piece3:未来飛行機(2)
残りの数日はほとんど消化作業みたいな毎日だった。
クラスの連中は返却される答案用紙相手にいちいち一喜一憂していたようだが、ヤナギにとってそんなことはどうでもよかった。
テストの点数なんてものにはもともと何の興味もないし、見なくても大体の結果は分かる。
そんな風に無関心なまま数日が過ぎて、ようやく夏休み前最後の登校日がやってきた。
授業などが一切なく簡単な式と諸連絡だけで終わる半日授業だったが、ヤナギは別に何も思わなかった。
明日からいよいよ一ヶ月と少しの夏休みになるわけだが、これといって特別な予定も何もない。
周りの同年代から言わせれば人生を損しているという評価を下されそうだが、こればっかりはどうしようもない。
もともと社交性に欠ける性格だということは自負しているし、その影響で友人と呼べる人間も極端に少ない。
というより、同じクラスの中に気を使わずに接することができる人間は一人もいない。
別にそれを孤独だとか寂しいとか思ったことはない。
今までだってずっと同じことの繰り返しだったから、ヤナギにとってはそれが当たり前だった。
自分でもよく分かっていないというのが本音なのだろうが、そこのところも実に曖昧だ。
孤独であることを不幸だと思ったことはない。
もともとヤナギの両親は仕事の都合で常に世界中のあちこちを飛び回っており、家にいることなんてほとんどない。
一年に一度か二度帰ってくればいいほうだし、長いときは三年くらい家に帰ってこないことだってある。
だから、ヤナギにとって一人であることはあまりにも身近すぎて、今更そのことを考えても何も始まらないのだ。
自分にとってはそれが当たり前なのだから。
それを他人が勝手にかわいそうとかどうとか言う方がおかしいとヤナギは思う。
他人にそんなことを心配されるいわれはないし、捉え方によっては見下されているようでひどく苛立ちを覚えることもある。
だがまぁ、そんなことも些細なことだ。
関わらない。
それが結論だった。
面倒くさいから、関わらない。
そうやって今まで生きてきた。
……少なくとも、あの日までは。
あの、妙な美術部の先輩と出会った、その日までは。
特別な理由があったわけじゃない。
何となく。
ただ何となく、そこにいけばその人がいるんじゃないか。
そんな漠然とした考えなのに、どういうわけか足は動いていた。
とっくに生徒の大半が下校したあとの、しんと静まり返った校舎の中。
階段を上り、その場所へと向かう。
扉が開いていた。
立て付けの悪くなった準備室の扉が、ではない。
その隣にある、美術室の扉が半開きになっていたのだ。
「…………」
ヤナギはそこから中を覗き込んでみる。
しかし、そこには誰の姿もなかった。
ただ、奥の机の上に学校指定の紺色の鞄が置かれていた。
他にも紙袋が一つ置かれ、中には色々と荷物が詰め込まれているようだ。
ヤナギは静かに美術室の中へ入り、手前の机の上に自分の鞄を置いた。
がらんとした美術室の中には、絵の具や木材、紙の独特な匂いが漂っていた。
黒板の隅には、何やら『締め切り八月二十日』と書かれた白いチョークの文字が残っている。
何のことかは分からないが、消されていないということはメッセージか何かなのかもしれない。
ぼんやりと美術室の中を見回して、ヤナギはふと気付く。
ベランダの扉がわずかにだが開いていた。
その隙間に手を入れて扉を開き、ヤナギは灼熱の太陽が降り注ぐベランダへと立つ。
どうやら建物の構造上、ここのベランダは日中の日差しが集中してぶつかる位置取りになっているようだ。
いくら半袖の夏服を着ているとはいえ、ほとんど直射日光に近い日差しはさすがに暑い。
片腕で日差しを遮りながらベランダの奥へ向かうと、何やら物音が聞こえてきた。
少し離れた場所から覗いてみると、案の定そこにはあの人が……名前も知らない先輩がいた。
あの日、ベランダの日陰で昼寝して起きたときに出会ったときと同じように、アカネは背もたれのない木の椅子に腰掛け、目の前に立てかけた真っ白なキャンバスと向かい合っていた。
ただ、今日はその手に握られているものが絵筆とパレットではない。
「うーん……」
右手に鉛筆を握ったまま小さく唸り声を上げるアカネは、すぐ後ろに立っているヤナギのことには全く気付いていない様子だった。
絵の構図か何かに悩んでいるのか、握られた鉛筆は白い画用紙の上であちこちをさまようばかりで線を描くことはない。
しばらく鉛筆がぶらぶらと宙をさまよい、その後アカネは一度台の上に鉛筆を置く。
「ダメだー。全然いい構図が浮かばないー」
言いながらぐっと背伸びをする。
そのまま顔が背中の方までぐるんと回ってきて
「…………あれ?」
「…………」
そこに突っ立っていたヤナギと目が合う。
アカネはしばらくの間、見ているほうが首が痛くなりそうな無理な体勢のままヤナギを見ていた。
同様にヤナギも、やたら変な姿勢でこちらを見てくるアカネを見返していた。
やがて、どちらからともなく言う。
「「……何してんの?」」
夏の太陽をいっぱいに浴びながら、二人は同じ言葉を放っていた。
いつから美術室は喫茶店になったのだろう。
「……いいんですか、勝手に使って」
「ん? ああ、平気平気。ちゃんと顧問の先生には許可もらってるから」
ほんの数日前にも抱いた疑問をヤナギは口に出してみたわけだが、いとも簡単に受け流された気分だった。
別に頼んでもないのにヤナギの目の前にはアイスコーヒーが置かれているし、アカネもレモンティーを美味しそうに飲んでいる。
それどころか、この前はなかったはずなのに今日はなぜかお皿の上にクッキーまで置かれている。
これではまるで午後のお茶会である。
「いやでも、びっくりしたよ。まさか私以外にまだ学校に残ってる人がいるとは思わなかったし。それが君だなんて、もっと驚いたけど」
「……すいません。作業の邪魔をするつもりじゃなかったんですけど」
「ああ、違う違う。そういう意味じゃないってば。ただ、ちょっと意外だなーって思っただけ」
「…………」
柔らかい表情でどことなく嬉しそうにアカネは言う。
それはいいのだが、こんな光景を他の教師などに見つかったら大目玉を食らってしまうのではないだろうか。
などと、ヤナギは多少なりとも心配してそう思っていたのだが、当のアカネはそんなことなどまるで気にした素振りもなく、皿の上のクッキーを次々に口の中へ運んでは幸せそうに表情をほころばせている。
「……どうなってるんだ、うちの美術部は」
小声でそんなことを呟いた直後、レモンティーでのどを潤したアカネがふいに訊ねてくる。
「ところで、君はどうして美術室へ? 何か用事でもあったの?」
「……いや、別に」
「じゃあ、先生に用事でも頼まれたとか? あ、実は掃除当番とか?」
「……そういうわけじゃ、ないんですけど……」
改めて面と向かって理由を聞かれるとどう答えていいものか分からない。
何しろ、ヤナギがここにやってきたのは何となくだ。
それが理由である以上、さらに上塗りする理由も見つからないし、そうする理由も見当たらない。
だからそのままそれを言葉にしてしまえばいいのに、どういうわけかうまく言葉にならない。
「……ふーん。そっか、まぁいいけどさ」
言葉に詰まったヤナギとは対照的に、アカネはあまり深く考えた様子もなく結論付ける。
「……先輩は、何してたんです?」
「え、私?」
「……まぁ、大体予想はつきますけど」
「うん、まぁ……そのまんまだと思うよ」
アカネは一度美術室の中へ戻した自分のキャンバスを見ながら小さく笑った。
「……八月の終わり頃に、コンクールがあるんだけどね」
アカネはそんな口調で話を切り出す。
「他の部員は皆もう下書きが終わって、あとは各自家で作業するみたいなんだけど、私はまだ下書きどころかデッサンも終わってなくてさ。それで、最近はずっと放課後残って考えてはいるんだけど……」
「……なかなか決まらない、と」
「そう、なんだよね……」
そう答えたアカネは、ほんの少しだけ寂しそうな表情をしていた……ように見えた。
それは絵の構図に悩んでいるとか、デッサンがまとまらなくて困っているとか、そういうものとは違うような気がした。
もっと違うところを見ている視線だった。
窓の外。
その向こう見える街並み。
その先にある地平線。
青い空、白い雲、光る太陽。
それさえも見透かして、さらに遠くにあるものを見ているような。
どれだけ手を伸ばしても届かないと知っていて、それでも手を伸ばし続けているような。
無駄だと分かっているのに追い求めてしまっているような、どうしても諦め切れていないような、そんな何か。
「……今までは、こんなことなかったんだけどねー」
「……え?」
思わずヤナギが聞き返したが、アカネはそのことに気付いていない。
おそらく独り言のつもりだったのだろう。
机に頬杖をついてぼんやりとどこかを眺める横顔は、一言で言えばどこか虚ろだった。
そこにいるのにそこにいない。
ここにいるのにここにいない。
目の前にいるはずなのに、その姿が蜃気楼のように揺らいだ気がした。
「ま、悩んでても仕方ないか」
アカネは自分に言い聞かせるように呟いて、もう一口レモンティーを含む。
先ほどまで見えていたあの虚ろな表情はどこかへと消え失せ、そこには元通りの柔らかい表情のアカネが戻っていた。
そんなアカネに向けて、ヤナギは自分でもよく分からないうちに言葉を投げていた。
「……絵っていうのは」
「……ん?」
「……俺にはよく分からないけど、絵っていうのは自分の好きなものを好きなように描けばいいんじゃないんですか? そりゃ、コンクールとかで賞を取りたいのならそういう描き方も必要だろうし、テーマがあるならそれに沿ってないといけないかもしれないけど」
「…………」
「評価なんて、結局後からついてくるものでしょ。万人に認められる作品なんて誰にも作れやしない。だったら、自分が描きたいものを思いっきり描いた方がいいんじゃないですか? 芸術とかのことはさっぱりだけど、そうやってできた作品をたくさんの人がたくさんの目で見て、それぞれに何かを感じたりして。その後でしょ、評価がついてくるのは。細かいことなんて気にしないで、やりたいようにやればいいと思うけど」
一通り言い終えてから、ヤナギはわずかに苦い気持ちになった。
芸術どころか、絵にさえ関心の一つも示したことのない素人が何を言っているのだろう。
そう思ったが、アカネから返ってきた言葉は正反対のものだった。
「そう、だね。うん、やっぱそうだよね。頭では分かってたつもりだけど、人に言われると改めて実感させられるかも」
「……すいません。何も分かってないのに、俺……」
「いやいや、いいって。だって、実際その通りなんだからさ。うん、そうだよね。ありがと、何か少し、頭の奥で引っかかってたのが取れた気がするよ」
「……そう、ですか」
ヤナギはすっかり温くなってしまったアイスコーヒーを一口含む。
「ところで、一つ聞いていい?」
「何です?」
「名前。君の名前、聞いてもいい?」
「……ヤナギ。市原ヤナギです」
「ヤナギ君か。私はアカネ。鈴森アカネ。よろしくね、ヤナギ」
そう言って、アカネは手を伸ばしてきた。
ヤナギは少し迷ったが、まさかここで立ち去るわけにも行かないので、おずおずと手を出してその手を取った。
「……よろしく」
夏休みが始まる前の日だった。
何もない夏休みになるはずだった。
しかし、どうやらそうではないらしい。
二人はまだ知らなかった。
二人を巡る小さな物語が、少しずつ回りだしていたこと。
二人はまだ知らなかった。
二人がお互いのことを、何も知らないということを。
二人はまだ知らなかった。
二人はもう、一人ではなくなりつつあることを。