piece1:孤独の国の子供達(3)
「どうぞ」
京子に案内され、アリスはその部屋の中に入る。
「ここが、ユウヤ君のお部屋ですか……?」
四角く区切られた目の前の空間を見て、アリスは何とも言えぬ妙な感覚を覚えた。
生活感がない……といったような感覚とは違う。
何と言うか、漠然とした意見でうまくまとめられないのだが、それらしくないというのがアリスの率直な感想だった。
まだ遊び盛りであるはずの少年の部屋にしては、欠けているものがあまりにも多すぎる。
おもちゃやゲームの類のものは何一つ見当たらないし、本棚の中に収まっているのは参考書や問題集ばかりだった。
壁にもポスターなどは一切貼られておらず、並んでいるのはいくつもの賞状やトロフィーばかり。
それがおかしいとは断言できないが、アリスは素直に異常であると思った。
「……すごいですね。きちんと整理整頓されてるし、聡明なご子息なのですね」
京子の手前なのでアリスは言葉を選んだが、実際に得た感想はそれとはまるっきり逆のものだ。
「ええ、本当によくできた子です。私にはもったいないくらいにね……」
そう答える京子の顔はわずかにだが微笑んでいた。
一人の親として、やはり自分の息子を誇りに思っているからだろう。
だが、同時にそれはカインの言っていることが間違いのないことであることも裏付けてしまう。
そのとき、ちょうど家の中から電話の鳴る音がした。
「あ、ごめんなさいね。ちょっと出てきますから、自由に見てくださって結構です」
「はい、分かりました」
そう言い残すと、京子は階段を下りて一階へと戻っていく。
アリスはその後姿を見送って、静かに部屋の扉を閉じる。
部屋の中はわずかに埃っぽかったが、生活臭がまだ残っていた。
行方不明になって今日で五日が経過しているわけだが、その程度では部屋のあちこちに染み付いた臭いというものは簡単に消え去るものではない。
アリスは部屋の隅々にまで目を通し、何か異変がないかを調べていく。
聞いた話を参考にするならば、ユウヤはこの部屋から忽然と姿を消したということになる。
失踪した当日、ユウヤが通っている進学塾の講師が家に電話をかけたそうだ。
いつも時間通りにきているユウヤがなかなか来ないので、心配になって電話をしたらしい。
そのとき、ユウヤはその電話を取ったそうだ。
そして電話越しに、具合が悪いので今日は欠席するという旨を伝え、そのまま電話を切ったそうだ。
進学塾側がその電話をしたのは夕方の六時少し前。
その後京子が仕事を終えて帰宅したのが夜の十一時半頃。
空白の時間は五時間以上もあるが、ユウヤの荷物や財布を含めた身の回りのもの、そして靴が家の中に残されており、何よりも玄関の扉とすべての窓に鍵がかかっていたことを考えると、家から外に出たということは考えにくい。
そうなると、ユウヤは何らかの原因で家の中から忽然と姿を消したということになる。
常識的に考えれば、それはまず考えられない現象だ。
それこそ、あの新聞の見出しで騒がれていたように神隠しにでも遭遇してしまったかのよう。
「……カインさんは、ああ言っていたけど」
アリスは思い出しながら呟く。
「まんざら、でたらめな表現というわけでもなかったのかも。こんなことができるのは、やっぱりアレが絡んでいるとしか……」
言いながらアリスは部屋の中を歩く。
改めて眺めて見ると、やはりこの部屋はどこか不気味な雰囲気を漂わせている。
その正体はおそらく、子供らしさの欠落だ。
とても十歳の少年の部屋には見えない。
それこそ、アリスの目にはこの部屋がまるで
「……牢獄。いえ、鳥籠と呼ぶべきかしら」
外界と完全に隔離された、断崖絶壁に囲まれた海洋上の孤島のように見えて仕方がなかった。
こんな部屋で毎日を過ごそうものなら、それこそ数日で狂ってしまいそうなほどに。
「けど、肝心なのはどこからどうやって消えたのか……」
アリスは再び視線を部屋のあちこちにさまよわせる。
「……もしかしたら、別の部屋から消失したのかも。一応、京子さんに頼んで他の部屋も見せてもらったほうがいいかも」
アリスは一度部屋を出て一階の京子に話をしようと、扉のドアノブを握り、そのまま扉を引こうとして
「……っ!?」
その瞬間、言葉では言い表せないような冷たい感覚を背中に感じた。
反射的に背後を振り返るが、やはりそこには誰もいないし何もない。
本棚や戸棚、机にベッド、そしてクローゼットが置かれているだけで、それらしい変化は何もない。
「…………」
しかし、その中で明らかに場違いな空気をまとうものがある。
例えるならそれは、目には見えない薄い膜……カーテンのようなものだった。
その気配が、ひしひしとアリスの全身に伝わってくる。
そして確信する。
やはり、現場はこの部屋であるということに。
「……そこね」
アリスは静かに歩を進めていく。
ベッドと机の間を抜け、真っ直ぐに壁へと向かって歩く。
そこにあるのは、閉じられたままのクローゼット。
正面に立ち、アリスはわずかに息を呑む。
そしてその両開きの取っ手をそれぞれ握り、勢いよく左右へと開け放つ。
その中には……。
「……何も、ない?」
クローゼットの中は当たり前のように上着などがハンガーにかけられ、それが鉄の棒にぶら下がっているだけだった。
目に付く範囲でおかしなものは何一つなく、防臭剤の香りがわずかに鼻を掠めるだけだった。
「……気のせい、だったのかしら」
アリスは握ったままだった取っ手から両手を離し、しばらくクローゼットの中を眺める。
念のため中を隅々まで調べてみたが、やはりこれといっておかしな部分は見当たらない。
どうやら本当に気のせいだったようだ。
アリスは小さく溜め息をつく。
「早く、他の部屋も調べないと」
呟いて、クローゼットの扉を閉じようとして
「……っ!?」
アリスは気付いた。
しかし、そのときには全てが手遅れだった。
一本の手が音もなく伸びる。
それはアリスの口を封じ、そのまま引きずり込んでいく。
「んー! ん…………っ!」
アリスは力任せに抵抗するが、それも効果はまるでなかった。
一本だった腕はいつの間にかもう一本増え、それがアリスの体をしっかりと捕まえていたからだ。
「…………、……!」
もはや言葉にならない声だけを残して、アリスはそのまま引きずり込まれていく。
そして……。
「ごめんなさい、電話が長引いてしまって……あら?」
二階のユウヤの部屋に戻ってきた京子は、そこで思わずそんな声を出した。
部屋の中には誰も姿もなく、扉だけが中途半端に開かれていたからだ。
それに、どういうわけかクローゼットの扉も大きく開かれている。
にもかかわらず、先ほどまでそこにいたはずのアリスの姿がどこにもなかったからだ。
「アリスちゃん……?」
その名前を呼んでみるが、やはり返事はない。
もしかしたらお手洗いにでも行ったのかと京子は思ったが、家のトイレは一階にしかないし、そこに行くためには自分が電話をしていたリビングのすぐ横を通る必要がある。
しかし、京子はアリスの姿を一階では見ていない。
では、どこに行ってしまったのか。
二階にも部屋は他に二部屋あるが、一つは旦那である誠一の書斎で、もう一つは今は使っていない空き部屋だ。
そのどちらも普段から鍵をかけているので、中に入ることはできないはずだ。
そうなると、ますますもって分からない。
一体アリスは、どこに姿を消してしまったのだろうか。
「…………」
そこまで考えて、京子の頭に嫌なイメージがよみがえる。
これではまるで、息子のユウヤが失踪してしまったときと全く同じではないか。
「そんな、まさか……」
言葉では否定しつつも、京子は混乱と動揺を隠せない。
思わずふらついた体を何とか支え、部屋の扉へと寄りかかる。
と、そこで視界の端に何かが映りこんだ。
開け放たれたままのクローゼットの扉の近くに、何か光るものが落ちていたのだ。
京子は歩み寄り、それを拾い上げる。
「これは……ロザリオ?」
銀であしらわれた、特に珍しくもないデザインの十字架のアクセサリだった。
だが、それは確かに見覚えがある。
「これ、アリスちゃんの……」
そうだ。
それは間違いなく、今日やってきたアリスが首から提げていたものに間違いない。
それがここにあるということ。
逆に言えば、それだけがここに残されているということ。
それは、何を意味しているのだろうか。
「……っ!?」
京子は思わず息を呑んだ。
だがそれは、その場で何かを感じ取ったからではない。
一階からインターホンの音が聞こえてきたからだ。
何事かとは思ったが、このまま放っておくわけにもいかないので、京子は一度一階に戻り真っ直ぐ玄関へと向かう。
そして玄関の扉を開けると、そこにもまた見覚えのある人物が立っていた。
「カイン、さん……」
「……突然ですいません。こちらにアリスがうかがっていると思ったんですが」
「そ、それが……」
カインが訊ねると、京子はなぜか不安そうに俯いてしまった。
「……何か」
あったのですかと聞くよりも早く、カインの視線は京子の手の中のそれに移る。
「それは、アリスの……?」
「……は、はい。それが、アリスちゃんが……」
答えを聞くよりも早く、カインは京子の手の中から半ば強引にロザリオを奪い取る。
「あの、バカ。……失礼、上がらせてもらいます」
京子の返答を待たず、カインは家の中に上がりこむ。
そのまま真っ直ぐに二階のユウヤの部屋へと向かい、乱暴に扉を押し開けた。
「…………」
整然とした部屋を隅々まで眺め、カインは足を踏み入れる。
異変はすぐに分かった。
大きく開かれたままのクローゼットの扉。
だが、その中にはこれといっておかしなものは見当たらない。
やや遅れて、京子がユウヤの部屋へとやってきた。
振り返らずにそれを確認し、カインは京子に訊ねる。
「これは、どこに?」
カインは手の中のロザリオを背中越しに見せながら聞く。
「……そこの、クローゼットの手前に」
「……なるほどな。思ったとおり、アレの仕業か」
「思った通りって……どういう、ことなんです?」
「…………」
カインは答えない。
その反応に不安を駆り立てられたのか、京子はさらに食いつくように聞く。
「話してください! アリスちゃんがいなくなってしまったことと、ユウヤがいなくなってしまったことは、何か関係があるんでしょう!?」
おそらくそれは直感で言ったことだろうが、事実として正しかった。
だからこそ、カインは一度振り返って訊ねる。
「京子さん、真実を知る勇気はありますか?」
「真実……?」
「これからアリスと、あなたの息子を取り戻しに行く。一緒に来る覚悟はあるかと聞いているんです」
「ユ、ユウヤを!? 本当に、取り戻せるんですか!?」
「…………」
その問いにカインは答えない。
そうすることが、全ての答えだと言わんばかりに。
「…………分かりました。いえ、お願いします。私を、あの子のいる場所に連れて行ってください!」
「……こちらへ」
カインが促すと、京子は無言で頷いてその隣に立つ。
とはいえ、二人の正面にあるのはクローゼットの中の狭い空間だけで、特別変わった様子はない。
「……あの、ですがどうやって……」
不安そうに訊ねる京子。
それに対して、カインは静かに答える。
「――蓋を開けます」
「……蓋、ですか。でも、そんなものはどこにも……」
「ありますよ」
言うと、カインは一歩前に出る。
そしてクロゼットの中にある上着やコートのかかったハンガーをまとめて隅の方に押しやって、目の前に何もない壁を出現させる。
さらに懐からカインはある物を取り出す。
それは、銀色に輝く鍵のように見えた。
そしてそれを、カインは目の前のただの壁に押し付けるように差し込み……。
直後に、その鍵は壁の中に音もなくめり込んでいく。。
「え……?」
その現象に京子は驚きを隠せなかったが、カインはそんなことにいちいち構ってはいない。
差し込んだ銀の鍵をそのまま半回転させる。
鍵本来の用途であるように、こちらとあちらを繋ぐために。
そこにある扉を、開くために。
ガチャリと、大きな音が響いた。
「今の、音は……」
「繋がりました」
「え?」
言いながら、カインはその扉を押し開ける。
そこに、
「…………っ!?」
大きな穴が空いていた。
穴の向こう側は真っ白な光に包まれているようで、こちらからでは何も見えない。
「何、ですか……これは? あなたは、一体……」
「質問にいちいち答えている時間はありません。進むか退くか、二つに一つです」
「…………」
「息子さんを助けるんでしょう?」
「……分かりました。行きましょう」
京子は真っ白な光の扉をくぐる。
その背中を最後まで見送って、カインもそのあとに続く。
こうして二人は蓋の向こうへと消えた。
その先にあるものは……箱の、中身。




