第二十八話
反抗期に入って、私たちに構われるのが嫌になったのか、紅玉は頻繁に姿を隠すようになった。たいていは狭い場所にもぐりこんで身を潜めているのだが、身体が大きいので、探せばすぐに見つけられる。
心身共に成長していく娘を、このまま部屋の中に閉じ込めておくことはしのびなく、私は意を決して、紅玉を外へと連れ出した。少しずつ日差しに当たる時間を伸ばして、徐々に紅玉の身体を外気に慣れさせていく。
初めは周囲の匂いを嗅いで、恐る恐る歩き回っていた紅玉も、次第に慣れて、自由に空を飛び回るようになった。そんな我が子の姿を眺めるのは実に爽快で、見ていて飽きない。連油にいたっては、「あんなに小さかった御子様が」と涙ぐむ始末。いつもは騒がしい宮女たちも、何やら感慨深そうな表情を浮かべて、空を見上げていた。
「神獣様は本来、天上界でお生まれになって、天女に育てられるのでしょう?」
「そうね、私も祖母にそう教わったわ」
「だったら、紅玉様のお世話をしている私たちは……」
「天女と同じってこと?」
「少なくとも美しさでは負けていないわね」
「……自信過剰」
くすくすと忍び笑いをする宮女たちのお喋りに耳を傾けながら、
「紅玉、戻ってきて。そろそろお部屋に帰る時間よ」
娘を呼び戻そうとするものの、赤い龍は高度を上げて、ますます地上から遠ざかってしまう。
「戻ってきなさいっ、紅玉っ」
「聞こえていないのかしら」
不安そうな連油の言葉を聞いて、私まで心配になる。
「いいえ、聞こえているはずよ」
「まだ遊び足りないとか?」
「単に部屋に戻りたくないだけかも」
私の心配は杞憂に終わり、それから少しして、紅玉は戻ってきた。
「強い風が吹いて、流されちゃったの。ごめんなさい」
「心配したわ」
抱きしめようとする私の手を拒み、紅玉は離れた。
「やめてよ、かあ様。私はやわな人間とは違うんだから」
つんと顔を背けられて、どきりとした。
紅玉のこうした態度を、「自立心の芽生えだ」と言って翡翠は喜んでいるけれど、私はまだ、受け入れることができずにいる。子離れする前に親離れされてしまいそうだ。
案の定、それから数日後、紅玉はいなくなってしまった
どうせいつものように構われたくなくて、隠れんぼをしているのだと思った。
けれど部屋のどこを探しても紅玉はいない。
使用人総出で、後宮の至るところ――宮城の敷地内全てを捜索してもらったが、紅玉を見つけることはできなかった。連油や宮女たちは、今度こそ誘拐されたのだと騒いでいたけど、私はそうは思えなかった。
「紅玉は自分の意思で、ここを出て行ったんだと思うわ」
泣きじゃくる私を抱きしめながら、翡翠は困った顔をしていた。
「好奇心を抑えきれなかったんだろう」
「やっぱり、あなたもそう思うのね」
「紅玉は今いくつだ?」
「今年の春で五歳になるわ」
「外の世界に興味を持ち始める頃だ」
「だからって、何も黙って出て行くことないのに……」
「おまえに言えば、止められると思ったんだろう」
「そんなの、当たり前でしょ」
ぐずりながら答えれば、笑みを含んだ顔で覗き込まれる。
「外の世界を見に行くことが、そんなに悪いことか?」
「あの子はまだ子どもなのよ、守ってくれる大人が必要だわ」
「では、部屋に閉じ込めておいたほうが良かったか?」
「それは……」
「自由に空を飛び回れる翼があるのに?」
反論できず、うなだれる私の髪を、翡翠が優しく手つきで撫ぜてくれる。
「あの子を信じて、気長に待とう。いずれ戻ってくるさ。おまえのところへ」
自室に戻っても落ちつかず、私は紅玉の面影を求めて、室内をうろついていた。
あの子が眠っていた寝具、寝相が悪くてびりびりに破いてしまった枕、何度も頭をぶつけてできた天井の傷……その一つ一つに触れたり、眺めたりしながら、再び涙ぐんでしまう。
――この衣装箱の中で、よく隠れて昼寝をしていたわね。
衣装箱はそのままにしてあるので、鱗が何枚か剥がれ落ちていた。
おそらく生え変わりだろう。
鱗の他にも、珍しいものが落ちていた。
――……鳥の羽?
濃くて明るい赤、紅玉の暗めの赤とは、明らかに違う色。
その羽の持ち主を、私は知っていた。
***
ここは、南方朱雀の治める桃源国――国の中心地である宮城である。
「どうして君たちがここに……」
護衛を押しのけて執務室を開けると、昼間から豊満な体型の美女たちに囲まれて、鼻の下を伸ばしている炎帝陛下の姿があった。もちろん少年の姿ではなく、成人した姿だ。男性ながら、外見は美女にも引けを取らぬほど、繊細で美しい顔立ちをしているが、私は騙されないと、まなじりを吊り上げる。
私の後ろから顔を覗かせた翡翠は、呆れたと言わんばかりにため息をついていた。
「神獣ともあろう者が昼間から堂々と……この国も終わりだな」
「うるさいな、仕事はきちんとやってんだから、文句を言われる筋合いはないぞ」
哀れみの表情を浮かべる翡翠に、即座に噛み付く炎帝陛下。
私は炎帝陛下の注意を引くために一歩前に出ると、挨拶も無視して、切り出した。
「あの子はどこにいますか?」
「……あの子って……」
「とぼけても無駄です。ここに証拠がありますから」
手にしていた緋色の羽根を見せつけると、明らかに炎帝陛下の顔色が変わった。
「私の娘――紅玉をどこに隠したのですか」
「待ってくれ、番殿。これには訳があって……」
「私の娘をお返しください、今すぐ」
周りに居た美女たちが、私の顔を見て「ひぃっ」と恐ろしげな悲鳴をあげる。
「おい、朱雀。俺の妻にそれ以上近づくな。見ていて腹が立つ」
「ちょっとっ、君の奥さんに凄まれてるのは僕のほうなんだけどっ」
私といえば、玉祥仕込みの高飛車な声で、宮女たちに言った。
「あなたたち、ちょっと席を外して頂けないかしら」
にっこり笑ってお願いすると、はだけた胸元を隠しながら、美女たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまう。その場には「ああ待って、行かないで」と情けない声をあげる炎帝陛下だけが取り残された。
「これで静かにお話ができますね」
「率直に答えるが、僕は紅玉の番じゃないし、彼女はもう、ここにはいない」
「……もう?」
詰め寄る私に、炎帝陛下はびくっとした様子で後ろに下がる。
「君らの子は、いずれ天帝陛下に国を任されることになる。国を治める神獣同士、遅かれ早かれ、顔を合わせなくちゃいけない相手だ。だったらさっさと済ませておこうと思って……」
「それで俺の後宮に忍び込んだのか……下衆め」
「君だって似たようなことを分身にやらせてるじゃないかっ。今だって……」
「炎帝陛下、どうかお話の続きを」
ぴしゃりと言うと、炎帝陛下は私の顔色を窺いつつ、口を開いた。
「後宮の物置みたいな部屋に隠れていたら、あの子が部屋に入って来たんだ。一人でね。衣装箱に隠れている僕に気づいて、驚いていたようだけど、なんか妙に馬が合ったというか……僕ってこう見えて子ども好きだからさ」
「なるほど、子ども同士気が合ったわけだな」
「……君、ちょくちょくイヤミを挟んでくるねぇ」
紅玉はきっと、炎帝陛下を、自分と同じ女の神獣だと勘違いしたのだろう。
だから警戒するどころか、興味を持ったに違いない。
「でしたら陛下があの子を連れ去ったわけではないのですね」
事情を知って、口調を和らげる私に「うん」と炎帝陛下はうなずいた。
「自分からついてきたんだ。僕も空が飛べるとわかって嬉しかったみたい。大したもんだよ、あんなちっさい体で、この国まで来たんだから。送り返そうにも、ひどく疲れてたみたいだから、休むよう言ったんだ。で、体力が戻ったら、どこかへ行っちゃったってわけ。僕はてっきり、自分の国へ帰ったのだと思っていたけど」
「それはいつのことですか?」
「昨日の朝かな」
どうやら一歩遅かったらしい。
私は即座に頭を切り替えた。
「では、あの子とどのような話をなさったのか、教えてください」
「……覚えてないよ、そんなこと」
「思い出されるまで、ここを動きませんが、それでもよろしいですか?」
時間ならばいくらでもあると言うと、炎帝陛下は大きくため息を吐いた。