第二十四話
「……可愛い」
私の腕の中で、折りたたまれた小さな羽がぴくぴくと動いている。
身体を覆う鱗は、紅葉のように赤く色付いて、柔らかく、ほんのりと温かい。
生まれた赤ん坊は人の形をしていなかった。
小さな小さな龍だった。
「見て、翡翠。あなたの子よ」
ただでさえ、人間が神獣とのあいだで子を成すことは、珍しいというのに。
この奇跡に民は喜び、私たち夫婦を祝福してくれた。
私も嬉しかった。愛する人の子どもを妊娠できて。
無事にこの世に生み出せたことを、何度、天帝様に感謝したことか。
「性別は……どちらかしら」
「おそらく雌だろう。それより――」
女の子、と喜ぶ私をよそに、翡翠はちらりと我が子を見ただけで、すぐに私に視線を戻してしまった。
「顔色が優れないようだが、身体は平気か?」
婚礼の儀式を終えて、正式に后となった私は、後宮にある最も豪華な部屋を与えられた。后付きの女官となった連油によって、今やすっかり居心地良く整えられている。
私がこの部屋に移る前、後宮では大規模な人員整理が行われ、上級宮女たちは皆、姿を消した。そのほとんどが翡翠の采配によって、臣下に下賜され、結婚を望まぬ者は尼寺へと入れられたという。
行き先のない下級宮女たちはそのまま後宮に残って、上級宮女たちの仕事を引き継ぐことになり、芸事や雑用を嫌う宮女たちはたいそう喜んだそうだ。
「あら、私は平気よ」
「嘘をつくな。昨日もろくに寝ていないだろう。赤ん坊は女官に預けて、おまえはゆっくり休め」
私のことを心配してくれるのは嬉しいけど、
「この子の名まえ、考えてくれた?」
黙り込む翡翠に、「やっぱり考えてなかったのね」とため息をつくと、
「……紅玉」
絶対に今、適当につけたわねと思いつつも、にっこり笑う。
けれど今後、子育ては専任の者に任せるように言われて、私はすぐに反論した。
「それは嫌だわ」
「なぜ?」
苛立ちのこもった声に、首を傾げる。
「だって、私たちの子よ? 自分の手で育てたいと思うのは当然でしょう?」
「それは紅龍……神獣だ。人の子のように育てる必要はない」
不満が顔に出ていたのだろう。
翡翠は私に言い聞かせるように言う。
「放っておいても勝手に育つ」
「でも、母親は必要だわ」
「神獣は生まれた時から、自分のなすべきことがわかっている。母親の愛情など必要ない」
「それを決めるのはこの子で、あなたではないでしょう」
やんわり言い返すと、むっとしたように押し黙る。
これではどちらが年上か分からない。
しまいには、「勝手にしろ」と言い、部屋を出て行ってしまった。
***
「陛下は、焼き餅を焼かれておられるのよ。あんたがあまりにも、御子様にべったりだから」
そう連油に指摘されても、私は腕に抱えた紅玉を離す気にはなれなかった。
「神獣といっても、赤ん坊は手がかかるし……目が離せないもの」
「手伝いの者ならいくらでもいるでしょう? 御子様のお世話なら、誰だって喜んでするわよ」
「それは……ありがたいとは思っているけど……」
私は母の顔を知らずに育った。それでも、幼心に母に会いたいと思っていたし、そばにいて欲しいとも思っていた。寂しかったし、悲しくもあった。この子には、そんな思いをさせたくない。
――翡翠もきっと、分かってくれるはず。
あの人の子どもでもあるんだから。
ぐずる紅玉にお乳を与えながら、私は考えた。
小さな口で、上手に飲んでいる。
「……可愛いわね」
「でしょう?」
腕の中を覗き込む連油に、つい我が子自慢をしてしまう。
そんな私を見て、連油は決まり悪そうに切り出した。
「実は、御子様に牙が生え始めたら、あんたから引き離すよう、陛下に命令されてるの」
「この子が私を傷付けるはずないわ」
言い張る私を、連油が呆れたように見やる。
「あたしが赤ん坊の頃、母の胸に何度か噛み付いたらしいわ。そういうことって、よくあるらしいの」
「噛み付かれたって、平気よ」
「あんたが平気でも、陛下が気になさるでしょ。万が一、傷でも残ったら……」
傷なんてすぐに治るし、残ったら残ったで母親にとっての勲章だ。
そう口にすれば、連油は困ったようにため息をつく。
「陛下のお気持ちも考えてあげなさいよね」
「……子どもが生まれて喜んでいる?」
「それもあるにはあるでしょうけど」
「妻が妊娠すると夫は浮気に走る」
「そういえば、下女たちがそんな話をしていたわね」
くすくすと笑いながら連油は口もとを手で隠した。
「陛下に関しては、ありえないけど」
「……神獣様だもの」
「あの方のお相手をできるのは、あんただけなのよ」
わかっていると、私は神妙な顔をしてみせる。
***
子どもを産んでひと月が経った頃、私は紅玉を連油に預けて、翡翠の寝所を訪れた。本来は、青帝の呼び出しがあって初めて立ち入ることができるのだが、后として特権を使い、主人が戻るまで中で待つことにする。
かなりの痛みはあったものの、お産は軽く、産後の経過も順調だ。通常、子どもを出産した母体は、六週間から八週間かけて妊娠前の状態に戻るらしいが、私の身体はほぼ半月ほどで回復した。
侍医のお墨付きも得ているし、これなら、休養しろと翡翠にうるさく言われることもないだろう。
妊娠してから今日まで、あっという間だった。翡翠は毎日、私のところに顔を出してくれたものの、身重の私を気遣って、長居はしなかった。そのことを寂しく思い、何度も彼を引きとめようとしたが、仕事の邪魔をしてはいけないと思い、我慢した。
――あなたがうんざりするくらい、あなたにべったり張り付いて、離れないから。
恐ろしい渾沌の姿を思い出すたびに、彼のそばにいなければと強く思う。
絶対に彼の手を離してはいけないと。
日中、私たちの周りには常に女官や侍従たちが控えているので、二人きりになれるのは夜だけだ。幸い、それほど待たず、翡翠は寝所に戻ってきた。
部屋に明かりが灯っていることは既に気づいていたらしく、私を見て、嬉しそうな顔をする。
「紅玉は?」
「連油に預けてきたわ。よく眠っていたから、当分は起きないと思う」
言いながら子どものように両手を伸ばすと、ふらふらとこちらに近づいてきた。
膝をついて、正面からぎゅっと抱きしめてくれる。
「私のこと、怒ってる?」
「……なぜ?」
「最近、あまり一緒にいてくれないから」
黙り込む翡翠に、「紅玉がいるから?」とこわごわ訊ねる。
「母親になった私を、女として見れなくなった、とか」
「そんなわけあるかっ」
即座に言い返されて、ほっと胸をなでおろす。
「だったらどうして……」
「俺がいなくても、幸せそうだから」
観念したように、翡翠は口を開いた。
「紅玉を抱えたおまえは、満ち足りた顔をしている。俺のことなんか、眼中にないみたいに」
首を傾げて、翡翠の顔を覗き込む。
拗ねた子どもみたいな顔――可愛い、と思わず笑みがこぼれた。
「なぜ笑う?」
「大好きだなぁと思って」
よしよしと頭を撫ぜて口付けると、「子ども扱いするな」と怒られる。
けれど、もっと撫ぜろと言わんばかりに顔を肩に押し付けられて、笑ってしまった。
「私にとっての一番はあなたよ、翡翠。紅玉のことが大切で、愛しいと思えるのは、あなたの子どもだから。だからどうか、あの子のことを邪険にしないで」
「邪険にしているつもりはない」
翡翠は身体を離すと、苦い笑みを浮かべて私を見下ろした。
「だが、生まれた子どもの世話は、乳母に任せるものだ」
「あいにく、私は庶民だから、自分の手で育てたいわ」
必死に頼み込んだ結果、翡翠はしぶしぶ許してくれた。
「わかった。おまえのしたいようにしろ」
「ありがとう、翡翠」
今度は長めに口付けると、翡翠はむっつりとした顔で視線を逸らす。
「しかし赤子に牙が生えたら、乳を与えるのは禁止だ」
ええっ、と不満の声を上げる前に、口で口を塞がれてしまった。