第二話
青帝陛下御一行が視察を終えて都に戻られた数日後、私は都に向かう馬車の中にいた。
「あんたも一緒でよかったわ。さすがに独りだと心細くて」
美しく着飾った連油に話しかけられながら、私は遠い目をして窓の外を眺めていた。
「何よ、せっかく都に行けるっていうのに。辛気臭い顔しちゃって。嬉しくないの?」
「……なんで私まで」
「村長の娘であるあんたを差し置いて、あたしだけ特別待遇ってわけにはいかないでしょ」
案の定、連油は、青帝陛下のお付きの人の目にとまり、宮女として後宮に入ることになった。ただし下級宮女としてではなく、上級宮女としてだ。くわえて支度金が与えられ、必要な衣装や装飾品まで用意してもらえるというのだから、破格の待遇といえる。
ゆえに彼女の両親も、諸手を挙げて娘を送り出したというが、
「もしかして裏取引した?」
ずばり切り込むと、連油は決まり悪そうに視線をそらした。確かに彼女は村一番の美人だし、細身のわりに出るとこは出ていて、男性の好みそうな体型をしている。けれどそれだけだ。連油より美しい宮女など、都にいけばごまんといる。絶対に何かあると、私は踏んでいた。
「連油……」
「そんな目で見ないでよ。別に悪いことなんてしていないんだから」
本当に?
「あんただって、ずっと都に行きたがっていたくせに」
「今は違う」
私はすぐさま答えた。確かに上級宮女であれば、妓女のような教育を受けずに済むし、夜伽に呼ばれることもないだろう。けれど、
「宮女にはなりたくないの、どうしても」
「翡翠に操でも立ててるつもり?」
ずっと思い出さないようにしていたのに。
突然、幼馴染の名まえを出されて、私はうろたえた。
「あんた、あいつのこと好きだったもんね」
私は父の本当の子どもではない。
私の生みの親は罪人で、島流しの刑に処されて、護送中に死んでしまった。私はその道中で生まれたらしく、私を取り上げた老女が、母親代わりに面倒を見てくれた。
母が売れっ子の妓女だったことは老女から聞いた。
そんな母に似ていると言われても、私は少しも喜べなかった。
十一歳の時に老女が亡くなると、私は食べ物を求めて村を渡り歩くようになった。
けれど、何処の馬の骨ともわからない、薄汚れた子どもに食べ物を恵んでくれるような大人はほとんどいなくて、私はまもなく力尽きて、動けなくなってしまった。
そんな私の前に現れたのが、父の知り合いの息子、翡翠だった。
私が養女として村長の家に引き取られたのも、彼のおかげだ。
「だって、命の恩人だから」
「一体どこに行ったんだろうね、あいつ」
私が十三になった年に、翡翠は姿を消した。
別れの挨拶もなく、ある日忽然と姿を消してしまったのだ。
「自分の家に帰ったみたい。もう二度と村に来ることはないだろうって父も言ってたし」
「なんかワケアリっぽかったもんね」
「とにかく、私は宮女にはならないし、後宮にも入らないからね」
頑なに言い張ると、連油は苦笑いを浮かべて言った。
「だったら、あのまま村に残るほうが良かった?」
「それは……嫌だけど」
あの村にいると、翡翠のことばかり思い出して、辛いから。
「どのみち、職探しはするつもりだったし」
「宮女が嫌なら下女はどう? 宮城の敷地は広いんだから、いくらでも仕事はあるわよ」
なるほど、その手があったかと私はほっとした。
後宮にさえ入らなければ、青帝陛下の目に止まることはまずないだろう。
「あたしと一緒に来てくれるわよね? あんたがいないと、心細くて死んじゃうかも」
らしくない台詞。
上目遣いで懇願されて、仕方がないなと私はうなずく。
その日の夜、久しぶりに翡翠の夢を見た。
…………
………
……
「食えよ」
空腹のあまり動けずにいた私の鼻先に、ホカホカの饅頭を押し付けながら彼は言った。
「ほら、食えってば」
まるで野良犬にでも餌を与えるような口ぶりで。
言っている本人は、そんなこと思っていないのかもしれないけど。
でも実際、私は野良犬みたいなものだと思う。
無人のあばら家を拠点に、食べ物を探して村のあちこちをうろうろしている。
そして村の人たちは、私を見かけても知らん顔。
下手に餌を与えて、居着かれたら困るから。
「いらないなら俺が食っちまうぞ」
本当は「いらない」と言って拒みたかった。
あんたの哀れみなんかいらないって。
だって彼はどう見ても私と同じ、十二歳くらいの子どもだったから。
相手が大人なら喜んで恵んでもらうのに。
どうしてだろう。
けれど生存本能には逆らえなくて、私はそろそろと饅頭にかじりついた。
直後に肉汁が溢れ出して、美味しい……食べることに夢中になって、危うく咳き込みそうになったけど。
そんな私を見て、彼はにこにこと満足そうな顔をしていた。
「おまえ、うちに来いよ」
見るからに裕福そうな身なりをした少年は言った。
「うちに来れば好きなだけうまい飯が食えるぞ」
野良犬だったら喜んで彼についていくと思う。けれど私は人間だから「いやだ」って言わなきゃ。でないと一生、私はこの男の子に頭が上がらない。奴隷みたいになってしまう。
「ほら、もう一つ饅頭やるからさ。来いよ」
私は口いっぱいにお饅頭を頬張りながら、「うん」とうなずいていた。
人は餓死しかけると、心まで野良犬になってしまうらしい。
「おまえ、名は?」
「珊瑚」
珊瑚、と彼は噛み締めるように私の名前を口にする。
「俺は翡翠だ」
村長のお屋敷で、下女として働くようになってからというもの、翡翠は事あるごとに私に絡んできた。黙っていれば、その名の通り、綺麗な翡翠色の目をした、端正な顔立ちの少年なのに。
「なんだ、こんなところにいたのか」
翡翠の正体はさる高官の息子で、静養目的で村長の屋敷に身を寄せているのだという。道理で偉そうなわけだと、私は納得した。
「なあ、何してんだよ」
「見て分からない? お洗濯してるの」
「馬鹿だなぁ、そんなの使用人にやらせとけばいいのに」
「私がその使用人なんだけど」
「そんなことより外に遊びに行こうぜ」
「仕事の邪魔をしないで――きゃっ」
いつだって、いいように振り回されてしまう。実のところ、私は翡翠のことが苦手だった。
底抜けに明るくて、自由奔放で、私にはないものをたくさん持っていたから。
「だいたい、俺はうちに来いとは言ったけど、使用人になれとは言っていないぞ」
「そもそもここ、あんたのうちじゃないし」
私のツッコミを無視して、翡翠は続ける。
「だいたい、おまえはまだ子どもだろ」
子どもなのはお互い様でしょと言い返しつつも、頬を膨らませる。
「居候の身で、何もしないわけにはいかないよ」
「勉強すればいいじゃん。家庭教師がいるんだから」
「いつもさぼってる翡翠に言われたくない」
呆れながら、私は言う。
「そんなんで科挙に合格できるの?」
「いや、俺、科挙なんか受けるつもりないし」
「え、でも、翡翠のお父様は偉いお役人でしょう? 後継がいないと困るんじゃ……」
「俺のことはどうでもいいんだよ。それよりおまえ、もっと食えよ。ガリガリじゃないか」
話をごまかさないで言うと、口に甘い飴玉を押し付けられる。
「俺、おまえがもの食ってるとこ、見るの好き」
欲張って口いっぱいに飴を頬張る私に、翡翠は言った。
「そんなこと言われたら食べにくいんだけど」
「なんで? 可愛いのに」
そういうことをさらりと言うから、苦手だ。
「いっぱい食って、早くでかくなれよ、珊瑚。待っててやるから」
それから瞬く間に月日は流れ、二年が経ち、翡翠は私の前から姿を消した。
いつかはこの日が来るとわかっていたし、覚悟もしていた。
けれどまさか、何も言わずに行ってしまうなんて。
そんな薄情な人だとは、思いもよらなかった。
――翡翠の馬鹿。
けれど、私のほうがもっと馬鹿だ。
私は翡翠のことが好きだった。けれど私は子どもで、ひねくれてて、その感情を素直に受け入れることができなかった。だから本人に好きだと告げたことは一度もない。そのことをずっと後悔していた。