第三十一話
翌日、翡翠は目を覚まさなかった。
いくら私が呼びかけても無反応で、私は慌てて医師を呼んだ。
侍医の診察では、身体に異常はなく、ただ眠っているだけということだったが、それでも安心はできなかった。次の日も、その次の日も、翡翠は目覚めなかった。神通力を使い過ぎたわけでもないのに、明らかにおかしかった。
全ての政務が滞り、臣下たちは日に日に不安を募らせていく。
「これは天帝陛下の仕業よ。そうに違いないわ」
翡翠のそばを離れない私に、紅玉は言った。
「陛下に歯向かったから、お父様を罰しているのよ」
「……私のせいね」
「いいえ、お母様、わたくしのせいよ。わたくしがいなくなったらお母様が悲しむと、お父様を脅したから」
きっぱりとした口調で紅玉は言った。
それからあらたまったように背筋を正すと、私に向き合う。
「わたくし、これから天帝陛下の元へ参ります」
潔い笑みを浮かべて、ゆっくりとお辞儀をした。
「これまで育てて頂いた御恩は、一生忘れません」
覚悟を決めた娘の顔を見、「ああ」と私は顔を両手で覆ってしまう。
「泣かないで、お母様。大丈夫よ、わたくしが必ず何とかするから」
「でも紅玉……」
「この状況が公になれば、民の混乱を招くことになるでしょう。結界も、おそらく長くはもたないわ。けれど今のわたくしでは、お父様の代役を務めることはできない」
悔しげに紅玉は続けた。
「わたくしは無知で無力だわ。神通力の使い方ですら、まともに知らないのだもの」
無理もないと私は答えた。
まだ、生まれて七年しか経っていないのよと。
「でも、お父様がこうなってしまった以上、できることをしないと。だからわたくし、天帝陛下に許しを請うわ。許して頂けたら、おそばに置いてもらうの。わたくしの知らないことを学ぶために」
私は黙って紅玉の話を聞いていた。
娘の目を見て、引き止めることはできないと痛感した。
「いってらっしゃい、紅玉。私たちのためでなく、自分のために」
「ええ、もちろん。わたくしが自分で決めたことだもの」
幼い頃と変わらない、生意気そうな顔をして、紅玉は行ってしまった。
これが永遠の別れになるかもしれないのに。
あっけないほど、短い別れだった。
室内は再び静寂に包まれて、私は翡翠と二人きりになった。
「あの子はあなたにそっくりね。だから愛さずにはいられない」
眠っている翡翠に、私は絶えず話しかけていた。
今の私にできることといえば、それしかなかったから。
「離れていても、どこかで繋がっていると信じてるわ。だから悲しくはない。寂しくもない。家族だもの。ごめんなさい、翡翠。紅玉のことで、わがままを言ってしまって。あなたはいつだって、正しい助言をしてくれたのに」
紅玉が地上を去ってから十日が過ぎた。
けれどまだ、翡翠は目を覚まさない。
――天帝陛下が紅玉をお許しにならなかった?
いいえ、違う。
「……やっぱり、私のせいなんだわ」
私はいつでも翡翠に守られ、甘えてばかりいた。彼がいなければ何もできないのに。母親であるという驕りが娘の成長を阻み、挙句、愛する人を傷つけ、追い詰めてしまった。
「天帝陛下が罰しておられるのは、あなたでも紅玉でもない――私なのよ」
だから翡翠は未だに目を覚まさない。
「私がこの事態を招いた」
今になって気づくなんてと自嘲する。
国を滅ぼす悪女っ――時を遡る前の、民の謗りが耳の奥で蘇る。
あの頃の私は愚かだった。そして今も、それは変わらない。
けれど今度は逃げないと決めたのだ。
――お父様がこうなってしまった以上、できることをしないと。
紅玉の言葉を思い出して「そうね」とつぶやく。
「……今の私にできること――私にしかできないこと」
一つだけあった。
けれどそれを実行すれば、どうなるのか。
少なくとも、私はただでは済まないだろう。
「かまわないわ……あなたと紅玉さえ、無事でいてくれたら」
深く息を吸い込み、私は青龍の神名を口にした。
禁忌を、犯したのだ。
「目を覚まして――何ものにも縛られず、自由に人を愛して。悲しまないで。苦しまないで。狂わないで。そしてどうか、幸せに……」
一言一言、想いを口にするだけで、全身から力が抜けていく。まるで見えない何かに、力を吸い取られていくみたいに。朦朧としていく意識の中で、私が最後に見たのは、深い緑色の瞳だった。