第九話
五日間の静養を終えて宮城に戻ると、楊様に新しい下女を紹介された。
「本日は、番様にお仕えする娘を連れて参りました。既にご存知かと思いますが……」
「連油っ」
驚きのあまり、楊様の言葉を遮ってしまった。しかし楊様は気を悪くした風もなく、「あとのことは任せたぞ」と連油に目配せし、さっさと立ち去ってしまう。
二人のあいだに、一体どのようなやりとりが行われたのかは謎だが、
「……ドジやりすぎて下女に降格された、とかじゃないよね?」
「もちろん、自分から申し出たのよ。あんたの下女にして欲しいって」
あっけらかんとした彼女に、「思い切ったことしたね」とあきれてしまう。
一方の連油は、「そうでもないわ」と強気だ。
「陛下にゴマするより、あんたに恩を売ったほうが見返りも大きいだろうし?」
そういうところは相変わらずだと苦笑してしまう。
華やかな上級宮女の衣装を脱ぎ捨て、下女らしい簡素な衣に着替えた連油だったが、紅を差さずとも唇は赤く、瞳もきらきらと輝いていて、相変わらず綺麗だなと感じた。
「……例えば?」
「あたしの意気込みを伝えたら、楊様にものすごく感謝されたわ。陛下もさぞかしお喜びになるだろうって」
意気込みって……。
何か面倒なことになってきたぞと、私は眉間にしわを寄せる。
「ちょっと、そんな顔しちゃダメよ。肌にシワが残ったらどうするの」
早速お小言を食らい、げんなりした。
「食事の支度や部屋のお掃除なんかは他の下女に任せるとして、あたしの仕事は主にあんたの身の回りのお世話だから。後宮で学んだ知識で徹底的にあんたを磨き上げるつもりよ――って、またそんな顔して。あんたの身体はもう、あんただけのものじゃないのよ。今まで以上に大切にしていかないと。この意味、わかるわよね?」
とぼけた振りして「わかりません」と答えると、連油は哀れむような顔をした。
お願いだからそんな目で見ないで。
「いくら他に好きな人がいるからって、あの陛下によろめかないなんて、あんた、本当に女?」
女よ、と即座に言い返すものの、連油は疑わしげに私を見る。
「陛下のどこがそんなにいやなの?」
声を潜めて聞いてきた。
「もしかして――――とか?」
肝心な部分が聞き取れず、えっ? と聞き返すと、連油は顔を真っ赤にして咳払いする。
「いいの、忘れてちょうだい。こんな話、しているだけで不敬罪に当たるわよね」
それから気を取り直したように背筋を伸ばすと、
「誠心誠意お仕え致しますので、ご指導を賜りますよう、よろしくお願いいたします、珊瑚様」
下女らしく、丁寧なおじぎしてみせる。
誠心誠意という部分は疑わしいけど、「珊瑚様」という響きは悪くない。
よきにはからえとばかりにうなずく私を見、連油は可愛らしく「ふふふ」と笑った。
***
「珊瑚、そんなところで何やってんだ?」
怪訝そうな表情を浮かべる翡翠に、私は慌てて「しー」と言った。
しかし時既に遅く、連油が何事かと外に出てきて、「あっ」と声をあげる。
「珊瑚ったら、また逃げようとして――」
「あんなまずいもの、絶対に飲まないからっ」
「ものすごく健康にいいのよ。肌も綺麗になるし」
「いやなものはいや」
「子どもみたいなこと言わないのっ」
このままでは、あの得体の知れない泥水を飲まされてしまうと、私は即座に話題を変えた。
「連油、覚えてる? 彼が翡翠よ。懐かしいでしょ」
ぽかんとしている翡翠を指差して言えば、
「嘘でしょ、本当にいたのね」
ひどく驚いた顔で翡翠を見る。
「翡翠も、連油のこと覚えてるでしょ?」
ぽんと肩を叩くと、突然我に返ったように「ああ」とうなずく。
それを見た連油が「珊瑚」と怖い声を出した。
「あんた、あとで説教だからね」
なんでっ、と文句を垂れる私にはかまわず、連油は食い入るように翡翠を見ている。
「翡翠様、ちょっと二人きりでお話があるのですが」
神妙な顔つきで言い、そのまま翡翠を連れてどこかへ行ってしまった。
反射的に二人のあとを追いかけようとした私に、
「番様はそこでお待ちください」
緊張した声できっぱりと言う。
しばらくして戻ってきたと思えば、翡翠の姿はどこにもなく、
「翡翠は?」
「……仕事に戻られたわ」
「連油、翡翠に何を言ったの?」
しつこく問い詰めると、「ちょっと確かめたいことがあって」と連油は降参したように白状する。
「確かめたいことって?」
「それよりあんた、さっきは翡翠様だから良かったけど、今後は殿方の肩に気安く触れないこと。異性に触れる行為は、相手を誘惑してるのと同じなんだからね」
ここ蓬莱国では、人前で肌に触れるという行為は大変卑しいとされていて、特に女性に対しては厳しい見方がなされている。治療を目的とした行為でさえ、はしたないと眉を顰められてしまうのだ。
――だからみんなこそこそと診療所に通うんだろうけど。
「……もう少し、翡翠と話したかったのに」
「心配しなくても、また来られるわよ」
「本当に? 翡翠がそう言ったの?」
言わなくても分かるのだと、連油は預言者のような顔をして言う。
「良かったわね、珊瑚。あんた、男見る目あるわ」
なぜか潤んだ瞳を向けられて、眉を顰める。
「どうしたの急に?」
「別に、ただあんたを徹底的に磨き上げようって思っただけ。あたしの力で、誰もが振り返るような、絶世の美女にしてあげる」
***
連油の言葉通り、数日後、翡翠は再び姿を見せた。連油がすぐさま彼を居間に通し、お茶を淹れてくれる。二人きりになった途端、どこか思いつめたような表情を浮かべる彼を見、私は咄嗟に逃げ出したくなった。けれどぐっと堪えて、息を潜める。
「別れの挨拶に来た」
開口一番に言われて、ああやっぱりと私は頬を強ばらせる。
「……ここを出て行くのね」
翡翠は困ったように目を伏せて、お茶をすすった。
「……どこへ行くつもりなの?」
「さあ、どこだろうな」
はぐらかすように言って、にやっと笑みを浮かべる。
「寂しいか?」
「……寂しいに決まってるでしょ」
「それも最初だけだ。俺のことなんてすぐに忘れる」
それができたらどんなにいいか。
正直、自信がない。
「忘れられなかったら?」
「忘れる努力をしろよ」
「……翡翠は、それでいいんだ?」
「かまわないさ。元から、俺は存在しないんだから」
あっけらかんとした口調で、意味不明なことを言う。
ふと、彼の目線が高くなっていることに気づいて、私は目を細めた。
「翡翠、また背が伸びたのね」
それに瞳の色も、少し濃くなっている気がする。成長した彼を見て、誰かに似ていると思った瞬間、ありえないと、私はその考えを打ち消した。
「……もう、会えないの?」
「会う必要があるか?」
聞き返されて、言葉に詰まってしまう。
「おまえに俺は必要ない」
「勝手に決め付けないで」
「腹をくくれよ、珊瑚」
突き放すような声で、翡翠は言った。
「まあ、ビビってんのは、俺も同じだけどな」
「何……言ってるのか、わかんないよ」
「ガキの遊びに付き合うのは、もう終わりだって言ってる」
はっきりとした口調で言われて、私は唇を噛んだ。
自分だって、ガキじゃないの。
「また泣く」
「……泣いてない」
もしここで、翡翠のことを好きだと言ったら、一緒に連れて行ってもらえるだろうか。
――翡翠が殺されてもいいの?
静かな連油の言葉を思い出して、私は息を吐いた。
――あんたの身体はもう、あんただけのものじゃないのよ。
「行って、私は平気だから」
涙をぬぐい、笑ってみせる。
「翡翠のことなんか、どうせすぐ忘れるもん」
「言うようになったな、おまえも」
苦笑いを浮かべて、席を立つ。
「そういえば林檎、うまかったか?」
去り際に訊かれて、私はぽかんとした。
そういえば以前、大量の林檎が家に届いたような……。
深く考えずに、「美味しかった」と答えると、
「そりゃあ良かった」
翡翠は笑って、私の前から姿を消した。