第三十話
それから二年が経ち、紅玉は目を見張るほど、美しい娘へと成長した。
他の大陸や島国、さらには天上界から、紅玉をひと目見ようと神獣たちが蓬莱国を訪れたが、紅玉は誰とも会おうとしなかった。
それもそのはず、外見は年頃の娘らしく成長しても、中身はまだ子ども――母親である私にべったりで、私のすることを真似したがった。私もそんな娘が愛おしくて、宮廷作法を学ばさせる一方で、歌や踊りを教えた。
紅玉は見事な歌い手であり、舞手だった。
政にも関心があるらしく、翡翠がいると、いつもその話題になってしまう。
たいてい、私は二人の話についていけず、ぽかんとしているのだけど、それはそれで楽しかった。内容はともかく、夫と娘が真剣に議論している姿は、私にとっては胸を熱くする光景だったから。
満ち足りた平穏な日々は、ある日突然、終りを告げた。
恐れていたことがついに来たのだ。
天帝陛下から紅玉へ、お呼びがかかったのである。
そのことを私たちに告げに来たのは、狼の姿に化けた白龍――狼だった。
ちょうど、翡翠がいる時を狙ったかのように、彼は私たちの前に現れた。
「天帝陛下が紅玉をお呼びだ。半月後に迎えに来る。それまでに、家族との別れを済ませるように」
有無を言わせぬ態度で言い、狼はさっさと姿を消してしまう。
現実を受け入れられず、呆然とする私を翡翠が心配そうに見ていた。
狼がいるあいだ、顔を隠していた紅玉が真っ先に口を開いた。
「お母様や連油と別れるなんて嫌です。わたくし、天帝陛下の元へは参りません」
「陛下のご命令に背くことなど許されない」
厳しい翡翠の言葉に、紅玉はむっとしたようだ。
「背いたらどうなるのですか」
「わからぬ。そのような神獣は過去にいた例がない」
「では、わたくしがその例外になります」
「愚かなことを申すな」
「お母様を悲しませることが、愚かなことですか」
珍しく翡翠が言葉に詰まった。
「自分の生き方は自分で決めます」
「おまえは人ではなく神獣だ。神獣としての義務を放棄するつもりか」
今度は紅玉が黙り込む番だった。
唇を噛み締めて、悔しそうな顔をしている。
「我ら神獣が、なぜ不老不死の存在か、人間よりも遥かに優れているのか、考えたことはあるか?」
「……天帝陛下が、そのようにお創りになられたから。人間を管理するために」
そうだ、と翡翠は言った。
うつむく紅玉を、私はたまらず抱きしめていた。
「お母様と離れたくない」
「私もよ」
すぐさま答える私に、「珊瑚」と翡翠が弱ったような声を出す。
そんな翡翠を、私はキッと睨みつけた。
「この子はまだ、七歳になったばかりなのよ」
「だが人間で言えば、珊瑚、おまえがここへ来た時と変わらない歳だ」
「あなたは私たちより、天帝陛下のご命令のほうが大事なのね」
「……なぜそうなる?」
八つ当たりだと分かっていたけど、止められなかった。
「ごめんなさい、翡翠。しばらくこの子と二人きりにさせてちょうだい」
翡翠はわずかに頬を歪めると、ゆっくりと立ち上がった。
紅玉を抱きしめて、涙をこらえる私を見ると、つぶやくように言った。
「俺だって、おまえの悲しむ姿は見たくない」
***
紅玉との別れの日、私は腫れ上がった目で朝を迎えた。
昨夜は悲しみのあまり一睡もできず、連油や宮女たちも暗い顔をしていた。
紅玉といえば、私たちに心配かけまいと気丈に振る舞っていたものの、私や連油のそばから一時も離れようとはしなかった。私たちと同じように、別れを惜しんでいたのだろう。
ややして、人の姿をした狼が紅玉を迎えに訪れた。
「では行こうか、紅玉」
戸張の後ろに座って、姿を隠していた紅玉が観念したように立ち上がる。
私が伸ばしかけた手を、力なく下ろしたその時だった。
「帰れ。娘は渡さない」
その場に座って、静観に徹していたはずの翡翠が口を開いた。
覚悟を決めた、毅然とした声だった。
「聞こえなかったのか、白龍。帰れと言っている」
「……天帝陛下のご命令に従わぬというのか」
「そうだ」
恐ろしいほどに長い、長すぎる沈黙だった。
「どうなっても知らんぞ」
呆れたような、哀れむような視線を翡翠に向けると、狼は姿を消した。
紅玉は安堵のあまり、へたり込むようにその場に座り込み、私は翡翠の元に駆け寄った。
「翡翠……あなた、どうして――」
「おまえを悲しませたくなかった」
私は思わず、翡翠を強く抱きしめていた。
紅玉と別れずに済んだ喜びと、私を想う、彼の深い愛情に、再び涙が流れてしまう。
「私たち、これからどうなるの?」
「わからない。だが、おまえのことは俺が守る。どんな手を使ってでも」
力強い翡翠の言葉に、私はほっとしていた。
この時の私は、知らなかったのである。
神に逆らうということが、どういうことか。