piece1:孤独の国の子供達(5)
「そろそろ終わりにするか」
カインは名前も知らない少年の前に立ちはだかる。
「こんなくだらないお遊びに、いつまでも付き合うつもりはないんでな」
「……は。お遊びか……言ってくれるじゃないか!」
いつの間に拾い上げたのか、少年の手の中にはすでに短剣が握られていた。
少年はそれを真横に振るう。
カインは咄嗟に後方へと飛び退くが、それでも切っ先はわずかに胸の部分を切り裂いた。
とはいえ、傷そのものはない。
上着が浅く斬り裂かれただけだ。
「……ふざけるなよ。ふざけるなふざけるなふざけるな! こんなチャンス、もう二度とないかもしれないんだ。これを逃せば、また僕はこの箱の中で……何もない暗黒の中で永遠のような時間をたった一人で過ごさなくちゃいけないんだ! そんなの……そんなこと、もう二度とごめんだ!」
少年は真っ直ぐにカインを睨みつけ、犬歯をむき出しにして吼えるように叫ぶ。
「あんたに……あんたに僕の何が分かるんだ! 今日まで、僕がどれだけの時間をこの箱の中で孤独とともに過ごしてきたか、あんたには想像もつかないだろう!? 気が遠くなるような時間を、たった一人で過ごすんだ。言葉を交わす相手もいない、考えることはいつも絶望ばかり。いっそのことこのまま消えてしまいたいと、どれだけ願ったことか……!」
少年は奥歯を砕きそうなほどに強く噛み締める。
だが、その言葉を受けてもカインの表情は動かない。
「……言いたいことはそれだけか?」
あまつさえ、心底どうでも良いような口調でその先を促した。
少年の目つきがさらに鋭くなり、わずかに血走る。
それさえも無視して、カインは淡々と先を続ける。
「お前のそれこそ、今その人に言った被害妄想そのものだろう。自分ができないことを、他人に当たるな」
「お、前は……一体、何様のつもりだ!? 何も知らないくせに、何も理解できないくせに、うわっつらだけで知った風な口を叩くな!」
叫び、少年は再びその手に握る短剣を振るう。
直後に、確かに肉を切り裂いた手応えが少年の手に伝わった。
赤い雫がいくつか、宙を舞って草原の上に飛び散って落ちた。
「…………」
切り裂かれたのはカインの左腕の上腕部。
上着や衣服ごと切り裂かれ、その中からのぞく地肌と一緒に、斜め一直線の真新しい傷から血が流れている。
「は、ははは。ははははは……」
自らの手に握る短剣の切っ先に付着した血を見て、少年はおかしそうに笑う。
「こんな……こんなもんじゃないさ。僕が孤独の中で受けた痛みは、こんな生易しいものなんかじゃない! そうさ、所詮痛みなんてものは一瞬のものだ。けど、僕は違う。僕の受けた痛みは、それこそ拷問のようだったよ。何度も何度も、同じ傷口の上から新しく傷をつけていくようにね! そのうち傷口そのものが麻痺して、何も感じなくなるんだ。だけど、痛みを覚えてしまった体は傷がなくなっても痛むんだよ。痛みを忘れることさえ許さないように、忘れたことに呼びかけるのさ。何度も何度も、何度も何度も何度も何度もね!」
大きく息を切らし、少年は肩で呼吸する。
カインはその言葉を全て、真正面から受け止めていた。
それでいて、やはりその表情には何の変化も見て取れない。
その態度がさらに少年を追い詰める。
見下されていると、少年はそう感じ取った。
自分の内側で、何かがブツンと音を立てて切れるのが分かった。
「……なん、だよ……その、目。そんな目で、見るなよ。……ウザイ、お前……ウザイよ。もう、いいからさ……早く、死ねよ……」
ふらふらとした足取りで少年は前に進む。
カインは動かない。
その手の中にむき出しの刃が光っているのを理解してなお、動こうとしない。
二人の距離が縮まる。
そして、ついに。
「……消えろよ」
呪いのように呟いて、少年の手の中の短剣がカインの体に吸い込まれていく。
だが……。
「……確かに」
少年の短剣を握った手は、寸前のところでカインの手によって掴まれていた。
わずかに震えるその切っ先は、もうあと数センチで確実にカインの腹部を貫くだろう。
それこそ、少年が前のめりにあと少し体重を傾ければ、それだけですむ。
「お前の言うとおりかもな。俺にはお前の苦しみや悲しみを理解できないし、できるとも思えない」
それなのに、短剣を握る手はどうしてもそれ以上動かない。
カインが特別強い力で手首を捉えているわけではない。
その手は、ほとんどそっと添える程度の力しか加えられていない。
「けどな、そんな俺にも理解できることはあるんだよ。少なくとも、お前が味わってきた孤独ってのだけは、理解してやるよ」
「……な、にを、今更……お前なんかに、分かるはずが」
「分かるさ」
迷いのない答えだった。
その言葉は特別な説得力があったわけではない。
人をひきつける何かがあったわけでもない。
それでもその言葉だけは偽りのものではないのだと、少年は直感でそう理解した。
理解してしまった。
これだけ否定したにもかかわらず、どうしてかその言葉だけがすんなりと内側の部分まで入り込んできてしまった。
わけが分からない。
考えるのもバカらしい。
何を迷う必要があるというのか。
さっさとその右手に力を入れて、目の前の目障りな男を黙らせてしまえ。
脳は確かにそう命令をしているのに、それでもその手は動かなかった。
それどころか、短剣を握る手が自分の意志とは別に小刻みに震え始めていた。
しっかり握っていたはずの指が解け、柄の部分が手のひらの汗で滑り出す。
「……いい加減な、ことを……言うな。騙されるものか……そんな、口からでまかせに、決まって……」
「……違うよ。でまかせなんかじゃない」
ふいに聞こえたのは、カインとは別の声だった。
わずかに視線を移せば、そこには先ほどまで気を失って倒れていたアリスが起き上がり、とても悲しそうな目で少年を見ていた。
「……次から次へと、適当なことばかり言いやがって……!」
「そんなことない。カインさんは、孤独の苦しみを誰よりも深く理解している。だって私は、この人に助けてもらったんだもの」
「……え?」
「……私もね、今のあなたと同じ場所にいた。ずっと一人ぼっちで、誰の目にも触れない場所に」
「…………」
「毎日、同じことばかり考えてた。何でこんなことになっちゃったんだろう。いつからこんなことになっちゃったんだろう。私はどこの誰で、どこから来てどこへ向かっているんだろう。ずっとずっと考えてた。永遠のような時間の中で、同じことばかりを」
言いながらアリスは静かに目を閉じる。
「消えちゃいたいって、何度も思ったよ。けど、ダメだった。消えたいって思ってるくせに、心のどこかでは怖い、消えたくないって思ってた。誰か助けてって、ずっとずっと叫んでた。叶わないって分かってた。願いも望みも祈りも何もかも、こんな場所にはないんだって、そう思ってた。だけど、それでも……」
アリスは目を開ける。
そしてカインの背中を見て言う。
「……この人は……カインさんは、私に手を差し伸べてくれた。何が起こったか分からなくて迷ってた私の手を強引に引っ張り上げて、引きずり出してくれた。『何やってんだよ、そんなとこで』って。『お前の居場所は、そこじゃねーだろ』って。気付いたら私は、当たり前のようにそこにいた。カインさんの隣に、ちゃんと自分の足で立ってた。立つことができたの」
「……はは、なに、それ……? 遠回しに自慢してるだけじゃないの、それって? 自分は運よく助かったって、ただそれだけのことでしょ?」
「そうかも、しれない。運がよかったと言われれば、私はそれを否定しない。けど、私は……私は、それを理由にして他の人を犠牲にしてもいいだなんて思ったことはない」
「……な、に?」
「あたなのしていることは、そういうことだよ。おもちゃを買い与えてもらえない子供が駄々をこねているのと同じ。そんなんじゃ、誰もあなたのことなんて理解してくれない」
「っ、次から次へと、好き勝手ばかり言いやがって……!」
「……だから、でしょ?」
「……あ?」
「だから、選んだんでしょ? 自分のことを理解してくれるであろう、同じ子供達ばかりを」
「っ!?」
「……あなたは、寂しかっただけ。孤独が怖くて、仕方なかっただけ。だから、話し相手がほしかった。遊び相手がほしかった。自分の声を、一番近くで誰かに聞いてほしかった。それだけなんでしょ?」
「……ち、がう。僕は、そんな……こと……」
すとんと、少年の手の中から短剣が落ちる。
両手の震えが止まらない。
膝ががくがくと笑う。
「僕は、そんな……そんなものを、望んでいたわけじゃ……!」
震える両手で頭を抱える。
膝は折れ、少年はその場に座り込んだ。
どれだけ否定の言葉を吐き出しても、全身の震えは止まらなかった。
溢れ出そうになる感情は、何と呼ぶべきものなのか。
それさえも分からないでいる少年の肩に、しかしその手は添えられる。
「……さっきも言ったが」
カインはその場にしゃがみこみ、少年と同じ目線の高さで語る。
「どう言葉を取り繕ったって、俺にはお前の苦しみや悲しみを消し去ってやることはできねーよ。俺はお前じゃないんだからな。けどな」
一度言葉を区切り、カインは真っ直ぐに少年の目を見る。
「お前のその孤独を、少しだけ持ってってやることくらいはできる。代わりに、少しだけ希望を与えてやるよ。多分それが、お前に欠けていた最後のピースだと思うからな」
それだけを言うと、カインは懐からそれを取り出す。
それは、小さな銀の鍵。
カインはそれを、無言のまま少年の胸の真ん中にそっと押し付ける。
次の瞬間、鍵はするりと溶け込むように少年の胸に吸い込まれた。
そしてカインは鍵を開ける。
永遠のような時の中でとっくに錆び付いてしまっていたであろう、小さな箱の蓋を。
かちりと、聞こえないはずの音が響いた。
少年の胸に穴が空く。
その中は、真っ暗な闇に包まれていた。
カインはその中に、迷わず手を突っ込む。
「――置いていくぞ。お前がなくした、お前自身の最後の欠片を。今度はもう、そう簡単に手放すなよな」
言って、カインは静かに手を解く。
その中から、真っ白な光が落ちていく。
暗闇だけだった少年の心を、優しく照らしていく。
「あ、あ……」
少年は声にならない声で呟いた。
満たされていく。
そんな感覚が、虚ろではあるが確かにあった。
そして…………。
あれから丸一日が過ぎた。
世間であれだけ騒がれていた児童連続失踪事件だが、今日になってそのほとんどが無事に解決したらしい。
ほとんどというのは、いくつかの通報は事件の騒ぎに乗じたたちの悪いイタズラであることが分かったからだ。
実際に行方不明とされていた児童は全て所在が明らかになり、無事家族に保護されたとのことだ。
もしかしたら、数日の間はこの内容がニュース番組を占拠することになるかもしれない。
そんな中、事件の解決に唯一関与した特殊調査員はというと……。
「カインさん、カインさん。起きてください」
「……ん」
肩を揺らされる感覚でカインは目を覚ました。
「何度も言いますけど、寝るときはソファじゃなくてベッドを使ってください。そんな格好で寝てたら、体のあちこちが痛くなっちゃいますよ?」
「……また、眠ってたのか」
カインは寝ぼけたままの目で壁の時計を見た。
時刻はちょうど午後の三時を回ったところのようだ。
「あ、そうそう。お手紙が届いてましたよ。テーブルの上に置いておきましたけど、私は一足先に読ませてもらいました」
「手紙? 誰から……」
カインは寝ぼけ眼のままテーブルの上の封筒を取る。
すでに封は切ってあったが、カインは差出人の名前を確認する。
その名前を見て、わずかだが眠気が飛ぶ。
麻生京子。
それは、先日の事件の依頼人の名前だった。
カインは黙って中の手紙を引っ張り出し、そのまま無言で文面へと目を泳がせる。
ものの一分で内容を読み終えると、カインは手紙を封筒の中にしまって再びテーブルの上に戻した。
「何はともあれ、無事に解決してよかったですね」
一足先に文面を読んでいたアリスが嬉しそうに笑う。
手紙を読む前から、アリスのその反応で内容の方は大体予想がついていた。
そして、その通りの内容がそこには書かれていた。
「とりあえずは、な。だが、終わってみれば色々と面倒だったな」
「何がですか?」
「誰かさんが後先考えずに無茶な行動に出るから、その後始末が大変だったってことだよ」
「あ、あはは……。で、でもまぁあれですよね。終わりよければ全てよしって言うじゃないですか?」
「……全てよし、か。実際、全部が全部よしとしていいものではなかったけどな……」
「……カインさん?」
一拍の間を置いて、カインは言う。
「……お前を、巻き込んじまったからな」
「あ……」
ぽつりと呟いて、カインはまたソファの上に横になってしまう。
アリスは少しだけ複雑な気分なってしまう。
確かに事件は無事に解決したが、本当の意味で全てが丸く収まったというわけではなかった。
その原因はアリスにも少なからずあるわけで、そういう意味ではカインに対して謝罪の一つでもしておくべきだった。
「あの、カインさん」
「…………」
呼びかけるが、カインは応えない。
怒っているのかもしれない。
アリスはそう思ったが、おそるおそるカインの顔を覗き込んでみた。
「カインさん、あの……」
そこまで言いかけて、アリスの言葉が止まる。
「また、寝てる……」
カインは目を閉じ、小さな寝息を立てて再び寝入ってしまっていた。
アリスはその平和そうな寝顔に対して呆れつつも小さく笑い、謝る代わりに隣の部屋から持ってきた毛布をそっと体にかけた。
そして、聞こえないように小声で呟く。
「お疲れ様でした、カインさん。それと……心配してくれて、ありがとうございました。嬉しかったです」
こうして今日も一日が過ぎていく。
雨上がりの空はどこまでも晴れ渡り、雲一つない青空が広がっていた。
そんな天気のいい日、事務所のベランダには洗濯物を干すかわいらしい少女の姿があったという。
最後までお付き合いいただいてありがとうございます。
ここまで読んでくださった方々に改めて報告というか注意点をつけさせていただきます。
本作「PUZZLE」は全てが一貫したストーリーというわけではなく、数話からなる短編集のような構造になっています。
ですので、次回からはまた違う視点からのお話が新しく始まることとなります。
各シリーズの最終話にこういった警告をつけておきますので、どうぞご了承ください。