第二十九話
――お母様のことは好き。けれどお父様は少し苦手。
――どうして?
――お母様を独り占めしようとするから。時々、恨みがましい目であたしをご覧になるの。
――それは大人げないね。けれど、番だからしょうがない。
――ツガイ?
「まさか、あの子に番の意味を教えたのですか?」
途中で口を挟んだ私に、「いけなかった?」と炎帝陛下はけろりとした声で答える。
「でも、だいたいの意味は知ってたみたいだよ」
「そんなはずは……」
「女官や宮女たちの会話から、情報を得たんだろう」
翡翠の言葉に、あり得ると、私は唇を噛み締めた。
あのお喋り娘たちめ。
「他にはどんな話をしたかな……そうそう、僕が渾沌の話をしてあげたら、あの子、可哀想だと言ったんだ。どっちが? って訊いたら、神獣のほうだとすぐに答えたね」
――あたし、天帝陛下をお恨み申し上げるわ。
――その言い方はよくないね。神獣は本来、天帝陛下を無条件で崇拝するものだ。
――……あたしは違う。
――母親が人間だからかな。ねぇ君、喧嘩両成敗って言葉は知ってるよね?
――だったらなおのこと、神獣のほうが不利じゃない。相手は番なのよ。
――それでも己を律するべきだった。結局は、自分の欲望に負けたんだ。
――あたしはそうは思わない。神獣は皆、天帝陛下に、都合の良いように創られて、操られているだけ。地上にいる人間たちを管理するために。あたしたちは人間にとっての、飴と鞭なんだわ。
会話の内容についていけず、私はぽかんとしていた。
賢い娘だとは思っていたけれど、もうすでに独自の考えを持っているようだ。
「えっと、つまりあの子は……」
「不敬極まりない」
「でも間違いなく、君の娘だよ、青龍」
先程の意趣返しか、炎帝陛下はにやりと笑う。
「あの子は明らかに、他の神獣とは違う。あの子もそれを自覚しているようだ」
「だから黙って家を出たと?」
「独りで考える時間が欲しかったんじゃないかな」
この言葉に、私ははっとした。
じっと炎帝陛下を見つめるが、彼はとぼけたふりをして「へへへ」と笑っている。
視界の端で何か動いた気がして、視線を向けると、隣室の扉がわずかに開いていた。
先程いた女性たちが心配そうにこちらを盗み見ているのがわかって、立ち上がる。
「長居するのも失礼なので、そろそろおいとまいたします」
「……いいのか?」
怪訝そうな表情を浮かべる翡翠に、にっこりうなずいてみせる。
「もしまた、紅玉に会うようなことがあったら、どうぞお伝えください。よそ様に迷惑をかけるなと。子どもだからと言って、甘やかす必要はありませんから」
「う、うん」
あらためて、これまでの非礼を詫びて、私たちは桃源国をあとにした。
***
「どういうことだ?」
国に着いて早々、説明を求める翡翠に、私は苦笑交じりで答えた。
「紅玉は最初から、あの部屋にいたのよ。私たちが気付かなかっただけで」
「……まさか朱雀が年端もいかない子どもに手を出すとは――」
「まあ、翡翠。違うわ」
お楽しみの真っ最中……と見せかけて、豊満な美女たちを目くらましに使ったのだ。
私たちの目を逸らすため――紅玉を匿うために。
「私も似たような手を、白帝陛下に使っていたから、気づいたの」
「……そういえば、女の一人が赤い蜥蜴を胸元に隠していたが――あれか……」
さすがにそこまでは気付かなかった。
炎帝陛下のお力で、姿を変えていたのだろう。
「どうして朱雀がそんなことを……」
「紅玉に何かお願いされたのでしょうね」
「ますますあいつの言うことが信じられなくなった」
「……娘のことで、迷惑をかけているのは私たちのほうよ」
やんわりと指摘すると、翡翠は笑みを堪えるような顔をした。
「気づいていたのなら、なぜ連れ戻さない?」
「あの子が自分の足で戻ってこなければ、意味がないから」
無理やり連れ戻したところで、またすぐに家を出て行くに決まっている。
私はため息をついた。
「居場所が分かっただけでもよしとしなくちゃ」
と自分に言い聞かせる。
それにしても――
「独りで考える時間が欲しいだなんて……あの子、一体何をするもりなのかしら」
その答えを知ったのは、それからひと月後のことだった。
「ただいま、かあ様っ」
ようやく帰ってきた娘は龍の姿をしていなかった。
私と同じ濃い藍色の髪に、瞳の色は鱗と同じ濃い赤色。
生意気そうな目をした、十歳くらいの少女が私の胸元に飛び込んでくる。
「びっくりしたでしょ? あたし、やっと人の姿になれるようになったのよっ」
紅玉が帰ってきたら、絶対に説教してやると意気込んでいた私だけど、それを聞いて、一気に肩の力が抜けてしまった。どうやら紅玉も、私同様に、人化できないことを気に病んでいたようだ。それで私たちの目を盗んで、一人で特訓していたらしい。
「炎帝陛下がコツを教えてくださったの」
得意げに胸を張る娘が、愛おしくてしょうがない。
私を喜ばぜ、驚かせるために、人知れず努力をしていた娘を叱れるはずもなく、
「美しいわ、紅玉。さすが私の娘ね」
思う存分、褒めて、褒めまくってしまった。
また「甘い」と翡翠に叱られてしまうだろうが、かまうものか。
帰りは桃源国の使者が飛翔――桃源国で移動手段に用いられる家畜。龍と同じで、朱雀の姿を模した生き物――で、紅玉を送り届けてくれたので、その晩は使者を労って、宴を開いた。
お土産に頂いた、桃源国名産の桃は、若返る効果があるというので、女官や宮女たちが先を争って食べていた。私は桃で作られた果樹酒が特に気に入った。甘くて、とろりとしていて、ついつい飲みすぎてしまったくらいだ。娘が帰ってきて、かなり浮かれていたらしい。
ふらふら歩いていたところを、見かねた翡翠に抱き抱えられ、寝所へと運ばれてしまった。
「紅玉が戻ってきてくれて良かったわね」
「……ああ」
「あの子、頑張ってたみたい」
「そうだな」
「あなたもちゃんと、あの子を褒めてあげてね」
「言われなくても……」
珍しく神妙な顔をする翡翠に「ふふふ」と笑いがこぼれる。
紅玉が自分ではなく、炎帝陛下を頼ったことが、内心では面白くないのだろう。
「そうだわ。炎帝陛下にお礼状を書かないと」
「それは明日にしろ」
いじけたように言って、私の膝に頭を乗せてくる。
――まったく、子どもみたいなんだから。
「何か言ったか?」
「いいえ」
「酔ってるな」
「……少し」
頬の火照りをごまかすために子守唄を口ずさむと、まもなく寝息が聞こえてきた。
ふと視線を感じて顔を上げれば、引戸の隙間から、中を覗き見ている我が子の姿が――
「こ、紅玉、そんなところで何をしているの?」
「あたしも一緒に寝てもいい?」
いいわよと言って、慌てて彼女を招き入れる。
どうやら、龍の姿の時は遠慮していたらしい。そういえば小さい頃、連油の腕に残る引っかき傷を見て、ひどく落ち込んでいたのを思い出す。龍の姿では女官や宮女たちを傷つけてしまうと分かったから、あえて構われたくないふりをして、距離を取っていたのかもしれない。これで思い切りお母様に甘えられると、可愛らしいことを言う娘に、自然と顔がにやけてしまう。
――家族三人で夜を過ごすのは、初めてね。
耳を澄ませて二人の寝息を聞きながら、私は幸福に酔いしれていた。




