第二十一話
ぽつりぽつりと降り出した雨音で、私は目を覚ました。
夜は明けているというのに、空は分厚い雲で覆われ、辺りは薄暗い。
「降りだしたようだな」
翡翠は既に起きていて、空を見上げていた。
結局あの後、すぐに宮城には戻らず、山中で一晩過ごしてしまった。
神獣は飲まず食わずのままでも死ぬことはない。それは私も同じだと言われて、そういえば宮城をあとにしてから一口も食べ物を口にしていないことを思い出す。けれど空腹どころか、寒さも感じない。
――あんたは老いることなく、いつまでも若く、美しい姿でいられる。もう、人ではないから。
人でなくなる、というのは、こういうことなのかと実感する。
乱れた着衣や髪の毛を整えると、私は翡翠の隣に立った。
「傷の具合はどう?」
「完全に塞がった。どうということはない」
実際に確かめてみると、傷どころか傷痕すら見当たらなかった。
「翡翠がいなくなって、皆、心配しているでしょうね」
「分身を置いてきたから、支障はない」
雨足が強くなってきたので、とりあえず雨宿りできる場所を二人で探す。
幸い、目的の場所はすぐに見つかった。
木の葉が密集した巨木の前で足を止める。
太い幹の根もとでは、まるで蛸の足のように根が地面から飛び出して、複雑に絡み合っていた。
「いいわね、ここ」
濡れた服を手早く脱いで根の上に引っ掛けていると、翡翠がぎょっとしたようにこちらを見た。
顔を赤くしている彼に、今さらそんな顔しないでよと思いつつも、羞恥心がこみあげてくる。
「肌着はちゃんと身につけてるでしょ」
自分ばかり恥ずかしい思いをするなんてずるいと思い、彼の衣服を剥ぎ取ると、同じように干した。湿気のせいですぐに乾くとも思えないが、着たままで体温を奪われるよりはマシだ。
「雨がやんだら、都に戻るのよね」
「……ああ」
「そういえば、ここはどこなの?」
「蓬莱国を出た北の辺り。もう少し行けば、玄武の治める国がある」
――龍族の中で一番、足が速いと言っていたけれど。
まさか国外にいるとは思わず、耳を疑ってしまった。
けれどあれほど巨大な龍であれば、それも可能なのかもしれない。
白龍が青龍の首元に食らいついた瞬間、天から、天帝陛下と思われる声が聞こえた。私は天帝様のお姿を見ることなく意識を失ってしまったので、その後のやりとりは何も知らない。
――首の傷は治ったのかもしれないけど、翡翠の声、昨日から掠れてる。
そのことを口にすると、
「首を負傷した時に喉も痛めたらしい。放っておいても、いずれ治る」
それを聞いて居ても立っても居られず、
「珊瑚、どこへ行く気だ」
「ここへ来る途中に池があったでしょ? あそこよ。すぐに戻るから、あなたはここで待ってて」
翡翠が引き止めるのも聞かず、私は雨の中へ飛び出した。
全速力で駆けて、池の前で足を止める。
緑がかった水面に、点々と赤い花が見えた。
紅姫という名の水生植物で、美しいだけでなく、食用としても重宝されている。
池は雨のせいで水かさが増し、全く底が見えない。
けれど私は迷うことなく池に入った。
正直、泳ぎはあまり得意なほうではなかったけれど、どうしても紅姫の根が欲しかった。足が底につかなくなると、思い切って水中にもぐる。必死に泳いで紅姫の花を掴むと、力任せに根を引っこ抜き、手でねじ切る。
直後、空気を求めて水面から顔を出すが、激しさを増す雨のせいで、呼吸もままならない。途中で何度も気が遠くなりそうになりながら、なんとか岸に這い上がる。息も整わないまま、紅姫の根を手に、いそいで翡翠のところへ戻った。
「頼むから危ないことはしないでくれ」
遠くで様子を見ていた翡翠に注意されて、「ごめんなさい」と肩をすくめる。
「あそこで何をしていた?」
「紅姫の根を採ってきたの。あまり美味しくないけど、食べてみて」
生で食べると苦味があるが、紅姫の根には喉の調子を整えて、痛みを緩和する効果があるのだ。
私が風邪で寝込むと、連油がよくこれで薬湯を作ってくれた。
「わざわざ、俺のために」
一口齧ってわずかに顔をしかめたものの、翡翠は全て食べてくれた。
「口直しに果物があればいいんだけど。そういえば、さっき……」
「待て。俺も行く。そんな格好でうろつくな」
とりあえず生乾きの服を着て、再び雨の中を歩く。
「見て、蛇苺がある」
「……食えるのか?」
味見がてら、一粒を口に入れると、酸味が口いっぱいに広がり、うっと顔をしかめた。
「他を探しましょう」
しばらく歩いて、
「見て、あれなら食べられそうじゃない?」
何とも言えない表情を浮かべる翡翠に、「大丈夫よ」と請けあう。
「毒見は私がするから」
「そこまでして食べる必要はない」
制止の声を振り切って、試しに一つ、もぎ取ってみる。
一口齧って、はっとした。
葡萄と桃を掛け合わせたような、さわやかな味がする。
これなら翡翠も顔をしかめずに食べてくれるだろう。
「翡翠、食べてみて。美味しいから」
手に届く範囲にある実は色が薄く、それほど熟していないように見える。
上のほうを見ると、濃い色の果実がたわわに実っていた。
結構な高さの木だが、登れないこともない。
幹に手をかけたところで、後ろでドサっという音がした。
驚いて振り返ると、翡翠が倒れていた。
「翡翠っ」
うつ伏せになっている身体を起こして、慌てて抱き抱える。
「どうしたの」
「……心配しなくていい。少し、疲れただけだ」
白龍との一件で、いつも以上に力を使いすぎたようだと彼は言った。
「ただ……しばらくは、動けそうにない」
「だったらこのまま眠って。そばにいるから」
とりあえず樹木の下にいれば、多少の雨はしのげるだろう。
樹木の幹に背を預けて、膝枕をすると、翡翠は瞬く間に眠りに落ちた。
よほど疲れていたに違いない。
昨夜も、野盗や獣を警戒して、一睡もしていなかったようだし。
――これは当分、起きそうにないわね。
ぼんやり空を見上げて、雨音に耳を澄ませていると、私までうつらうつらしてしまう。
「いけない、ちゃんと起きてないと」




