第一話
――目をお覚ましください、陛下。
――我ら民を哀れに思うのなら――。
――この国を、我らを、どうかお見捨てになさいますなっ。
正門の前に集まる民衆の姿に、私は息を飲んだ。
女、子どもにいたるまで、みな武器を手に叫んでいる。
警備の者たちの反対を押し切り、様子を見に外へ出ていた私は、すぐさま茂みに身を隠した。
――出てこい、青帝陛下を堕落させた女狐めっ。
――国を守る結界が弱まったのはおまえのせいだ。
怒り狂う民衆たちの声がここまで響いてくる。
――国を滅ぼす悪女っ。
――切り刻んで、豚の餌にしてやるっ。
全ては計画通りだった。
これで青帝は、悪女である私を、後宮から追放せざるを得なくなる。
ようやく自由になれるのだと、私は涙した。
蓬莱国を治める青帝は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、子を作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。
なぜなら私が、番と呼ばれる存在だから。
要するに伴侶――天が定めた運命の相手みたいなもので、私に拒む権利はなかった。
青帝にとっても不本意だったと思う。同族相手なら子どもができるけど、人間とのあいだにはできないから。もっとも青帝が子どもを望めば、だけど。
青帝の后となったその日から、私は囚われの身となった。
事実上の軟禁状態――そしていつも不機嫌そうな顔で私を抱く夫。
もう限界だと思ったその時、私に手を差し伸べてくれた人がいた。
宮女時代、同室だった友人で、商家の娘でもあった瑪瑙だ。彼女が、実家のツテを使って私の悪評を故意に広め、民を扇動してくれたおかげで、混乱に乗じて、後宮を抜け出すことができた。
あとは彼女と落ち合い、下女に扮装して、一緒に外へ――
「どこへ行くつもりだ?」
冷ややかな声に、背筋がぞくりとした。
こわごわ顔を向けると、そこには美しい青年が立っていた。
緑がかった黒髪に濃い緑色の瞳――人の姿になった神獣は、息を呑むほど美しい姿をしている。当然ながら、人間的な温かみは一切感じられない、人形のように無表情だ。
「あやつなら来ぬぞ。余が殺した」
彼の血走った目を見た瞬間、咄嗟に逃げなければと思った。
けれど走り出す前に私は捕まり、気づけば首を締められていた。
凄まじい力――息ができない。
ああ、私は死ぬのだと、否応なしに悟った。
「なぜだ……なぜ――っ」
青帝陛下が泣く姿を、私は初めて見た。どうしてだろう、胸が痛む。
自分を殺そうとする相手に同情するなんて、おかしな話だけど。
私はずっと、望まれない后――番だと思っていたから。
いてもいなくても同じだと。
「それほどまでに余を厭うのか」
私を嫌っているのはあなたのほうでしょうと言い返したかった。
神獣と違って、私は弱くて短命で、あなたの役には立たないから。
最初から、私に対する態度もそっけなくて、だから私が逃げたところで何とも思わないだろうと――悲しむどころかほっとするだろうと思っていたのに。こんな風に激しい感情をぶつけられるなんて、思いもよらなかった。
「余はずっと、そなたのことを――」
夫の声を遠くに聞きながら、今になって私は反省していた。こうなったのも自業自得だと。ただ自由になりたいばかりに、大切な友人を巻き込んで、罪のない民を混乱に陥れて――私は正真正銘の悪女だ。
一体どこで間違えてしまったのだろうと思いながら、私は息を引き取った。
…………
………
……
と思ったら、
「おみえになりました」
仕切り越しにあがった使用人の声に、私は伏せていた顔を上げた。
ここはどこ? 私は誰?
「どうした、珊瑚」
怪訝そうな父の声に、私ははっとした。そうだ、私の名は珊瑚。
辺境の村の、村長の一人娘。
思わず立ち上がって、居間の壁に立てかけられた姿見をのぞきこむ。そこには、晴れ着姿の、記憶よりもずいぶんと若い自分の姿が映っていた。青白い肌にほんのりと色づいた唇、高く結い上げた藍色の髪に薄桃色の目――
「お父様、私、今年でいくつになるんでしたっけ?」
「何を寝ぼけたことを。ついこの前、十五歳になったばかりだろうが。それより、青帝陛下御自ら視察にお越しくださったというのに。いつまでここでぼさっとしているつもりだ。早く出迎えにゆかねば」
父の言葉に私は反射的にかぶりを振っていた。
「ごめんなさい、お父様。私、具合が悪くて」
先ほど目にした光景が、目に焼き付いて離れない。
あれが白昼夢でないとしたら、私は過去に――四年前の自分に戻ったことになる。
四年前、都から来た役人がこの村を訪れて、後宮の宮女を募集していると言った。
ひとたび後宮に入れば、臣下に下賜されるか、尼寺に入るかしない限り、生きて出ることは許されない。それでもこの村にいるよりはマシだと思い、私は一も二もなく飛びついた。父の反対を押し切り、その日のうちに旅支度をととのえると、意気揚々と家をあとにしたのだった。
私は最初、宮女と聞いて、神様に仕える巫女のようなものを想像していた。
もっともその役目は――神獣である青帝陛下の身の回りのお世話や、食事の給仕等は――名家出身の上級宮女たちが担っていて、私のような、平民出身の下級宮女は洗濯や掃除といった雑用が主な仕事だった。
最初の二年間はひたすら雑用をこなす毎日だったが、十七になると、歌や舞踊の稽古をさせられるようになり、同時に閨の教育も始まった。これではまるで妓女と変わらないではないかと辟易したが、幸い、私は歌や踊りが嫌いではなく、むしろ好きなほうだった。たまに宴会の席でお酌をさせられ、踊りを披露することもあった。
青帝陛下の心をお慰めし、楽しませるのが、下級宮女に課せられたもう一つの仕事だと教えられた時、神獣にも性欲があるのかと、単純に驚いたものだ。
けれど実際、夜伽に呼ばれた宮女はほとんどおらず、同じ宮女が連続して呼ばれることもなかった。下級宮女とはいえ、皆厳しい審査を経て宮女になった美女ぞろいである。青帝陛下はよほど女の好みにうるさいか、または色事に淡白なのだろうと先輩宮女たちが噂しているのを聞き、私のような田舎娘が夜伽に呼ばれることは万に一つもないと、密かに安心していた。
一方の上級宮女たちは、花嫁修業程度に仕事をこなし、結婚適齢期が過ぎる前に、青帝陛下の采配によって嫁ぎ先が決められ、手付かずのまま、臣下に下賜されていった。
後宮に来てから三年間、私は青帝陛下にお目通りするどころか、そのお姿すら、拝見したことがなかった。だから突然、夜伽を命じられ、翌日に番だと言われ、この国で初めて后の称号を賜った時も青天の霹靂で、ただただ、夢を見ているとしか思えなかった。
――そうだ、四年前、この村に来たのはただの役人だった。青帝陛下ご自身じゃない。
一体どういうことかと思ったが、鏡に映る姿はどうみても十五歳の私だし、ここは故郷の村だし、時間が巻き戻ったとしか考えられない状況だ。
――今度は絶対に都へは行かない。陛下にも会わない。そしたら……。
瑪瑙は死なずに済む。
私も、殺されることはない。
「もし風邪だったら、うつす恐れがあるので……」
「だったら部屋で休んでいなさい。今日は一日、外には出ないように」
父の許しを得ると、これ幸いとばかりに、私は二階にある自室に駆け込んだ。
一張羅の晴れ着を脱いで、質素な部屋着に着替える。
窓の外を見ると、十人ほどいる使用人たちが、朝から開放されたままの正門の横で、一列に並んでいた。皆、落ち着かない様子で、しきりに空を見上げている。
門から少し離れた場所には、ひと目だけでも青帝陛下を見ようと、村の住人たちが集まっていた。前列にいるのは美しく着飾った娘たちで、村一番の美人と評判の連油の姿もあった。私よりも一つ年上で、切れ長の瞳に華やかな顔立ちをした美少女だ。
彼女も私と同じで、都での生活に憧れていた。けれど、宮女になることを、親に強く反対された上、結婚相手も決まっていたため、やむなく村に残ったのだった。
――連油だったら、青帝陛下のお付きの方の目にとまりそうだけど。
庶民にとっては雲の上の存在である、宮中の役人に、娘を後宮に入れるよう勧められれば、親とて否とは言えないだろう。
下級宮女とはいえ、能力の高い者には女官としての道も開かれるというし、度胸がよく、姐御肌の連油には、そちらのほうが合っているのではないかという気がする。
――けど、今は人の心配より自分の心配しないと。
頭を切り替えて、空を見上げる。
多くの龍が列を成して、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。
龍とは、蜥蜴の姿に似た空飛ぶ生き物で、蓬莱国では家畜として飼育され、乗りもの用や運搬用として人々の生活を支えている。龍使いと呼ばれる職業があるくらいだ。宮中にもお抱えの龍使いが多くいた。
同じ龍でも、神獣である青龍とは天と地ほども異なる。ただ空を飛ぶだけの龍とは違って、青龍は空を覆い隠すほど巨大で、神通力を使い、天候を自在に操ることができるからだ。
その昔、東の地を治めるよう神に命じられ、地上に降り立った青龍は、外敵から身を守るために、霧の息を吐いて――なんぴとたりとも侵入できない――結界を作った。そして、人の姿をとった際、移動手段に困らぬよう、自らの姿を似せた生き物、龍を作った。それがこの国の始まりである。
きらびやかで、いかにも重そうな輿を背負わされているというのに、龍たちは音もなく着地する。
まもなくして、豪華な輿から一人の人物が頭をのぞかせた。
静かに地面に降り立つと、その人はゆっくりとした足取りで父の前に立った。
丈がくるぶしのところまである絹の長衣を金のベルトで締めて、色鮮やかな刺繍がほどこされた薄い上着を羽織っている。耳飾りや腕輪なども細工が凝っていて、一目で値打ちのあるものだとわかる。それでいて華美でなく、上品にまとめられていた。
ここからだと声は聞き取れないものの、青帝陛下にお声をかけられ、父が恐縮して平伏するのが見えた。私たち民にとって、青帝陛下は神様も同然で、お言葉をかけられるだけでも、大変名誉なこと。
頭ではわかっているものの、先ほど目にした光景――涙を流しながら私の首を絞める彼の姿を思い出すと、とても出て行く勇気はなかった。
建国当初から、青帝陛下の花嫁探し、もとい青龍の番探しは有名な話で、私も寝物語に何度も聞かされた覚えがある。
神獣には生まれた時から神の定める伴侶がいて、その相手以外、番うことができないという。後宮が作られたのも、もとは番探しのためらしいが、百年、二百年、五百年が過ぎても番は見つからず、もはやおとぎ話と化していた。
――まずい、こっちを見た。
青帝陛下と目が合った気がして、私は慌てて窓から離れると、寝台に座り込んで息を吐いた。
――大丈夫、落ち着いて。あの程度じゃ気づかれないわ。
現に後宮に入ってから三年間、存在すら認識されていなかったのだから。
だから夜伽に呼ばれた直後に番だと認定されても――そもそもなぜ私が夜伽に指名されたのかと、今でも不思議でならない。実感がわかないうちに后となり、自由を奪われ、後宮の豪華な一室に閉じ込められた。青帝陛下は毎夜、私の寝所を訪れたし、その度に高価な宝石や衣類を贈ってくれた。そっけない態度ではあったものの、それなりに気を遣ってくださっているのだと感じたのは最初だけ。
私に向ける顔はいつも無表情で、こちらが歩み寄ろうとすればするほど不機嫌になっていく――そんな彼を見て、私に対する彼の行為は全て義務的なもので、そこに深い意味はないのだと、愛情はないのだと、悩んだ末に結論づけた。
そうなると、青帝陛下のお顔を見るだけでも辛くて、私は体調不良を理由に彼を避けるようになっていた。そんな私の慰めにと呼ばれたのが、宮女時代の親友で同室だった瑪瑙だった。
彼女は裕福な商家の生まれで、後妻の陰謀で無理やり後宮に入れられたのだという。そのせいか、父親は激しい罪悪感にかられているらしく、父は自分の頼みなら何でも聞いてくれると、こっそり教えてくれた。小柄で童顔、愛らしい見た目とは裏腹に、彼女は聡明で、度胸が据わっていた。
――いつか、二人で後宮を逃げ出そうって……毎日のように話してて――。
彼女のことを思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。
もう二度と、大切な友人を巻き込むようなことはしないと、私は心に誓った。