第十話
――二年後、
「ねぇ連油、私の寝巻きが見つからないんだけど」
湯浴みを終えて、肌着姿のまま、台所にいる連油に声をかける。
何やら怪しげな薬草をすり潰しながら、連油はにこやかに答えた。
「ああ、あの色気のない粗末な夜着なら捨てたわよ」
ふーん……って、ひどくない?
「ちゃんと代わりは用意してあるから、今夜はそれを着なさい」
嫌な予感を覚えつつ、二階の自室に入ると、上等な絹の布地で仕立てた衣が用意されていた。ところどころ金の糸で刺繍が施されていて、肌触りも素晴らしく良い。
――こんな豪華な衣装を着て眠れっていうの?
早速連油のところへ言って、文句を言うと、
「それにちょっと薄いし」
「大丈夫よ、陛下のご寝所は暖かいから」
そうか、わかった。そういうことね。
私ももう十七歳。ついにその時が来たのだと、視線を遠くに向ける。
「馬鹿ね、あんた。陛下が成人前の娘に手を出すわけ無いでしょ」
呆れたような連油の言葉に、それもそうかと納得する。
「あんたはいつも通り、歌と踊りで陛下をお慰めすればいいのよ。生地が薄いのはそのほうが動きやすいと思ったから。もうすぐ楊様がお迎えに来られるから。無駄な抵抗はやめて、大人しく待ってなさい」
一足先に成人になったせいだろうか。
お姉さんぶるというより、母親みたいな口調で言う。
「わざわざ迎えに来なくても、こっちから行くのに」
「あんたを一人で出歩かせるわけにはいかないでしょ。襲われたらどうするの」
眉を吊り上げる連油に、「大げさ」とつぶやく。
「鏡を見て気づかないの? あんた、この二年で見違えるように綺麗になったわ」
それは連油の方だと思う。簡素な衣の上からでもわかる曲線美、二年前よりもさらに大きく育った豊満な胸もと――宮城で働く男どもを釘付けにしている連油の肢体と、自分の平坦な身体を見比べて、私はふっと笑った。
「身内の欲目じゃない?」
思わず憎まれ口を叩くが、連油は気にしていないようで、
「そなたの手腕のおかげだって、楊様にたっぷり報奨金いただけたもの」
ほくほく顔で薬草を煎じる連油の横顔をじっと見つめる。
――誠心誠意お仕えしますって言ったくせに。
あの言葉は嘘だったの? 友達だと思っていたのに。
そもそも友情とお金、どっちが大切なのよ。
なじりたい気持ちをぐっと堪えて、息を吐く。
「そろそろ楊様がお迎えに来られる頃よ、さっさと部屋に戻って着替えてらっしゃい」
***
宮中に入ってすぐ、案内されたのは陛下の寝所ではなく執務室で、なぜか食事の用意がなされていた。食卓の上にずらりと並んだ料理の数々、熟した林檎や瑞々しい果物が山のように盛られた籠――これは一体?
「本日から、ご夕食は陛下とご一緒に、とのことです」
だから今日は夕餉抜きだったのねと、豪勢な食事を前にして、生唾を飲んでしまう。それにしても執務室で食事を摂るなんて、よほどお忙しいらしい。
隣室から陛下が現れるのを待って、私は席に着いた。
幸い、給仕をするのは上級宮女ではなく部屋付きの使用人で、それほど緊張することなく食事に集中できた。ただし食事の最中ずっと陛下の視線を感じて、居心地の悪いことこの上なかったけれど。
食事が終わると、場所を移して、私はいつものように芸を披露した。
二胡の演奏がつく時もあったし、ない時もあった。
「相変わらず見事だ」
恐れ入りますと頭を下げつつ、疲れを見せないよう、笑みを浮かべる。実際のところ、人前で踊ったり歌ったりはかなり神経を使う上に体力も消耗するため、ぐったりしていたが、その疲労感が心地よかった。やはりそこは、妓女であった母の血を引いているのかもしれない。
手慰みに二胡を弾いていると、
「何か欲しいものはないか?」
唐突に訊ねられて、はっとする。
私は今日で十七になった。
その祝いも兼ねているのだと、先程の豪勢な食事を思い出して、納得する。
――欲しいもの……欲しいものか。
連油だったら、真っ先にお金と答えるだろうが、何も思い浮かばない。
けれど何もいらないと言えば、陛下に対して失礼だ。
見たところ陛下は無表情で、私の演奏をつまらなそうに聞いているようにも見える。以前の私なら、義理で言っているのだろうと思い、「何もいりません」と面と向かって断っただろう。
――でも違うのよね。
緊張しつつも、彼なりにこの時間を楽しんでいると、今ならわかる。
伊達にこの二年間、彼を観察していたわけではないのだ。
――神獣に愛を育むという概念はない。
なぜなら彼らは、相手が番というだけで深い愛情を注ぐから。神獣同士であれば、何も語らずとも、互いの気持ちを疑うことも、誤解することもなく、深い絆で結ばれる。けれど人間にはそれがわからないから、態度や言葉で愛情を示さなければならない。ただそばにいるだけでは、何も伝わらない。
――さぞかし、もどかしい気持ちをされたと思う。
番が人間ではなく同じ神獣であれば、このような回りくどいこともせずに済んだだろう。
最初から、裏切られることもなかったはずだ。
「でしたら、お部屋に飾る花をいただけますか?」
「……花?」
「はい、陛下が美しいと思われる花を、一輪だけ」
後日、私の元に届けられたのは、水の中で大輪の花を咲かせる水中花だった。透き通った硝子の器に入っていて、特殊な水を使っているため、一生枯れることがないという希少なものだ。
「花言葉は愛する喜び」
陛下は私に優しい。大切にされていると、今なら実感できる。けれどもし、私の推測が正しければ――というより、それしか考えられないのだが――私の、陛下に対する思いはさらに強くなると思う。
――問題は、なぜ陛下がそのことを隠しておられるのか、だけど。
この二年間、いつかは打ち明けてくれるだろうと期待して待っていたのだが、その気配はまるでなく、いいかげん、私もしびれを切らしていた。




