天帝陛下の使者がお越しになりました
延命の儀式のあと、三日間眠りについた私は、目覚めると更に三日間、睿様の寝室で過ごすことになった。それはそれは濃密な時間で、思い出すだけでも顔から火が出そうになる。四日目になると、さすがにこれ以上は体力が持たないと思い、私は逃げるように自室へ戻ったのだが、
「ああ、美麗様。ようやくお戻りになりましたのね」
「あのまま陛下に監禁されてしまうのではないかとヒヤヒヤしました」
「お疲れのご様子ですから、すぐに入浴の準備を致しましょう」
お世話係の子達がすぐさま出迎えてくれて、世話を焼いてくれる。
「それにしても美麗様、少し見ない間にずいぶんと印象が変わりましたわ」
「本当に。お肌や御髪が以前よりも段違いに綺麗になられて」
「まるで人間とは思えないような……特に目の色が……」
指摘されて、「目の色がどうかした?」と首を傾げる。
「以前は柔らかな茶色でしたのに」
「今は黄金色に変わっています」
「炎帝陛下の瞳の色と、全く同じですわ」
それはさすがに気付かなかった。
差し出された鏡を見て、「本当だ」と驚いてしまう。
「それに紅も差していないのに唇は赤く、艶めいていますし」
「爪の色も鮮やかな朱色に染まっています」
「羨ましい限りですわ」
そういえば睿様も「見た目が少し変わる」と言っていた。
少しでも彼の美しさに近づけたのなら、嬉しい誤算だ。
「美麗様、炎帝陛下がお呼びです」
その日の昼頃、急な呼び出しがあって、私が慌てて睿様の執務室に向かうと、
「まあ、貴女が美麗ね。初めまして、あたしの名前は紅玉よ」
ほっそりとした肢体に抜けるような白い肌、濃紺の長い髪に神秘的な赤い瞳――彼女を見た瞬間、ひと目で人間ではないと気づいた。それは彼女が人間離れした美貌の持ち主だったせいもあるが、ほとんど直感だった。きっと延命の儀式を受けたことで、感覚が鋭くなっているんだと思う。
反射的に睿様の姿を探していると、
「炎帝陛下には席を外して頂いているわ。どうしても貴女と二人きりで話がしたかったから」
その口ぶりから、やっぱりと確信する。
「紅玉様は神獣様でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうよ。私は紅龍。まだ国を任されているわけじゃないから、普段は天上界にいるわ。今日は、天帝陛下のご命令で貴女に会いに来たのよ、美麗」
天帝陛下と聞いて、私は慌ててしまう。
「私、何か悪いことでも……」
「いいえ、むしろ逆よ。だって貴女は炎帝陛下の神名を知っているのでしょう? 彼の血を取り込んだ直後に、神名が身体に刻まれたはずよ。覚えてる?」
もちろん、忘れるはずがない。
「天帝陛下がおっしゃるには、とても珍しい現象らしいの。といっても、他国にも前例はあるのだけれど。神獣と番の、心の結びつきがとても強くないと起きないみたい」
それは知らなかった。
どうして睿様は教えてくれなかったのだろう。
「それには訳があるの。知りたければ、あたしに付いてきて、美麗。貴女に全てを教えてあげる。炎帝陛下が隠していることも含めて、全部」
なぜか悲しげな顔をして、紅玉様は私に手を差し出す。
不安がないと言ったら嘘になるけど、私は迷わず彼女の手をとった。
***
事情を説明する前に、会って欲しい人がいると言われて、私は紅玉様に導かれるまま、蓬莱国を訪れていた。国を出るのも、他国を訪問するのも初めての経験で、冷や汗が止まらない。ドキドキする私に、紅玉様は言った。
「これから貴女には、青龍の番――珊瑚さんごという女性に会ってもらうわ。ああ、そんなに緊張することはないのよ、美麗。母はとても気さくな人だから」
青龍の番? 母?
頭が情報に追いついていかず、ぼうっとしている間に蓬莱国の宮城に着いた。国に入るまでは飛翔に乗っていたのだけど、あくまでこの訪問は公式ではなく、お忍びという形を取っているため、国に入ってからはずっと馬車での移動だった。
宮城の門番は紅玉様を見た途端、ひれ伏して門を開けてくれた。まるで勝手知ったる我が家のように敷地内を歩き回る紅玉様に向かって、「お帰りなさいませ」と宮城にいる偉い人達までひれ伏して頭を下げる。
「紅玉様、青帝陛下なら執務室にいらっしゃいますよ」
「今日は父に会いに来たのではないの。お母様はどちら?」
「お庭でお茶の支度をなさっておられます」
それから広い宮城のお庭で、青龍の番様である珊瑚様に会った。
「ようこそおいでくださいました。長旅でさぞお疲れでしょう」
珊瑚様は紅玉様そっくりの絶世の美女なのに、とても物腰が柔らかく、偉ぶったところが一つもない、謙虚な方だった。天帝陛下のご命令で、神獣様が視察のために国を巡ることは珍しいことではないらしく、珊瑚様は私の素性や訪問の目的を訊ねることなく、客人としてもてなしてくれた。
「母はたぶん、美麗のことも神獣だと思っているはずよ」
お茶の席で、紅玉様がこっそり教えてくれる。
けれど私にとってはそんなことはどうでもよくて、戸惑いながら、何度も紅玉様と珊瑚様の顔を見比べていた。だって二人とも、見た目も雰囲気もそっくりなのに、親子というわりにはあまりにも他人行儀で、よそよそしい感じがしたから。
珊瑚様が用事で席を外すと、紅玉様は私の疑問に答えてくれた。
「母はね、あたしのことを覚えていないの。娘だって分からないのよ」
これまで、神獣様と人間との間に子どもが生まれることはありえないこと、不可能だと思われていたそうだ。けれど珊瑚様はそれを成し遂げて、紅玉様を身ごもり、この世界に新たな神獣様を誕生させた。
それを聞いて、私は未来に希望を持つことができた。もしかしたら私も、睿様との間に子を持つことができるかもしれない――けれど、肝心の紅玉様が浮かない顔をしているので、不安になって訊ねる。
「どうして……」
「母は禁忌を犯してしまったから。父の神名を口にしてしまったの」
そのせいで天罰が下り、珊瑚様にとってもっとも大切な記憶を奪われてしまったそうだ。簡単に言えば、夫と我が子に関する思い出を全て忘れてしまったらしい。
「神獣はね、神名を口にされると操られてしまうの。自分の意思に関わらず、どんな願いでも叶えてしまう。だから本来、神名は誰にも知られないようにしているのだけど、母は延命の儀式を受けた時にそれを知ってしまったのね」
それを聞いて、私ははっとした。今は見えないものの、彼の神名が刻まれた手の甲を見下ろして、唾を飲み込む。
「珊瑚様は、何を願ったのですか? 青龍様に」
「番からの解放よ。母がそばにいなくても、父が自分を見失わず、狂わなくて済むように」
なんだか寒気がして、私は自身の身体に腕を回した。
「その後、母は姿を消したけれど、父は番を失っても狂うことなく、国を治めた。けれど行方不明になった母を捜すことはやめなかったわ。延命の儀式を受けた後だったから、二人の絆を完全に断ち切ることはできなかったの。そして母を見つけた。母も、父の求婚を受け入れて、今は幸せな暮らしを送っている」
確かに珊瑚様はお幸せそうな顔をしていた。
けれどどうしても納得がいかなくて、
「紅玉様が娘であることを、珊瑚様には伝えないのですか?」
「天帝陛下がお許しにならないわ」
仮に伝えたところで、本人に自覚がなければ意味がないという。周囲の人達は皆知っているのに珊瑚様だけが知らないなんて、あんまりだと私は思った、たまらず涙を流す私に、
「ああ、美麗、泣かないで。あたしは平気だから。そりゃ最初はショックだったけど、あたしがあの二人の子どもであることに変わりはないのだし。それに見たでしょ? ここにいる皆が、あたしを見ると必ず『お帰りなさい』と声をかけてくれるの」
紅玉様は優しい口調で続ける。
「女官の連油レンユが――もう一人のお母様が、あたしがここで生まれ育ったことをきちんと記録として書物に残しておいてくれたのおかげよ。だからいつでも堂々とここへ帰ってこられるってわけ。おそらく父はその書物に目を通しているでしょうけど、母は……どうかしら? 本を読むのが苦手な人だから……」
言葉を濁して、あらためて私に向き直る。
「美麗、本当ならこんなこと、貴女に話すべきではなかったかもしれない。今は混乱して、胸が苦しくてたまらないでしょう。でもよく覚えていて、神名を知っているということは、貴女が思っている以上にとても危険なことなの。貴女がその名を口にすれば、炎帝陛下はどんな願いも叶えてくれるでしょう」
だからこそ、神名を口にすることは禁忌を犯すことになるのだと、紅玉様は説明してくれた。
「炎帝陛下は、このことをご存知なんですよね?」
「ええ、もちろん」
『僕にも一応、天帝陛下から与えられた名があるんだけどね、残念なからそれだけは教えられない。人が神獣の真名を口にすることは禁忌とされているから』
『この名は絶対に口にしてはいけないよ。天罰が下るから』
ようやく理解が追いついてきた気がする。
「だったら、陛下が私に隠しているというのは……?」
紅玉様は真面目な顔で私を見ると、
「炎帝陛下は、母のことを貴女に話さなかったでしょう? 母が犯した過ちのことを」
言われてみれば、確かに……。
「黙っているのは後ろめたい気持ちがあるからよ。なぜなら陛下は、母が犯した過ちを過ちだと思っていないから。自分を犠牲にして、父を救ったと思っているの。母のおかげで父は自由になれたと」
紅玉様はひと呼吸を置いて口を開く。
「現に、母が姿を消したのも彼のせいだった。父に見つからないよう、母を桃源国へ連れ去って軟禁していたの。本人は匿って保護していたと言い訳していたけれど、あたしに言わせてみれば……」
徐々に激しくなる口調に、私は呆気にとられてしまう。
そんな私を見、紅玉様様は慌てて咳払いすると、
「つい感情的になってしまってごめんなさい、貴女に対して怒っているわけではないのよ」
おほほとごまかすように笑う。
彼女の話を理解するのに、少し時間がかかってしまったけれど、
「それはつまり……陛下も望んでいるということですか? 私が珊瑚様と同じことをするって」
「分からないわ」
紅玉様は試すように私を見ると、
「でも仮に彼が望んでいたとしても、貴女が自分を犠牲にして良い理由にはならない。それに、母と同じ行動を取ったからといって、天罰まで同じとは限らないのよ、美麗。貴女の場合、記憶を奪われるだけは済まないかもしれない」
俯く私の肩を抱いて、紅玉様は優しく言った。
「そろそろ桃源国へ戻りましょうか。彼が貴女の帰りを待っているわ」