piece1:孤独の国の子供達(4)
「…………」
「どうしたの、ジン?」
急にその場で立ち上がった少年に対し、もう一人の少年は聞く。
「……うん、何でもないよ。ごめんね、ちょっと用事を思い出したから、行ってくるよ」
「え……」
途端に少年は不安そうな顔になる。
それに対して、ジンと呼ばれた少年は静かに微笑んで答える。
「大丈夫。すぐに、戻ってくるよ」
「……分かった。僕、待ってるから」
「うん。ありがとう、ユウヤ」
ユウヤと呼ばれた少年は小さく頷いた。
直後に、ジンの姿がその場から陽炎のように消える。
「……ここ、は……?」
「…………」
光のトンネルを抜け、京子とカインはそこへやってきた。
今、二人の目の前に広がる光景はどこか現実離れしているものだった。
立っているのはどこまでも無限に続くような大草原で、空の色は透き通るようにどこまでも青い。
地平線を境に、緑と青の二色でしっかりと分割されている。
周囲をどれだけ見回しても何もなく、建造物はおろか木々の一本、動物一匹の姿さえ見当たらなかった。
「私達、は……どこに……」
「……ここが『箱』の中ですよ。アリスと、そしてあなたの息子がいる場所です」
「箱の、中……? ですが、私達はクローゼットの壁の中に……」
言いながら、京子は自分の頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを感じた。
どういう理屈で何が起こっているのか。
現実では説明のつかない奇異な出来事であるからこそ、それを無理にでも科学的に、合理的に解釈してしまおうとして思考がこんがらがってしまっているのだ。
「どれだけ理屈で考えてもムダですよ。ここはそういう場所なんです。それ以外に説明できる言葉はないですから」
「あなたは……あなたは、本当に……」
何なのかと、言葉にはならずともその目が訴えていた。
カインはわずかに目を細め、そして京子から視線をはずして独り言のように告げる。
「……現実っていうのは、不必要なものを片っ端から廃棄する傾向がある。それは世界とて例外ではない。不必要とされて捨てられた世界は、自分達の形を保つために箱という形態をとることに成功した。四方八方を壁で覆うことによって、自分達の世界がそれ以上外側に漏れていかないようにするために」
「…………」
京子はカインの言っている言葉の意味など一割ほども理解してはいないだろう。
しかし、それに対していちいち説明を付け加えることなどなく、カインは淡々と箱についての定義を述べていく。
「箱となった世界は、普段は現実から隔離されてこちら側に干渉することはない。だが、稀に箱の世界と現実の世界の間に歪みのようなものが生じ、限りなく同化に近い現象が起こることがある。俺達はそれを『帰化』と呼んでいる」
「帰化……?」
「もとは現実の中にあったはずの世界が弾かれ、箱となった世界が再び現実に回帰しようとする現象。一般的な言葉に置き換えるのなら、それは神隠しとか、超常現象とか、そんな呼ばれ方をする」
箱がもといた現実に帰ろうとするがゆえに、帰化。
「その手始めとして、まず『アレ』は手近にあるものに干渉する。そこから箱の中へと引き込んで、時間をかけて少しずつ『浸蝕』していく。そして最終的に、完全に入れ替わる」
「……入れ替わる? それは、まさか……」
不穏なワードに京子の顔色が蒼ざめる。
「そう。言葉の通り、存在そのものが入れ替わる」
「……っ!」
「ここで恐ろしいのは、アレはただ入れ替わるだけではなく、入れ替わりを行った器の記憶を支配し、改ざんするということ。今の状況に例えるのなら、このまま浸蝕が進めばあなたの息子さんは最初から現実の中に存在しなかったことになり、それが当たり前になる。同時に、息子さんに関する記憶をもつ全てのものから、その記憶が消える」
「そ、んな……じゃあ、ユウヤはどうなるんです? 一体、どこに行ってしまうんですか……」
「……浸蝕が完全に終われば、文字通り入れ替わる。つまりは、代わりに箱の中に閉じ込められ、簡単に出てくることはできない」
「…………」
全てを聞き終えて、京子はがくんとその場に膝を折った。
言葉を全て理解し、納得できたわけではない。
だが、漠然とでも事態の深刻さは理解した。
だからこそなおのこと、そんな理不尽をはいそうですかと受け入れることはできない。
「ふざけないで! あの子は、必ず取り戻します! こんなわけの分からない場所に置き去りにするなんて、できるものですか!」
京子は叫ぶ。
が、カインは極めて冷静にその言葉を聞き流し、その上で続ける。
「その言葉、俺ではなくそこにいるやつに言ってやってくれ」
「え……?」
カインは真っ直ぐに視線を向ける。
京子もその先を追うが、そこには何もない。
どこまでも同じ景色が続いているだけで、誰の姿もありはしなかった。
しかし、その何もない場所に向けてカインは言う。
「いい加減に出てこいよ。さっきからずっと様子を見ているようだが、ばれてないとでも思ったか?」
「何を、言って……」
そこまで言いかけて、京子は言葉を失った。
目の前の空間が、ぐにゃりと捻じ曲がっていたからだ。
「へぇ」
そしてその中から、子供の声が聞こえたからだ。
「どうやって箱の中に潜り込んだのかは知らないけど」
景色が歪み、捻じ曲がった穴の中から一人の少年が姿を現した。
「興味深いね。色々と聞きたいこともあるんだ」
穴が消える。
そのあとには、また元通りの草原と青空だけの広がる景色がどこまでも広がっていた。
京子は目の前で起きたことが理解できず、口を閉ざしていた。
「奇遇だな。俺もお前に聞きたいことがある」
反面、カインは表情一つ変えずに目の前の少年を睨むように見据え、言葉を続けた。
「アリスをどうした?」
「アリス? ああ、さっきの女の子のことかな? だったら安心していいよ。まだ殺してないから」
少年は微笑みとともにそう答えた。
「それに、不思議な子だけど僕には興味がないんでね。もうしばらくすれば浸蝕も完全に終わるだろうし、手を出す理由もないし」
「……そうか」
「彼女は返すよ。ほら」
少年が軽く指を鳴らすと、カインの隣の空間が先ほどと同じように捻じ曲がった。
そしてその向こうから、気を失ったアリスの体が放り出されるように飛び出してきた。
「アリス!」
わずかに声を上げ、カインはその小さな体をしっかりと抱きとめる。
アリスはそれでも目を覚まさなかったが、見たところ外傷もない。
すぅすぅという浅い呼吸の音を聞き取って、カインようやく安堵の息をつく。
「安心しなよ。気を失ってはいるけど、どこもケガなんてしてないから」
少年の言葉に対し、しかしカインは何も答えなかった。
代わりに言葉を発したのは、その隣で両膝を折っている京子だった。
「……あの子は……ユウヤは、どこなの?」
「は?」
少年は今頃になってようやく京子の存在に気づいたように、呆れたような声を漏らす。
「いるんでしょ? 返してよ……私の息子を、返しなさいよ!」
「……何、これ? つまらないものまでくっついてきちゃったなぁ」
しかし、少年はまるで汚いものでも見るような視線で京子を一瞥すると、実に不愉快そうに首に手を当てる。
「いいから返しなさい! ここにいるのは分かってるのよ! 息子は……ユウヤは、どこにいるの!」
「ああ。なんだ、そういうことか」
と、少年はようやく京子の言葉の意味が分かったかのように一人頷く。
その上で……京子がユウヤの母親であると理解した上で、少年は言う。
「――返すわけないじゃん。やっと見つけた大事なエサなんだ、そう簡単に手放すわけにはいかないよ」
「な……」
表情一つ変えない微笑のまま、少年は言い切った。
その上で絶望の色を見せる京子に向けてさらに言葉を続ける。
「何て顔してんのさ。もとはといえば、あんたがそういう風に息子を育てたんだろ? 孤独の中に落とし込んで、籠の中で飼いならしてきたんじゃないか」
「……私、が……? そん、な……私はただ、あの子の……ユウヤのためを思って、ただ、それだけ……」
その言葉を受けて、少年はその場で大きく笑い出した。
「あははははは! 何? こいつ、何言ってるの? もしかして分かってないの? 全ての原因が自分にあるって、ここまできてまだ何一つ理解できてないの? どこまでめでたいんだよ、お前」
突き刺すような言葉だった。
少年は一通り笑うと、追い討ちのようにさらに言葉を畳み掛ける。
「教えてあげるよ。あいつがどんな思いで、僕の言葉を受け入れたのか。ユウヤはね、もう嫌なんだって。お前みたいな親の子であることが、苦しくて仕方がないんだってさ。来る日も来る日も勉強ばかり。友達と遊ぶこともできず、クラスの中では陰湿なイジメにもあっている。そんな現実が嫌で、逃げ出してしまいたかったんだよ。だから僕は手を差し伸べたのさ。全てから開放されて、楽になれる簡単な方法があるよってね。だから、今のユウヤはとても生き生きとしているよ。時間を気にせず遊んだりできることが、楽しくて仕方がないのさ。もっとも、それも残すところあとわずかの時間なんだけどね」
「……え?」
「話聞いてた? 僕の浸蝕が間もなく終わるんだよ。そうすれば、僕がユウヤの代わりに現実へ回帰する。代わりにユウヤには、この箱の中に永久に残ってもらうけどね。でも、どっちもどっちでしょ? 今更現実に戻ったって、何も変わりはしないんだから。それだったら、苦しみや悲しみがないだけ、現実よりも箱の中の方がまだマシだと思うけどね。代わりに永遠の孤独を味わってもらうことにはなるけど……別に大差はないよ。だって、どうせ友達の一人もいないんだから」
言い終えて、少年はさらに大声で笑った。
その笑い声を、わざとらしく京子に聞かせ続けるように。
記憶の隅々にまで刻みつけ、より深い絶望へ突き落とすように。
「私、は……」
京子は両膝を折ったまま、もう立ち上がることさえできなかった。
少年の言葉の一つ一つが全身を突き刺したからではない。
うっすらと心の中では気付いていながら、それでも気付かないフリをして接してきた我が子の苦しみや悲しみに対して、結局最後まで何もしてやれなかった自分自身が、他の誰でもない自分自身が情けなくて仕方がなかったのだ。
何があの子のためだ。
何が将来のためだ。
本当に大切なものは、そんなことじゃなかったはずだ。
今にして思えば、もう長い間我が子の笑顔というものを見ていない気がする。
見ていたのは、全部作り物の笑顔に過ぎなかった。
小さいながらに親の期待に応えようとして、いつの間にか表情を作ることさえ覚えてしまった我が子の、痛々しい笑顔だけだった。
そんな大事なことに、今頃になって気付かされた。
「……ごめ、んね……。ユウヤ、本当に……ごめ……」
京子はその場で泣き崩れた。
どれだけ謝っても、その言葉は我が子には届かない。
知ってなお、謝らずにはいられなかった。
カインの言ったとおりだった。
自分は本当に、何も分かっていなかったのだ。
「……はぁ。何なんだろ、こういうの。まるで僕が悪人みたいじゃないか。被害妄想ってのは便利だよね。そうやって誰かのせいにして罪をなすりつけておけば、簡単に自分を正当化できるんだから。でもさ」
言いながら、少年は目の前の空間に手を伸ばす。
空間が歪み、小さな穴が開く。
その中から引きずり出した、それは
「いい加減に目障りだからさ。そろそろ……死んじゃいなよ?」
刃渡り四十センチほどの、銀の刃を持つ短剣。
少年はその短剣を逆手に持ち、足元にひざまずいて動かないままの京子の首筋に狙いを定める。
「バイバイ、お母さん」
嘲りを含めた声でそう言うと、一瞬のためらいもなく短剣を振り下ろした。
京子はその切っ先をジッと見つめていた。
逃げようとは思わなかった。
そうすることが償いになるのならば、それでいいと。
……だが。
「――いい加減にしろよ、クソガキ」
その声に少年が気付いたときには、頬骨をえぐるような重い一撃が全身を横方向に吹き飛ばしていた。
「が、あ……!?」
ごろごろと草原の上を転がり、少年の体は数メートルほど吹き飛ばされた。
その拍子に右手に握っていた短剣もどこかへ落としてしまう。
「く、そ。どういうつもりだ……」
口の端の血を手の甲で拭いながら少年は起き上がる。
そして真っ直ぐに、自分を殴り飛ばした男……カインを見据える。
「あんたには、関係ないだろう」
「そうでもないさ。紆余曲折はあったが、俺はそこの人の仕事を請け負ってるんでな。依頼人に死なれたら色々と困るんだよ。それに」
付け加え、カインは今度こそ明らかな敵意を持って少年を睨みつける。
「どういう理由があったにせよ、お前がこいつに手を出したのは間違いない」
言って、カインは視界の端で今も気を失ったままのアリスを見る。
よく見るとうっすらとではあるが、その首筋には圧迫されたような赤い痕が残っている。
「それだけで十分だ。覚悟はいいな」
それは明らかな宣戦布告。
一切の容赦をせずに叩き潰すという、カインの意志。
「もう一度箱の中で眠ってろ。永遠にな!」