、人間が堕落の限りを尽くし、快楽に溺れた姿だと言われる。
しかし、鈴来の描いている絵は、そんな要素を微塵も感じさせない。
中央に四枚の花弁を花開かせた塔。その周囲にはいくつもの建物、それぞれがどこかで見たことのある形をしていた。
「あれって……『ムーラン』だよね?」
「あちらは『甲山組』の雑居ビルではないかと、『てなもんや』さんや『人参畑』もありますね」
画面の中段には、茂みで狩りをする『EAT UP』の人たちや、水を汲みだしていく『インスピリッツ』のメンバーが、特徴を捉えた姿で描画されていった。
「文城さん、あそこの茂み! 私たちがいます!」
「あ……あっ、ホントだ……。なんか、恥ずかしい……」
ご丁寧に、紡と店長が獲物を狩っている姿や、少し離れた場所でくつろぐ、俺と柑奈も描き込んであった。
だが、俺たちの見とれている目の前で、バランスを崩したように、ヤギの体が地面へと落ちていく。
「すずき!?」
体に括りつけていたロープがその身体を保持して、地面と熱烈な抱擁をするのを止めてくれていた。
罠に絡めとられたような姿勢で、鈴来が絶叫する。
「あ……ふ、ふみ、ふみきぃいいいい」
「え、あ、な、なに!?」
「おにぎりいいいいいいいいいい!」
泣きそうな顔をして文城が駆け寄っていく。疲労と汗と、その他もろもろで一層ひどい毛並みになったヤギへ、俺たちは補給を開始した。
「バカ、米ばっか食うな! 他にもなにか」
「こ、これを! こんなこともあろうかと、調合してきた栄養ドリンクですっ!」
「むがむ! むぐ、もぐ、むぐうっ!」
吊り下げられたまま、手渡されたすべてを口に突っ込み、きつい臭いのする栄養ドリンクで流し込むと、
「うわあああああああああああああああああああっ!」
絶叫と共に、鈴来は壁を駆けあがった。
顔料が飛びちり、俺たちの毛皮をまだらに染める。そんなことお構いなしで、筆が当たるを幸いに、描き、描き、描き続ける。
その豪快な筆さばきから、巨匠にして奇才と呼ばれたボスのタッチが、完璧に近い形で再現されていく。
「ねえ、孝人……」
「うん」
「芸術って、あんなにしなきゃ、いけないの?」
すでに笑う余裕もなく、いや、描く以外の全ての機能を停止させて、自らを絵筆と化した鈴来が飛び回る。
そんな剥き出しの創作活動に焼かれて、文城は怯えていた。
俺は、静かに首を振って、天才の放つすべてを、目に焼き付けていく。
「ああしたいから、やってるんだよ」
日が暮れるまでの間、鈴来は動き続けた。
細っこい体のどこに、あんなバイタリティがあるのか、信じられない思いだ。
こっちは最初に文城がうずくまり、しおりちゃんがへたばって、上の紡さえ膝をついて様子を眺めるだけになった。
柑奈の方は、すごい勢いでメモリを喰われているのか、ヒトの擬態が解けてしまった。
そして、俺は。
「……ぁ……っ……っは、ぁ!」
息をするのさえ困難なほど、疲労した鈴来の所に、よろめきながら歩み寄っていた。
「無茶、しすぎだ、バカ!」
用意しておいた桶の水をぶっかけ、体にかかったロープを外して横たえる。水を求めてあえぐ魚のように、口をパクパクさせた彼女を、ぐっと抱いた。
「今日はもう、休め」
「あ……ああ、おにいさん」
「なんだ?」
「うち、楽しいよ」
バカヤロウ。
「見てりゃ分かるよ、そんなの」
俺たちは精魂尽き果てたような鈴来を囲んで、夜の番をした。
そして、目覚めた時には、誰よりも早く起きた鈴来が、壁に向けて勇猛な突進を開始していた。
「たった一日半で、ここまで描くか」
まるで、壁の中から本来の色を削り出すように、目にも鮮やかな絵が姿を現していく。
鈴来の動きは、昨日までの荒々しさと違って、神経質な職人のそれだった。
大筆はほとんど使わなくなり、小ぶりな刷毛や筆で彩色を繰り返す。動きも、ロープにぶら下がってラペリングをするような、小刻みな動きに変わっていた。
「なあ、孝人?」
「なんだよ」
「もしかして、鈴来って、あの絵の細かい部分まで、全部頭に入ってんの?」
分からないなりに鋭い質問をする紡へ、俺は頷いた。
「あの広い画面全体を、一つのキャンバスにしてな。だから、絵を描くって言うより、記憶にある通りに『修復する』のが近いのかも」
「……おっかねえー」
昼ぐらいになって、激しい動きはほとんどなくなり、上から順に細かいチェックと修正が中心になっていく。
そして、足場の棒杭を、外し始めた。
「あれ、取っちゃうの?」
「てか取れるんだな、あれ」
「山本さんのところで造ってもらった治具だよ。棒杭を受ける金具から取り外せるようになってる。刺さってたら絵の邪魔だからな」
修正を施し、棒杭を取り外す。
それは芸術家というより、仕事を丁寧に施す職人の顔。ひたむきで、いつものふやけた表情はどこにもない。
「おお、もうしまいかよ。今回は早えな」
「ホントすごいよね、鈴来ちゃん。こんなことしか言えない、自分の語彙力が悲しい」
親方と菜摘さんが、二人でやってきていた。親方は両腕にビールのケースを二つ抱え、背中にはレジャーシート、菜摘さんの方は座布団を背負い、両手にお惣菜の入った袋を下げている。
「治具もきちんと使えているようで、一安心です。とはいえ、安全性に考慮して、もう少し工夫が必要ですね」
山本さんは現場を評価しつつ、思案気にしている。その片手にはちょっとお高めのお酒のビンがあった。
「もう完成しちゃったんですか!? 一度は生で見てみたいんですけど、次やる時は、事前告知してほしいです!」
大きな牛の肩で、倭子さんが苦笑しつつ感想を述べる。引率役になった安吾さんが抱えているのは、カダスビアのケースだ。
「おお、絶景かな! またまたこの街に名所が出来たな、少年。君も大活躍だったと聞いたぞ!」
なぜか誇らしげなイタチのおねえさんが、眼鏡をクイっと上げる。
「あ、菜摘も来てたんだ。それじゃ今日は鍋物はお任せして、焼き物中心にするねー!」
キツネの店長さんが、大量の食材と調理道具を背負ってやってくる。この前の時とは別の意味で、物々しくなってきたぞ。
そんなこちらの賑わいをよそに、鈴来は最下段の杭を一本ずつ丁寧に処理していく。
最後の一本が抜かれ、付けていたロープを解くと、その場にひっくり返って叫んだ。
「おわったー!」
俺が走り出し、こっちを飛び越えるようにして紡が駆け寄り、遅れて文城としおりちゃんが、小柄なヤギの体を囲んだ。
「おつかれ鈴来! マジすごかったぞ!」
「おかげでこっちはメモリ圧迫パラダイスだけどねー。情報量多すぎー」
「本当に、すごかったです。ところで、体調は大丈夫ですか?」
「お腹すいてない? おにぎり出そうか?」
全員に笑顔で答えたヤギの模造人は、最後に俺を見た。
「ありがと、おにいさん。うち、すっごく楽しかった」
「うん、俺も楽しかったよ」
片手を差し出し、座り込んだ体を引き上げる。
それから、待っているヒトたちを示した。
「新作の完成記念と落成式だ。お祝いしようぜ!」
驚いて、とまどって、それから笑って。
鈴来は頷いた。
「ほんと、ありがとですだよ、おにいさん」
紡が今回の主役を肩車して宴席につくころには、すでに敷物や料理が出そろっていた。
「みんなお疲れ様。これでクエスト完了、ってところね」
笑顔の乙女さんが、座の中央を示してくる。素早く両端を押さえた紡と柑奈、その脇をしおりちゃんと文城が、そしてなぜか、俺と鈴来がまんなかだった。
「いや、今日の主役は鈴来だろ」
「おにいさんもですだよ。あの絵、こんなに早く描けたの、おにいさんのおかげ」
明らかに身の丈に合ってない評価だけど、場の空気を悪くするのは嫌だからな。座が崩れたら、とっとと親方や山本さんの所に酒でも注ぎに――。
「それじゃ、乾杯の音頭は、孝人君に取ってもらいましょうか」
「な、なんで俺が!? そこは鈴来とか乙女さんが」
「うち、そういうのできない」
「わたしなんて、この一件にぜんぜん関わってないし。ということで、ほら」
ま、しょうがねえ。
こんなの、勤めてた頃から毎度のことだ。とっとと終わらすか。
「えー、それでは、ご紹介にあずかりました小倉です。みなさま、本日は隅田鈴来画伯の新作、完成式にご足労いただき、まことにありがとうございます」
「うわ、マジでやるんだ。マジでやれるんだ」
「なんか結婚式のヒトみたいだぞー」
二人の茶々入れを聞き流し、改めて完成した絵を見つめる。
「お互い、ヒトの浮世から外れてなお、生計を得るのに急かされる日々です。それでも、時には足を止め、美しいもの、まれなるものを眺め、心を憩わせるのも一興でしょう。鈴来画伯の作品が、その一助になることを、心より願っております」
俺はグラスを掲げて、全員がそれぞれに同じ姿勢を取るのを確認する。
そして、告げた。
「このろくでもない世界の底と、悦楽の園の絵に――乾杯!」
『乾杯!』
グラスが重なり、歓声が上がる。料理が並び、憂うことはひとつもない。
そして、目の前にはなかなかの名画がある。
花も咲かない魔界の底でも、結構見どころがあるってもんだよな。
「えっと、こういう時は、目上の人に注ぐんだっけ? ほら、グラス出せって」
「別にいいよ。それに、注ぐんならあっち。親方メチャクチャよろこぶから」
「そっちもだけど、まずはリーダーにでしょ」
えー、悪い気はしないけど、昔を思い出してちょっと来るものがあるなあ。
なんて、二人のサービスを受ける俺の目の前で、さっそく鈴来がスケッチブックを取り出して、何やら描きだしている。
「あ、あれだけ描いてまだ描くのぉ?」
「うーん、画家の考えることは、オレにはわかんねえ」
「そういうもんなんだよ。むしろ鈴来らしく、て……」
俺はゆっくりグラスを置いて、それから宴席に座る人間を見回す。
親方、菜摘さん、山本さん、倭子さん、安吾さん、おねえさんに店長さん、乙女さんがいて、文城、紡、しおりちゃん、柑奈、そして俺。
「……って、ちょっとまてーい!」
「うわビックリした!?」
「こ、孝人?」
俺は上機嫌でお絵描きする鈴来に詰め寄り、スケッチブックの中味を確認した。
「やっぱりそれかあああああい! いや、分かるけどもぉっ!」
「うわっ、なに、おにいさん!?」
「しかも俺を、そこに座らすんかよっ! 位置的にそうだけどぉっ!」
なんだなんだと騒ぐみんなの所に、俺は鈴来と一緒に戻って、作品を開示した。
「あ……なるほど、これねぇ」
苦笑するのは、乙女さんや菜摘さんに倭子さん、おねえさんは口元を歪め、山本さんは頷いている。
「これ、どっかで見たことあるけど、有名な奴だよな」
「美術の教科書で見た、と思うんだけどねー」
「ほんと、じょうずだねぇ」
紡や文城、柑奈はそっけない態度。親方や安吾さんは首をかしげる。
しおりちゃんが絵を眺め、俺の絶叫を理解して、笑った。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』ですね。この絵ですと、紡さんもそれなりに問題ある立ち位置ですけど」
「え、なんで!?」
「『汝、払暁の鶏鳴を待たずして、三度我を否むべし』って、俺に言われる役だからな」
「いや、全然わかんないって!」
本人はちょうど席に着いた人数と、絵の構図が似ているってだけで、これを描いたんだろうけどな。
万が一、預言的な意味があるって言うなら、ユダの位置にいる人物は――いや、しょうもない。忘れよう。
「インスピレーションの赴くままに描くのはいいけど、TPOっていうか、そういうのを重んじようぜ? モチーフもタイトルも縁起でもないし」
「でも、うち、これずっと描きたくて……」
俺はちょっと考えて、『俺』の書かれている背後辺りを指さした。
「ここに、鈴来を描き込んじゃえよ。人数が増えて、ただの集合写真っぽくなるし」
「え……うち、そんなの、やったことない。難しい、気がする」
「そっかぁ。確かに、天才の構図に横やり入れるようなもんだしなぁ」
「なら、リーダーが描いちゃえば?」
恐ろしい一撃を放ったメイドは、ニヤニヤと笑って俺の肩を叩いた。
「一回やったんだし、二回目もやれるって!」
「できるかあっ! そもそも一回目はラクガキみたいなもんで」
「お、なんだ孝人、絵描けたんか、お前?」
「足場の説明の時、かなり綺麗な展開図を描いていましたね、そういえば」
身を乗り出して、酒を片手に二人が冷やかしにかかってくる。
いや待って親方たち、なんで乗って来てんの!?
「おにいさん、車上手! これ、描いてもらった!」
「ぎゃーっ!? やめろ鈴来ぃ!? 俺の恥を公開すんなぁっ!」
「あらホント、すごく上手じゃない」
「なるほど。少年はメカ系が得意、と」
「うちの『デュオニソス』ですね! 後で『レイジングブル』もお願いできますか?」
俺の絵を見て、みんなが盛り上がっている。
とても見ていられなくて、顔を覆う。
いや、ホント勘弁して。他のことは何言われてもいいけど、さすがにこれは。
「おにいさん」
そんな俺を、地面から見上げるようにして、鈴来がのぞき込んできた。
「うちに、絵、教えて」
「お前みたいな才能の塊に、今更、なにを」
「うちが知ってる『自分の絵』、持ってる人、おにいさんだけ」
その目は真剣で、どこまでも真っすぐで。
「そ、そんなの、探せば、この街にいくらでも」
「おにいさんがいい。おにいさんじゃないと、だめ」
断れ。断るべきだ。
俺なんかが、こいつに教える事なんて何もない。下手の横好き、途中で挫折した男、友達を裏切った奴が、いまさら。
「それなら、技術交換会というのはどうでしょう!」
カピバラの模造人は、手にしていたスケッチブックを開き、俺の絵と鈴来の絵を同時に見えるようにした。
「お二人とも、描いているものも、技術も別物です。師匠弟子というより、互いにないものを持ちよって、高め合う。そういう関係ならば、行けると思いませんか?」
「教えた相手から学ぶことも、山のようにあるのが、技術の世界ですからね」
「そこまで腕を買われてるんだ。嬢ちゃんに恥をかかせるんじゃねえよ」
俺は、観念した。
というより、もう扉は開いていることに気が付いていた。
ここは死後の世界。現世のしがらみを、捨ててもいい場所だ。俺を縛るものは、彼方に消え去ったんだ。
「ごめんな」
誰にも聞かれないよう、祈る。
俺はスケッチブックを受け取り、たどたどしく、晩餐の席に鈴来を招く。
ニンゲンを描くなんて十年以上ぶり、いや、模造人はむしろ動物か。
「……いまは、これが精いっぱいだ」
「うん」
正直、見ているだけで恥ずかしくなる。巨匠のタッチの中に、ヘタクソな俺の絵がだしぬけに描かれて、とても見れたもんじゃない。
それでも、
「うち、みんなと一緒。うれしい、ですだよ」
そのひどい成果を、鈴来は宝物のように、抱き締めていた。