第二〇話
暗雲立ち込める空気の中、二頭の巨大な龍がにらみ合っていた。
一頭は少女を抱えた翡翠色の鱗を持つ青龍で、もう一頭は真珠色の鱗を持つ白龍である。
青龍は激しい怒りの咆哮を上げると、ためらうことなく白龍を攻撃した。青龍の牙は固い鱗を物ともせず、白龍の身体に深く食い込む。宙に血を撒き散らせながら、白龍は悲鳴を上げ、長細い身体をくねらせた。
なんとか牙から逃れ、身を守ろうと攻撃に転じる白龍だったが、青龍にあっさりと受け流され、苦戦を強いられてしまう。二頭の龍が無自覚に使う力のせいで、天候は荒れに荒れ、強い風が吹き、雨まで降ってきた。
近くで何度も雷が落ち、恐ろしさのあまり、少女は悲鳴を上げた。
青龍が、番である少女の悲鳴に気を取られた瞬間、白龍が青龍の喉元に食らいつく。
――そこまでだ。
雷鳴の如く轟く声に、二頭の龍はぴたりと動きを止めた。
暗く、分厚い雲の隙間から、一筋の光が差している。
――双方、牙を引いて、頭を垂れよ。余を誰だと思っている。
***
いつの間にか意識を失っていたらしい。
目を覚ますと、首から血を流している陛下がいて、私は泣いてしまった。
「ごめんなさい、私のせいで」
「いい、気にするな」
「……傷を見せて。手当するから」
「見た目ほど深くはない。かすり傷だ」
もう血は止まっていると言われても納得できず、引き裂いた衣服の布切れで応急処置をする。
「あなた、分身ではないわよね?」
「……ああ」
まさか政務を放り出してまで助けに来てくれるとは思わず、申し訳なさのあまり、肩を落とす。
「人の姿をとるのは窮屈だと狼が言っていたけれど、本当なの?」
「慣れているから平気だ」
嘘だと思った。私も「痛みには慣れている」と白龍に言ったけれど、内心は恐ろしくてたまらなかったから。弱みを見せたくなくて、虚勢を張っただけ。苦しみや痛みに慣れるなんてこと、私にはできない。
だから陛下も同じだと思った。あれほど巨大な龍が、こんなに小さな人間になってしまうなんて、実際に目にした今でも信じられないのに。きっと、人の姿を維持するには、大変な労力を使うに違いない。
「俺はこの姿のほうが好きだ。おまえと同じだから」
彼の一人称が「私」から「俺」に変わったことに気づいて、私は息を飲んだ。
陛下の表情が以前にも増して、優しく、穏やかに見える。
――まるで翡翠みたい。
元より、彼は翡翠なのだ。陛下のこの変化は、もう一人の自分――翡翠を受け入れた証に違いないと考えて、胸が熱くなった。
「助けに来てくれて、嬉しかった」
「……心配した」
「ごめんなさい」
彼以外の男に近づくなと言われていたのに。
「言いつけを守れなくて」
「俺こそ、すまなかった。白龍は速い。追いつくのに、時間がかかった」
「……彼はどうしたの?」
「陛下に呼び戻されて、天上界へ戻った」
それを聞いて、思わず拍子抜けしてしまう。
私が意識を失ってから、かなりの時間が経ったらしく、気づけば辺りは真っ暗になっていた。夜目が利くようになったせいか、それとも陛下がそばにいるせいか、以前ほど暗闇が怖くない。
「彼、あなたの命を狙ってた」
「違う。そう、おまえに思い込ませようとしただけだ」
青龍の調査というのは建前で、最初から私のことが狙いだったらしい。
おそらく、天帝は白龍を使って、私を試したかったのだろうと陛下は言った。
「試すって何を?」
「わからない。一介の神獣には計り知れない、深い考えがあってのことだと思うが」
――もしかして、私が陛下の神名を知ってしまったから?
「けれどおまえは、正しい振る舞いをしたようだ。だから白龍が呼び戻されたのだろう」
優しく頭を撫でられて、誇らしげな気持ちになる
私が可愛い子犬に変身できたら、彼の膝の上で思い切り甘えられるのに。
そんな私を、陛下はじっと見つめている。
「俺が好きでおまえを選んだわけではないと、白龍に言ったそうだな」
「怒ってるの?」
でも事実だわと小声で付け加える。
「おまえは呪いと言うが、俺は違うと思う。番に囚われたくなければ、番を捜さなければいいだけのことだ。現に朱雀も白龍もそうしている。それに捜したところで、見つかる保証もない。俺はおまえに出会うまで、何十年、何百年と捜し続けた。おそらく俺が捜さなければ、おまえに出会うことはなかっただろう」
その言葉に、はっとする。
「俺はおまえに会いたかった。だから捜した。おまえと共にあることを、俺が望んだんだ」
力強い声だった。
優しく、愛おしげな眼差しを向けられて、私は涙ながらに「ごめんなさい」とつぶやく。すると謝罪の言葉は聞き飽きたと言われて、代わりに「笑え」と命じられた。
言われた通りに笑ってみせるけど、真剣な顔で見つめられて、妙にくすぐったい。
「そういえば、陛下はどうして、私があそこにいるとわかったの?」
ふと黙り込んだ彼に、「陛下?」と首を傾げると、
「そろそろ、俺のことを敬称で呼ぶのはやめて欲しい」
ふてくされたような顔で言われて、「まあ」と吹き出してしまう。
「確かに、天帝陛下と区別がつかないものね」
「そういう問題じゃない」
まだ何か言おうとする彼の言葉を遮って、私は腕組みする。
「けれど、あなたの本当の名前を口にするわけにはいかないし」
「いつもの名で呼べばいい。おまえに出会って、思いついた名だ」
「……翡翠」
あらためてその名を口にすると、翡翠は嬉しそうに笑う。目の前にいる大人の翡翠と、出会ったばかりの、まだあどけない少年の姿をしていた翡翠の表情が、ぴたりと重なった瞬間だった。
「翡翠、翡翠」
胸に熱いものがこみ上げてきて、彼の傷に触れないよう、慎重に身体を寄せる。
吐息が触れそうなほど顔を近づけられて、私は黙って目を閉じた。
「あなたに出会えて良かった」
「……俺もだ」
「こういう時、なんて言えばいいのかしら」
何も言わなくていいと、彼は強く私を抱き寄せた。