翡翠という名の少年に会いました
殺される、姉さんに見捨てられたら絶対に俺は殺される、と繰り返す仔空の、心底怯え切った顔を見て、さすがに心配になってきた。
「仔空、あんたまた借金したの?」
青白い顔ですっと黙り込む弟に、またか、と頭を抱える。
「あんた、どれだけ姉さんに恥をかかせれば気が済むのよ」
「……堪忍してくれよ、姉さん。俺だって、こんなことになるとは思わなかったんだ」
「言い訳なんか聞きたくない。いつだって同じことの繰り返しなんだから」
昔からそうだった。
飲んだくれの父親の血を濃く引いたのか、仔空は博打をやめられない。ぶん殴っても、怒鳴っても、柱に括り付けても――金輪際、博打をやめてまっとうになると口では言うものの、解放した次の瞬間には博打小屋に入り浸っている。たいてい、勝つには勝って、それなりの稼ぎがあるようだが、たまに負けると、
「姉さんっ、頼むっ、金を貸してくれっ」
大きな額の借金を作って家に戻ってくるのだ。
そのたびに、私は仔空の尻をこれでもかというほど叩き、声をからして怒鳴った。私自身少ない稼ぎで必死に家計をやりくりしているのに――食べたい物も食べられず、欲しいものも全てあきらめて家族に身を捧げてきた私に対して、何か恨みでもあるのかと、この仕打ちはあまりにもひどすぎると、涙ながらに説教した。
そして仔空は尻を真っ赤に腫らして、土下座しながら私の説教を聞いていた。「仔空、顔をあげて私の顔を見なさい」と言っても、自分が情けなくて恥ずかしくて、姉さんの顔をまともに見られないと答えた。
そして最後は、
「姉ちゃん、もうやめてあげてよ、兄ちゃんだって苦しんでるんだ」
末っ子の一鳴の、鶴の一言で私はハッと我に返り、
「あんたの尻拭いはこれで最後だから」
お決まりの台詞を言ったあとで家中のお金をかき集めて――必要とあれば給金を前借し、母の形見の装飾品を売って、お金を返しに行くのだった。
「姉さん、本当にありがとう。俺、今後こそ博打をやめるよ。まっとうになるから」
けれどご近所のおばさんから、再び博打小屋に入る仔空の姿を見たと聞いて、
「美麗ちゃん、大丈夫かい?」
裏切られた思いで泣きじゃくる私を、おばさんは懸命になぐさめてくれた。
「ありゃあもう病気だよ。うちの前の亭主と同じさ。家族が多いと、一人や二人、ああいうのが出てくるもんだ。突き放すのが一番だよ。家族だからって、甘い顔をしちゃダメさね。助けようなんて、絶対に思わない方がいい。痛い目をみるのはあんたのほうなんだからね」
その通りだと思った。おばさんの言うことは正しい。
だからこそ今度ばかりは心を鬼にして突き放すつもりだったのに、
――殺されるって……本当かしら。
思い悩む私に、畳みかけるように一鳴が言う。
「仔空兄ちゃん、騙されたんだよ。良い儲け話があるから乗らないかって、金だってちゃんと渡したのに。それなのに金は持ち逃げされるわ、金を借りた相手からは刃物を持って追いかけられるわで――俺まで巻き込まれて、ひどい目にあわされるし」
「だったらあんたが助けてあげればいいじゃない、一鳴」
「俺は無理だよ。貧乏だもん。でも姉ちゃんは金持ってるだろ?」
「持ってないわよ。私の持ち物は全部、炎帝陛下の物だもの」
「なら、その人に頼めばいいじゃないか」
簡単に言ってくれる、と何度目かのため息がこぼれる。
「あんたたちこそ、どうしてすぐに人を頼ろうとするのよ。自分で何とかしようと思わないわけ? 仔空なんて昔、そもそも騙されるほうが馬鹿なんだって母さんのことを笑っていたじゃないの。だいたい、これまでの分のお金だってまだ返してもらっていないのに、なんでまた借りようとするのよ」
「え、これまでの分はくれたんじゃなかったの?」
きょとんとする仔空に猛烈な怒りがこみあげてきたものの、
――こういう時こそ冷静にならなきゃ……。
たいてい、貸したお金は戻ってこないものだと、近所のおばさんも言っていた。
通りで金貸しが刃物を持って追いかけてくるわけだとつい納得してしまう。
「俺だって自分で何とかしようとしたさ。なぁ、一鳴」
「そうそう、金を返すためにまた別の金貸しに金を借りて……」
「そしたら金利がやばいくらいの増えて、俺らの手に負えなくなった」
私は大きく息を吐いて怒りを鎮めると、
「で、私のところへ逃げて来たってわけね」
兄弟は顔を見合わせると、
「そりゃ、逃げられるもんならとっくに逃げてるよ」
「俺ら最初、借金を踏み倒して他国へ逃げるつもりだったんだ」
こそこそと小声で話しながら、おびえた様子で当たりを見回す。
「……でも無理だ」
「あいつに見張られてるから」
「見た目はただのガキなんだけど……」
「恐ろしい奴さ。大の大人を片手で倒したんだぜ」
「それにあの目……」
「ああ、普通のガキの目じゃない」
一体誰の話をしているのかと首を傾げる私だったが、ある気配を感じてそれどころではなくなってしまう。
「やだ、睿様がこっちに向かってるみたい」
私が宮城にいないことに気づいて、捜しに来たのだろう。
延命の儀式を受けた後、見た目だけでなく様々な感覚――嗅覚や聴覚などの五感――が鋭くなった私だが、特に番である睿様に関しては、野生動物並みに勘が働くようになっていた。
今だって彼の姿は見えていないものの、近づいてくる気配を感じた。
理屈は説明できないけれど、彼だと断言できる。
ただし、先ほどから気になる気配をもう一つ感じているのだけど。
「迎えが来たみたいだから私はもう行くわ。お金は持っていないけど、いつも飛翔のために餌を持ち歩いているから、それをあげる。純金の粒よ。街で換金すればかなりの額になるでしょう。それで人生をやり直しなさい。いいわね? 姉さんが助けるのはこれで最後よ。今後、私のことは死んだものと思いなさい。他の兄弟にもそう伝えるの。分かった?」
ちゃんと理解できているのかいないのか、純金と聞いて仔空の目が輝く。
そして、金の詰まった袋を差し出そうとしたまさにその時、
「……安易に助けるのはどうかと思うぞ」
いつからそこにいたのか、弟たちのすぐ近くに一人の少年が立っていた。
深い緑色の目をした、綺麗な少年だ。
先ほど感じていた気配は彼だったのかと納得しつつも、私はつい首を傾げてしまう。
――雰囲気が、どことなく紅玉様に似てる…?
子どものくせに目つきが鋭く、威圧感を覚える。
現に弟たちは少年を見るや否や怯えて、私の後ろに隠れてしまった。
「姉ちゃん、こいつの見た目に騙されるなよっ」
「ああ、恐ろしい奴さ。逃げようとして何度こいつに殺されかけたことか」
よほどひどい目に合わされたのか、弟たちの足はガクガク、身体もブルブル震えている。
だらしがないと呆れつつも、私は弟たちを庇うように両手を広げて言った。
「お金なら返すから、弟たちには近づかないで」
少年は憐れむような視線を私に向けると、
「頭が足りない人間は他者に利用され、家族からは食い物にされる」
聞えよがしに言い、ため息をこぼす。
「何よ、私が馬鹿だって言いたいわけ?」
「反面、頭が回らないから嘘がつけない。正直者と見なされ、信用されることもある」
その淡々とした口ぶりに、私は怒るべきか迷った。
「心から弟たちを救いたいと思うのなら一緒に来い。金を渡すだけではこの者たちは改心しない。同じ過ちを繰り返すだけだ。そしていずれ身を滅ぼす」
まさか子どもに説教されるなんて思いもしなかったけれど、
「中途半端に手を出して、それで助けた気でいるのなら大間違いだ」
彼の言う通りかもしれない。
でも、
「そうしたいけど、できない事情があるの。私は炎帝陛下の番だから……彼のそばにいなくちゃ」
現にもうすぐ彼がここに来てしまうと慌てる私に、
「朱雀なら俺が足止めしておく。飛翔に乗って今すぐここを発て。行先は弟たちが知っている」
相変わらず淡々とした口ぶりで告げる。
少年がどこの誰なのかも分からず、なぜこうも自信満々に言い切れるのか不思議だったけれど、
「貴方、何者なの? 名前は?」
「……翡翠」
短く答えて、「さっさと行け」と有無を言わせぬ口調で急かす。
「さもないと怒り狂った朱雀に弟たちを殺されるぞ」
その言葉で我に返った私は、弟たちを連れて慌てて飛翔に飛び乗った。
瞬く間に地上が遠ざかっていく。
なおも怯える弟たちを横目に後ろを振り返ると、
――青い……龍?
遥か後方に、赤く巨大な鳥の行く手を塞ぐ、青い龍の姿があった。