9、ナゼの嵐
ワープ、転移、あるいはテレポート。
いろんな言葉で言い表されてきた、時間と空間を越えた移動。
ある作家は『一瞬のこと』と表現し、ある作品は『苦痛を伴う永遠』とも描いた。
「え……?」
俺が体験したそれは、まるで疲れ切ったマラソンランナーの、ゴールの一歩。
気が付けば前のめりに、とぼとぼと、進み出ていた。
感覚としては『切り取られた見当識』が、一番近いだろうか。
前後の記憶が、断ち切られていた。
「あ?」
薄暗い、狭い空間だ。
でも、なんだろう、妙に懐かしい感覚がする。
「こうと、さん?」
振り返れば、そこには同じように、呆然と進み出たしおりちゃんの姿。
背後には輝くゲートがある。
でも、それは向こうのそれとは、全く違っていた。
「き……?」
ドアだ。
長方形で、何の変哲もない、合板製のドア。
俺の表情に何かを悟ったのか、しおりちゃんも振り返り、ドアの上部に貼り付けられたプレートを、呆然と読み上げていた。
「給湯室?」
まるで、その機会を狙っていたかのように、ドアの光が揺らぎ――
「しおりちゃん!」
彼女の体を抱き留め、地面をこするようにして飛びのく。
その上をぶっ飛んでいくのは、暗緑色の肌をした巨大なワームだ。
そいつの巨大な質量は、目の前の壁をぶち破って、辺りをめちゃくちゃに粉砕する。
「逃げるぞ!」
走り始めてから、俺は気づいた。
そこは暗い廊下で、壁はくすんだクリーム色の合板、床も薄汚れたフロアタイルが貼られている。
確実に、どこかの『オフィスビル』の中だ。
「孝人さん! ここは、ここは、まさか!」
「今はっ、考えるのはあとだ!」
俺たちは途中で見つけた階段を登り、巨大な怪物をやり過ごす。
階を一つ上がるたびに、破壊音が遠ざかって、やがて五階分も上がったところで、閉ざされた金属製のドアが立ちふさがった。
「……っ!」
屋上への進入禁止のために、プラスティックカバーで保護された部分を棍でつき砕き、ロックを解除して、外に出る。
「うわっ!?」
吹き渡る、濃密な風が、俺たちの毛皮や羽毛をかき乱していく。
そこにこもっているのは、往来を行きかう様々なものの臭い。
排気ガス、湿った路地裏のかび臭さ、飲食店が吐き出す料理の煙。
そして『人間』の体臭。
「まさか、そんな!」
隣の女の子が、悲鳴を上げて見上げる視線の先にあったもの。
それは、煌々ときらめく、電気の明かりを灯したビル群だった。
どちらともなく、俺たちは屋上の端に近づき、世界を見下ろした。
電柱、街路樹、見覚えある飲食チェーンの看板、行きかう『人々』、車やバスの流れ。
だが、
『ヴオオオオオオオオオオオオオオ!』
それまで、見えないフローに流されるままだった人々が、動きを止める。
異様な叫びと破壊音が、俺たちの立っているビルから、狂猛な勢いで飛び出した。
『うああああああ!?』
『キャアアアアア!』
『なにあれ!?』
突然、日常に現れた非日常に、群衆が叫ぶ。
化け物はその場でのたうち回り、身もだえしながら道路に飛び出し、そのまま近くを流れる川に飛び込んでしまう。
水柱が上がり、悲鳴が上がり、怪異は唐突に姿を消した。
おそらくは保護色による擬態なんだろうけど、恐ろしい速さだ。
でも、今はそれ以上の問題がある。
「おい……マジかよ。マジなのかよ!」
信じられない、でも信じるしかない。
俺たちは今。
「日本に、帰ってきたのか!?」
そのことを確かめるすべもなく、足下でけたたましいベルの音が響き始めた。
「警報機!? ま、まずいぞ。とにかく、逃げないと!」
でも、逃げるってどこに!?
「孝人さん!」
すでに動き出していたしおりちゃんが、隣にあるビルへ飛び移っている。
それに倣って、俺もそっちのビルへ。
この辺りは、似たような雑居ビルが林立している。とにかく今は、可能な限り現場から離れないと。
柵を飛び越え、幅の広い通りを、持っていたフック付きロープで渡り、気が付けば俺たちは、高架橋が影を落とすエリアに逃れることができた。
「ったく、な、なんなんだよ、いったい!?」
「孝人さんっ、あのゲート、何が書いてあったんですか!?」
息を整えつつ、俺はゲートの銘板そのままを口にした。
「日本国、東京都、足立区、だってさ」
「……合言葉や、呪文の詠唱でもなく、ですか?」
「あれにセキュリティを施した奴は、魔界で日本語が読めるやつがいるのを、想定してなかったんだろ。例えば、俺たちみたいな」
バカみたいな話だけど、それしか思い浮かばない。
「他のゲートの言葉も読めてたら、別の世界に行ってたかもね」
「信じられない」
「うん。俺もだよ」
それから俺たちは、しばらくしゃべらずにいた。
少なくとも俺にとっては、これは予想外すぎる出来事だ。冷静になりたくても、判断材料がなにもない。
できることと言えば、
「まずは、何か食べようか」
「……そうですね」
俺たちは屋上の出口付近で、外から見えない位置に座り、ザックから食料を取り出す。
カロリーバーが五本づつ、行動食に貰ったサンドイッチに、万が一のためにと持ち込んでいる煎り豆と煎り麦が小袋に一つづつ。
あとは、しおりちゃんが持っていた干し果物ぐらいだ。
「サンドイッチは食べきっちゃおう」
「そうですね。カビや腐敗の問題もありますし」
モック・ニュータウンは乾燥しがちで、森や緑獄でない限り、カビの問題はほとんど気にしなくてよかった。
ただ、一部素材の劣化や分解が早かったりするけどな。
水を飲み、食事をとり、果物をつまんだところで、ほっと一息。
「ごめんね。うかつすぎた」
「そういう指摘も可能ですが、地名を読んだだけで転移ゲートが起動する、なんて事態、想定しろというほうが難しいですよ」
「うん。でも、やっぱりごめん」
よし、とりあえずこの場の謝罪は終わり。
あとは無事に帰ってから、別件でお詫びをすることにしよう。
「そういや、あのゲート、大丈夫かな」
「……おそらく、望み薄ではないかと」
あの芋虫野郎、派手に壁ぶっ壊してたしなぁ。
そういやあの化け物、川に逃げ込んでそれっきりだったな。
「あいつ、どうなったかな」
「……東京の河川は、生活排水などで汚染がひどいと言いますし、できれば化学物質や雑菌などに負けていただきたいですが」
「ホラー映画だと、耐性つけて暴れまわるってのが定番だけどね」
ダメだ、事態を把握しようとすると、先行きの悪さだけしか思い浮かばない。
こうなったら、
「寝ようか」
「ですね。行動は、明日の夜になったらにしましょう」
「じゃあ交代で、見張りを立てよう。先に寝てくれていいよ」
俺たちは、持参した毛布をかぶって、全身を覆い隠す。こんな偽装でどうにかなるとも思えないけど、無いよりましだ。
「では、すみません。お先です」
「おやすみ」
しおりちゃんが眠りについたのを確認すると、俺は改めて、夜でも明るい東京の夜景を見下ろす。
まさか、再びこの光景を見ることになるなんて。
「もしかして……俺の『体』に引っ張られた、せいなのか?」
休んでいる彼女に聞こえないように、俺は小さな声で、つぶやいた。




