鴻鵠望郷(後編)
その日の宿は、市街の中でもそれなりに高そうなホテルの一室をあてがわれていた。
ベッドルームと応接用のフロアに分けられた部屋など、しおりにとっては前世もふくめて一度もなかったことだ。
部屋割りは男性陣と女性陣、という分けで、黒髪の女性と一緒になっている。
「そういえば、メーレさんの趣味というのは、なんなんですか?」
ソファの前に据えられた座卓に二人分の飲み物を置くと、彼女は珍しく、照れたような笑いを浮かべた。
「私、癒し手の竜。あらゆる者を癒す。それこそ存在理由。すなわち趣味」
「……なるほど」
「カウンセリング、今日で終わり。明日一日、休暇。何か、したいことは?」
したいこと、と言われても、そう簡単には思いつかない。
というよりも、
「実のところ、今すぐ街に戻って、研究を続けたいです。これ以上、地球でできることもありませんから」
「では、帰るまで、安静を提案。雑談、取り留めない言葉、時には必要」
胴の細長いグラスで、泡立つ液体。
甘みのついていない炭酸水を口に含み、思いつくままに言葉を口にした。
「実のところ、天界という世界にも、興味はあったんですよ。本当に、帰還が難しいのであれば、それでもいいかなって」
「モック・ニュータウン、いるべき場所、そう感じる?」
「……そうですね。私の力を、好奇心を、満たせる場所ですから」
生みの親に対する未練もなく、生まれ育った土地よりも、自分の力を活かせる異郷への帰還を望んでいる自分は、やはり人間ではないのだろう。
そのことに、不快も後悔も感じることはなかった。
だが、
「……ちょっとだけ、未練に近いものは、あるのかな」
「なにか?」
「この世界で、私の導師になってくださった人。そして、私の、大切な友達のことです」
あの石喰いを倒そうと思った時、思い出したのはその二人だった。
「逢いたい?」
「……導師には、逢うつもりはありません。あの方も、この世界で魔法使いを自認しています。だからこそ、逢うわけには、いかない」
この地球に生きるすべてのオカルティストが、悲嘆と絶望に暮れるであろう真理を、しおりは見つけていた。
自分たちの魂と肉体に刻まれた、三条の否定。それをすり抜ける方法は、否術だけだ。
だが、この地球に生きているかぎり、魔法の行使者は神去の毒に殺される。魔法使いを許されない土地ということに、変わりはない。
「本当は、私の成果を見てもらいたかったですけどね。それはきっと、残酷なことにしかならないから」
「その判断、同意。もう一人は?」
「小学校の頃、友達になって。父の故郷である群馬に引っ越してから、疎遠になってしまって……」
持ち物の中から、銀色の羽飾りを取り出す。お別れの時に手渡されたプレゼント、異世界に転生することになって、持ち出しを願った大切な品だ。
娘への関心が低い母と、細やかな気遣いを期待できない父親。自分が事故にあったことも、知らないかもしれない。
「逢いたい?」
正直に言えば、逢いたいとは思う。
せめて、お別れぐらいは、言っておきたい。
「もし、お願いしたら、叶えていただけますか?」
「可能」
彼女の趣味は、他者を癒すことだと聞いた。
であれば、なにか問題が起きたとしても、十分にフォローしてもらえるだろう。
「それじゃ、お願いします」
「その人物、名前、居場所を」
トリの少女は少し言葉に詰まり、それからその人物の名を、口にする。
それを聞いた黒髪の女性は、目を丸くしていた。
「それ、間違いない?」
「え、ええ。間違い、ありませんけど、何か問題が?」
「……むしろ、問題がない。すぐ、連絡する」
それは意外な一言だった。
すぐに探す、ではなく、連絡する。
まるで、以前から彼女のことを知っていたような。
手元のスマホを操作して、少しだけ時間を置いた後、何らかの返信を受け取った竜の癒し手は、回答を伝えた。
「……明日、午後、対面を設定」
「え、た、対面って、この姿で……ですか!?」
「問題ない」
メーレは柔らかく微笑み、頷いた。
「ヒトの縁、その数奇、楽しんで」
明けて翌日。
しおりを乗せた車は、再び東京都内に入っていた。
再会の場所は、自分の友人が住んでいる場所から近い駅近く。わざわざレストランを一つ借り切ってセッティングされた。
「ほ、本当に、このままでいいんでしょうか」
「なんだよ、キンチョーしてんのか?」
口元をゆがめたグラウムは、からかいの表情を引っ込めて、頷いて見せた。
「細かい事情は説明してある。向こうも驚いたみてーだけど、割と納得してたってさ」
「な、納得、できるものなのでしょうか」
「貴方の友人も、一筋縄ではいかない経験をしたのですよ」
運転席のソールは、車を大通りから脇道に入れ、雑居ビルの並ぶ通りに進んでいく。
その店は、白壁と木枠を強調した窓で飾られた、いかにも個人経営といったたたずまいだった。
「彼女、到着済み。私たち、紹介の後、退席」
「え……あ、そ……そうなん、ですか」
何もかもが急激に進んでいき、気持ちの整理がつかない。
転生してからずっと、なるべく冷静でいようと努めてきたが、こんな事態は想定したこともなかった。
誰かにとって『今の自分がどう見えるか』気にするなんてことを。
やがて車が止まり、ドアが開かれた。
黒くて丸いドラゴンが先に降りて、こちらに片手を差し伸べてくる。
「あ、ありがとうございます」
ドアの前に立ち、深呼吸する。
そして、ここに来る前に聞いた言葉を、思い出す。
『彼女も、あなたに逢いたいと言っていたそうです。どんな姿であれ』
この緊張の源は、自分の中に残った『人間らしい部分』だ。
小さなころから感じていた、世間からの疎外感、異物感。
自分はみんなと違う。だから、誰と心を通わせなくても、問題ないと。
そんな痛みも、異世界に転生し、自分を認めてくれるヒト達と過ごす中で、薄れていったはずだった。
でも、
「やっぱり、怖いです」
『彼女』はなんの背景も理由もなく、友達でいてくれたと思える人だった。
その人から、拒絶されるかもしれないという予感に、怯えていた。
「なら、やめるかい?」
確認の言葉に、しおりは首を振った。
「いいえ」
自分はいつだって、先を望んでいた。
知りたいと思ったことを、諦めたことは一度もない。成したいと思ったことを、最後にはやり遂げてきた。
それが、美幸栞の、存在理由だと信じて。
扉を開き、足を踏み入れる。
彼女は、窓際の席に座っていた。
「あ……」
その目が、驚きに見開かれて、椅子から立ち上がる。
短く切り揃えられた髪、四年前よりも大人びた顔立ち。
飾り気のないロングシャツと、細い脚にぴったりとしたデニム生地のパンツ。
中学生の時の彼女を、そのまま大きくしたような、そんな姿だった。
「こ、こんにちは」
我ながら、情けない言葉しか口から出てこない。それでも、なるべく相手に悪い印象を与えないようにしないと。
「えっと……日美香ちゃん、だよね」
必死に昔の口調を思い出そうとする。
まさか、自分で自分を演じることになるなんて。
「……っはー、ごめん、ちょっと待って」
彼女――三条日美香――は、両手で頬を叩き、それから笑顔で片手を差し出した。
「ひさしぶりだね。正直、すごくびっくりしたよ、しおりちゃん」
「あ……は、はい……おひさしぶり、です」
「その様子なら、問題なさそうだな」
グラウムがそう告げ、竜たちは連れ立って店を後にしていく。
「え、あの!」
「店の店員は、うちの部下だから気にすんな。何でも好きなもん、頼んでいいぜ」
「何かあったら連絡を。存分に、旧交を温めなさい」
取り残され、途方に暮れたしおりを、友人は座っていたテーブルにいざなう。
席に着き、改めてお互いに顔を見かわした。
「なんていうか……見違えちゃったね」
「そ、そう、だね。もう、人間でも、なくなったし……」
「わたしの話は聞いた?」
そういえば、竜たちはなぜか、彼女について詳しい話をしようとしなかった。
おそらく、何かのサプライズがあるのだとは思っていたが。
「なにも、聞かせてもらえなくて……なにかあったの?」
「今から二年前になるかな。異世界の勇者やってました」
「……え!?」
日美香は傍らに置いていたバッグから、小さなケースを取り出してくる。
その中身は、カードゲームの『デッキ』だった。
「さっきのグラウムさんや、ソールさんとも顔見知りでね。二人とも、神様主催のカードゲーム大会で、司会者と解説役やってたんだよ」
「は? え? え!?」
「よしよし。掴みはオッケー。なにか聞きたいことは?」
そんなの、山のようにあるに決まっている。
みんなの心遣いに感謝しながら、しおりは質問を始めた。
友人、三条日美香の冒険譚は、とても楽しいものだった。
例の『神々の遊戯』に勇者として召喚され、召喚神である『愛乱の君』とともに、カードゲーム大会を主催したこと。
異世界を旅したこと、強敵たちとの戦い、そして、敗北。
話は昼食を挟んで、午後のお茶もそこそこに、続けられた。
「最後の戦いでさ、しおりちゃんから貰ったカード、使ったよ」
「もしかして、プレゼント交換した?」
自分が群馬に越す数日前、記念に送り合ったプレゼント。彼女に渡したのは、自分も気に入っていた一枚のカードだった。
「あれ、公式大会じゃ使えないから、うれしかったなぁ」
「……ちゃんと、役に立った?」
「もちろん! あれと同じシリーズのカードも使ったし、すっごく楽しかった!」
そのカードは、ある児童文学に出る『永遠に物語を語る本』を、元にしていた。
公式試合で禁止の措置が取られたのは『効果でゲームが遅延してしまうため』、という理由からだ。
「今でも、"ウィズ"は、続けてるんだ」
「もちろん。実は、同じ異世界の勇者してた人と、チーム組んでるんだよ。今年の秋にはプロツアーにも行くし」
「……よかった。今度は、お父さんも許してくれたんだね」
「渋々だけどね」
こっちにいたころ、彼女はカードゲームが好きな女の子で、周囲と両親の無理解にさらされていた。
彼女と知り合ったのは小学校の時、学校帰りに立ち寄ったカードショップでのことだ。
『美雪、さんだよね? 美雪さんもウィズやるの?』
『その、やったこと、ないんだけど。昔のカードに、私の好きなお話が、あるって』
ちょうど自分と知り合ったぐらいから、日美香は男子のカードゲームグループから、弾かれるようになっていた。
世間がどんなに『男女の別などはない』などと吹聴しようが、子供の素朴な差別心を消し去ることなどできない。
結果、彼女は自分でゲーム用の『デッキ』を組み、カードショップで対戦相手を募るようになっていた。
それから、彼女とはよく話すようになり、へたくそではあったけど、カードの対戦相手も勤めていた。
「それで、しおりちゃんの方は?」
「……夢が、叶ったよ」
不思議そうな顔をしていた日美香は、驚きと笑顔の混ざった表情で、こちらを見た。
しおりは、ポーチの中から銀の翼を取り出し、テーブルの上のグラスを示す。
「"水よ、汝の熱を我は否む。凝れる態へと至れ"」
短い聲によって、グラスに霜が降り、水が凍結して、
ぴきり。
「あっ!」
「うわっ、グラスが……っ」
急激な凍結で中の水が体積膨張し、グラスに亀裂が入ってしまった。どうやら、選んだ聲が、まずかったらしい。
「魔法……使えるようになったんだ!」
「失敗しちゃったけどね。まだまだ、研究段階で」
「それでもすごいよ! やったじゃん!」
彼女と知り合ってしばらくしたころ、しおりは自分の夢を打ち明けていた。
いつか魔法使いになること、父や母には絶対に言えない、それどころかこの世界の誰にも告げられないような、途方もない願いを。
『知ってる? 私のやってる『ウィズ』も、魔法使いになるカードゲームなんだよ』
彼女はこともなげに、しおりの夢を肯定した。
『錬金術? とかに出てくる話が元ネタで、ほら、賢者の石とかって』
『カードを使うときに支払う、霊素も、元々はエメラルドの石板っていう、錬金術の奥義を書いた石板から取ってるんだよ』
日美香がこちらの話を、どれだけ理解してくれたかは分からない。
でも、彼女はしおりを否定しなかった。
それだけで、すべてが満たされた気がした。
「そういえば、これ」
「……わたしのあげたやつだよね」
「うん。これで魔法を使うって、決めてたから」
日美香から貰った翼のしおりは、昔よりも色がくすんで、表面に細かな傷が目立つようになっていた。
それでも、別の世界に転生してもなお、ずっと持ち続けていた。
「転生したの、魔界って聞いたけど、大丈夫なの?」
「うん。転生して来た人がみんな日本の人で、模造人って、動物に似たヒトなんだけど――」
いつの間にか、外は日が暮れて、夜になっていた。
同じ店で夕食を取り、その間もずっと、話は尽きることはなかった。
それでも、
「……ごめん。そろそろ……帰らなくちゃ」
限界まで状況を先送りにしていた日美香も、名残を惜しむように席を立つ。
しおりは頷いて、言葉を掛けようとした。
「――」
ありがとう、さようなら、元気で。
そんな、ありきたりな言葉を掛けようとしたつもりだった。
「しおりちゃん」
彼女はしおりの体を抱きしめ、ゆっくりと背中をさする。
そういえば、悲しくて泣いたのは、いつ以来だろう。
くちばしをきつく閉じて、それでも嗚咽で震えるのは止められなかった。
「なにか、できること、ないのかな」
きっと日美香も、泣いている。濁った声のまま、失ったものを拾い上げる様に、こちらを思いやりながら告げていく。
「ね。今でも、神様には時々話が通じるから、なんとかしてもらおうよ」
「……いいの。私は、今のままで」
日本で生まれて、幸せも不幸せもあった。やるべきことも、やりたいこともあって、それが途中で途切れたことは、残念だった。
この優しい友達と永遠に別れることに、悲しさも感じている。
それでも。
「日美香ちゃんと会えなくなるの、さみしいけど、私には、向こうでいっぱい、やりたいことが、あるから」
「うん……知ってる。そう言うと思ってた。でも」
こちらをきつく、強く抱きしめて、日美香は自分の執着を吐き出した。
「やっぱり、さみしいよ」
それはしおりにとっても、同じことだった。
互いを抱きしめたまま、立ち尽くす。
それぞれの思いを、魂に染み込ませようとするように。
出発の朝。
しおりたちは孝人のアパートの前に立っていた。
転移は夜に実行する予定だが、途中で問題が起こらないようにと、現地近くで待機することを告げられている。
やがて、誰かの気配がして、身支度を整えた孝人だけが出てきた。
「行こう」
こちらが何かを尋ねる前に、彼は後ろ手にドアを閉めて、歩き出していく。
彼の友人は、見送らないことを決めたのだ。
「よーし。お前ら、昼飯はどうする? これで最後になるんだ、なにか食いたいもん食ってけよ」
「そういうのはないよ。むしろ、ここで食ったら変に未練が残るだろ」
「それもそうか。んじゃ、俺がテキトーに決めっから、それでいいな?」
車に乗り込み、移動していく。
景色が流れてすべてが遠ざかっていく。
隣に座ったネズミの顔には、ほんの少しの痛みが、漂っていた。
「しおりちゃんは、この二日どうだった?」
それでも、孝人は何気ない顔を装って聞いてくる。
しおりは、静かに笑いながら告げた。
「とても、有意義な時間でしたよ」




