番としての、本当の役目を理解しました
それからどのくらいの時間が経ったのだろう。
夢の中で、甲高い女性の悲鳴を聞いた。
悲鳴は止むことなく続き、私は眠りから目を覚ました。
まだ少し意識は朦朧としていたけれど、咄嗟に助けなくちゃと思った。
彼を止めないと。
――彼? 彼って誰だっけ?
鉛のように重い瞼を持ち上げると、鼻から血を流して倒れている女性の姿が目に入る。他にも、部屋の隅で怯えて固まっている女性達の姿もあった。
そこから少し視線をずらして、私は息を呑んだ。
赤髪の青年が片手で細い女性の首を掴み、締め上げている。
女性の顔には見覚えがあって――確か名は依依だったような……。
いいえ、今はのんきに考え事をしている場合ではない。このままでは彼女が絞め殺されてしまうと、私は彼は止めようとした。けれど腕や足にまるで力が入らず、強い睡眠薬を飲まされたことに気づく。薬の効果はまだ続いているらしく、立ち上がることすらできなかった。ならばと、必死に声を振り絞る。
「や、やめて、ください……」
細くかすれた声だった。
情けないほど弱々しくて、相手に聞こえるか不安だったけれど、青年が弾かれたようにこちらを向いた。その顔を見て、彼が誰だったかを思い出す。
「へ、陛下……どうか、おやめください」
目を血走らせていた彼は私を見ると、くしゃりと泣き出しそうな顔をした。その顔を見た途端、彼を助けなくちゃとあらためて思った。
「この者達は君に……僕の番に害をなした。それ相応の罰を受けるべきだ」
「私は、なんともありません」
「君を薬で眠らせ、誘拐しようとした」
それでも、と私は語気を強める。
「殺しては、なりません」
顔をしかめる彼に再度「殺さないで」と懇願する。
「なぜこの者達をかばう?」
「この人達のためじゃ、ありません」
断言して、彼を見上げる。
「この人達を殺してしまったら、貴方が、苦しむ、それが分かっているから……止めるんです」
彼はどこまでも理性的で優しいから。そうあろうと努力しているから、一時の感情に流されて、取り返しのつかないことだけはして欲しくなかった。私のせいで、彼が苦しむのは見たくない。
「でも、この者達は君にひどいことを……」
「私だって、彼女達と同じです」
自分のことを不幸だと思ったことはないけれど、当然のように学舎に通う子達を見て――綺麗に着飾った女の子達を見るたびに、羨ましいなと思ったことは何度もある。
私だって人並みに学舎に通いたかったし、おしゃれもしたかった。どうせ悩むのなら、母の病気のことや食欲旺盛な弟達の食費のことじゃなくて、好きな男の子のことで悩みたかった。
――陛下は私のことを美化しすぎている。
他人のことを妬んだり羨んだりする気持ちは私にもある。
幼馴染の結婚相手にも嫉妬した。彼女のことが羨ましくて羨ましくてしかたなかった。目の前にいたら――その幸福そうな顔を見たら、きっと我慢できなくて、ひどい言葉をぶつけていたと思う。
「私のためを思うなら、なおさら、やめてください」
顔をしかめた彼が、理性と本能との間で葛藤しているのが分かる。
私は彼に、自分を取り戻して欲しくて、畳み掛けるように言った。
「陛下……いいえ、睿様、彼女を離して、こちらへ来てください。私は動けないから、貴方に触れたくても、触れることができないんです」
どさっと音を立てて依依の身体が床に落ちた。
依依は激しく咳き込みながら、仲間達のほうへ這うようにして逃げていく。
怯えて泣きじゃくる宮女達には見向きもせず、彼はまっすぐ私のほうへ歩いてくる。ふらふらと近づいてきた彼に向かって、私は渾身の力を振り絞って手を伸ばす。
近づいてきた彼に抱き起こされ、そのままぎゅっと強く抱きしめられる。そこに性的な気配はなく、まるで幼子にでもしがみつかれたような気分だった。私は、かろうじて両腕が動くことを確認すると、両手で包み込むように彼の頬に触れた。
「よく、我慢なさいましたね」
再び意識が朦朧として、眠気が差してきたせいか、弟の頭を撫ぜるように睿様の頭をよしよししてしまった。彼はそんな私を驚いたように見ると、
「君が僕の番で良かった。今、分かったよ。なぜ美麗が選ばれたのか」
噛み締めるように告げる。
見た目は華奢な青年なのに、抱きしめられると強い安心感を覚える。そして安心すると、眠気がいっそう強くなってきて――その温かな腕の中で、私は我慢できずに目を閉じた。
***
「美麗様がご無事で良かったですわ」
「王様の執務室に行きましたら、偶然、陛下もそこにいらして……」
「すぐに依依の嘘だと分かりましたの」
翌日から睿様の命令で、私には身辺警護のための衛士が二人も付くことになった。もちろん二人共女性だが、お世話係の子達と違ってがっしりとした体格の持ち主で、中性的な睿様よりも男らしい姿をしている。それに無口で、仕事中だからとほとんど会話に加わってこない。どこへ行っても黙々と付いてきてくれるので、これぞプロの仕事人という感じがした。
「あの子達はどうなったの?」
お世話係の子達が淹れてくれたお茶を啜り、甘いお菓子を摘みながら私は訊ねた。
「美麗様の口添えのおかげで命は取り留めましたけれど」
「当然、国外追放です」
「今頃この国を出て、隣国にでも向かっていることでしょう」
そう、と私はつぶやく。
彼女達のことを思うと胸が痛むが、私だって常時人に恨まれ、命を狙われていたのでは身が持たない。他人に嫉妬されても、それを前向きに捉える人もいるんだろうけど、私には無理だ。いずれストレスで胃に穴が空いてしまうだろう。
「美麗様が気に病むことではありませんわ」
「そうですよ。時として見せしめは必要ですもの」
「それに、神獣様の対応にしては、まだ優しいほうですわ」
「他国では、番様に害をなした者は、その親兄弟も同罪と見なされるとか」
「家柄に関係なく、死罪は免れません」
「それほど、神獣様にとって番様は大切な存在なのです」
お説教めいた彼女達の言葉に、番の重さを実感する。
確かに、依依達のような人間は他にも大勢いるだろう。目立たないよう慎重に行動しているだけで、心の中では私に対する罵詈雑言で溢れているかもしれない。
――想像する怖すぎる。
下手をすると人間不信に陥りそうだ。
『この芋女が、調子に乗るんじゃないわよ』
『いい年をして、見苦しいったらないわ』
『学も教養もないなんて、救いようがないわ』
何より怖いのが、実際に会って話したこともないのに、噂や他人の情報で私のことを知っていると思い込んでいることだ。他人が自分のことをどう思うかなんてどうでもいい、嫌われても平気だと割り切ってしまえば楽なんだろうけど、私の立場上、それも難しい気がする。
ともあれ、実際に会って話したところで、相手の全てを理解することは難しくて、
「僕って、女の子見る目ないよね」
炎帝陛下……睿様もまた、ひどく落ち込んでいた。
「僕の前じゃ、いつもニコニコしてて、可愛い子達だったんだけどな」
そんな睿様に対して、世話係の子達の意見は辛辣だった。
「見た目で選ぶからそうなるんです」
「主観に頼らず、第三者の意見も聞くべきでは?」
「その点、王様はさすがですわ」
「わたくし達を美麗様付きの女官にしてくださいましたものね」
「でもどうしてわたくし達が選ばれたのかしら」
「これといった試験や面接もありませんでしたし」
不思議がる彼女達のために王さんに訊ねたところ、彼は自信満々に答える。
「私を誰だとお思いですか? 桃源国一番の占術師ですぞ」
本当に王さんには感謝してもしきれない。
その日の夜、私は睿様に手紙を書いた。
求婚をお受けしますと。
貴方のことが大好きだから。貴方の支えになりたいから。
これからの長い人生を、共に歩んで行きましょうと。
あんなに悩んだのが馬鹿みたいに思えるほど、スラスラと言葉が出てきて、自分でも驚きだった。内容そのものは短いけれど、私にとってはたくさんの思いが詰まった手紙だ。
俯草の押し花を添えて、そっと封をする。
「夜遅くに悪いけど、これを炎帝陛下のところへ届けてくれる?」




