第三十四話
エンの許可が下りると、翡翠は毎日のように私のところへ通ってくるようになった。最初の頃はエンに会いに来ているのだとばかり思っていたけれど、二人はそれほど仲良くないみたいだ。
エンが何か言うと、翡翠はすぐに怒る。
子ども相手に大人げないとは思うものの、エンの口の悪さにも問題があるのだ。
「神獣ともあろう者が、人間の女のケツを追っかけるなんて恥ずかしくないのか?」
「珊瑚は君みたいなクソ真面目野郎はタイプじゃないってさ」
「僕の使用人に目をつけるなんて、蓬莱国にはよほど女がいないんだね」
本人はからかっているつもりなんだろうけど、翡翠は本気で傷ついていると私は思った。なぜそう思うのか自分でもわからないけれど……ただそう感じるとしか言いようがない。
それに翡翠の正体が神獣だということにも驚いた。蓬莱国の神獣といえば、青龍に違いない。翡翠は何も言わないけれど、エンが嘘をついているとも思えないし。だとしたらエンは何者? ただのお金持ちのお嬢様ではない? 訊いたところでどうせはぐらかされてしまうだろう。二人の会話を聞いていると、いつも頭が痛くなってくる。
「俺がここへ来るのは迷惑か?」
ある時、翡翠に訊かれて私は困った。
迷惑だと答えれば、彼は二度とここへは来ないだろう。
そんな気がする。
「どうして私なんですか?」
わざわざ自国を出て、桃源国にまで会いに来るなんて、普通じゃ考えられない。神獣だからできることなんだろうけど、ただの人間である私にそこまでする価値はないと思う。
「……気になるからだ」
「気になるって?」
「君には繋がりを感じる」
一目惚れを信じない私が、なぜかこの言葉には心惹かれた。
「君は朱雀に気を遣いすぎだ。俺にも。言いたいことがあればハッキリ言うといい」
どうやらエンの正体も神獣、それもこの桃源国を治める朱雀らしい。薄々そんな気はしていたので、私は驚かなかった。
「居候の身で、そんなことできません」
「……変わらないな」
びっくりして彼を見ると、彼もまた、驚いた顔をしていた。
「今、俺は何と言った?」
「変わらないなって……まるで私のことを知っているような口ぶりだったわ」
敬語も忘れて、私は言った。
翡翠は考え込むように顔を伏せると、そのまま部屋を出て行ってしまった。おそらく自国へ帰ったのだろう。いつもなら「また来る」と言ってくれるのに。
翌日、翡翠は来なかった。
その翌日も、さらに翌日も。
「ねぇ、エン」
「なんだい、お姉さん」
「どうして翡翠は来なくなったの?」
「……気になる?」
私は素直に頷いた。
「彼に好かれていると思っていたから。自惚れたのね」
「もしかしてお姉さん、あいつに惚れた?」
首をひねる私を見て、「あーはいはい」とエンは苦笑する。
「どうせ分からないんでしょ? 自分のことなのに分からない」
「面倒臭い女で悪かったわね」
「僕、そんなこと言った?」
「顔に書いてあるわよ」
拗ねる私に、エンはなだめるような声を出す。
「直接会って、確かめてきなよ」
「彼の気持ちを?」
「お姉さんが青龍のことをどう思っているのか、だよ」
「確かめたくても、確かめられないわ。だってここにいないんだもの」
「なら会いに行けばいい」
「簡単に言わないで」
「簡単だよ。僕が協力してあげる」
桃源国から蓬莱国への道のりは果てしなく遠い。それに両国には結界が張られているから、無許可で通過することもできない。けれどエンが言うと、本当に簡単に思えてしまうから不思議だ。
「ありがとう、エン。けれど会いに行くなら私一人で行くわ」
「なるほど、僕がついて行くとあいつが不機嫌になるからね」
嘘がつけず、私は曖昧に微笑んだ。
けれどエンは寛容な仕草で頷くと、
「なら飛翔を一頭あげるよ。あとできる限り、人との接触は控えること。極力、顔は見られないようにね」
「分かったわ。女の一人旅は危険だものね」
「というより、お姉さんに何かあったら、僕があいつに殺されるから」
小声で呟き、ぶるっと身体を震わせる。
「護衛も付けてあげるよ」
「あら、必要ないわ」
「だったらお姉さんの周りに結界を張ってあげる」
エンは私に向かって手をかざすと、
「これでよし。試しに何かぶつかってみて」
言われた通り、近くにある壁にぶつかってみる。
直後、ふわっと柔らかな何かに弾かれて、私は後ろに下がった。
続いて包丁の刃先を握ってみたが、分厚い膜のようなものに阻まれて、手には傷一つつかなかった。私はエンを見ると、感心したように言った。
「エンって本当に神獣様だったのね」
「もしかして疑ってたの?」
傷ついた顔をしていたけれど、どうせ演技だろうと思い気にしなかった。ずっと一緒に暮らしていたおかげで、彼女の性格はだいたい分かっている。意地悪でお調子者で、けれど優しすぎるほど優しい。
「じゃあ、行ってくる」
「うん、もうここへは戻ってこなくていいから」
「どうしてそんな意地悪を言うの?」
「決まってるだろ、君のためさ」
エンは苦笑いを浮かべながら、旅支度を終えた私を送り出してくれる。
「青龍に会ったら伝えて。せっかく呪いが解けたっていうのに、自分から捕まりに来るとは思わなかった、この大馬鹿野郎ってさ」




