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第八論:〈羅生門〉の教材研究

2020/01/07

No.08

「〈羅生門〉の教材研究」

-文学読解に意義はあるか-




1. はじめに


 高等学校学習指導要領(2019)には、高校国語科が育成すべき事項として、次のようにある。「言葉の持つ価値への認識を深め(中略)生涯にわたり国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う」(第2章第1節第1款)。

 教育(1)の目的とは、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期すこと」(教育基本法第1条)で、「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培う」(同法第2条)ことは、すべての教職員が、いかなる教育現場であっても、すべての教育活動において常に意識して取り組むべき第1番目の目標である

 次なる社会の形成者となっていく生徒が豊かな人間性と調和の取れた人格を備え、他者との協調性や相互援助の精神をも兼ね備えたとき、教育は、はじめてその「教育」としての責務を全うしたと評されるのであり、従って、その具体的実践たる日々の「授業」は、すべて先述した目的と、それに基づいて作成された目標とを踏まえたものであるはずで、高校国語科においても、勿論それは例外ではない。

 人間は、「言葉」を操る唯一の動物である。人類の文化の発達は、常にこの「言葉」とともにあった。我々人間は現状、「言葉」に依らない意思疎通の手段を持ち合わせていない(2)。人間が精神の外側にある外的世界を認識できるのは、すべて「言葉」による記号化と体系化の賜物なのである。国語教育が目指すべきは、幅広い知識と深い教養とに基づいた確かな言語観を根づかせ、育て、養うことであって、そのためには評論作品分野(論理国語)と文学作品分野(文学国語)のいずれの知識・教養も欠けてはならない。ことに文学作品の読解は、豊かな人間性の完成に寄与するばかりでなく、具体的な日々の暮らし、すなわち生徒一人ひとりを取り巻く実際の他者関係・人間関係に直接に好影響を与えうる。

 人間は、他者と関係するとき、常にその他者の顔色を観、言葉遣いや語調を捉え、発話内容を適切に理解して、以てその人との関係性を友好かつ円滑なものにしようと努力する。自己と他者とを仲立ち、また他者理解(自己理解も含めて)に最も寄与するものこそは「言葉」なのであって、個々人の言語能力の高低はそのまま対人関係の得手不得手に直結しうる。従って、人が集団を形成し、その社会の中で生きていこうとする限り、言語能力の錬磨と深長は決して避けるべきものではなく、国語教育はこのことを常に心の一隅に据えて実践されなくてはならない。

 文学作品の学習の狙いは、まさにここにある。文学作品の理解とはつまり、その作品に描かれた内容から作り手の意思・主張を正しく(最も適切に)把握し、理解することなのである。そのためには、描かれた作品の内容はもとより、端々にちりばめられた些細な描写の一つ一つ、作中に現れる登場人物の発言ややり取り、内省言語の隅々に至るまでを悉く観察し、具に検討していかなくてはならない。この時、必要となってくる根本が語彙力・推察力などで、これらの力を土台として表現力や人間理解の能力などが涵養されていくのである。

 すなわち、文学作品の学習の最高目標とは、「人間とは何か――」という問いの存在に気づき、その問いに対する解を日々模索し、全生涯に渡ってこの問いを探究する力を養うことなのである。

 人間が、人間として、人間らしく生きていくことを志向する限り、言語教育の意義と価値が失墜することは決してない。




2. 「羅生門」の疑問点


 どんな創作物にも、必ず作り手というものは伴うものである。作品の作り手は、あたかも万物の創造主がごとく、その作品の世界を造り、作中の登場人物を生み出し、また読み手を喜怒哀楽せしめる。

 芥川龍之介「羅生門」は、1915(大正4)年に雑誌『帝国文学』にて初出し、1917(大正6)年には阿蘭陀書房より第一創作集『羅生門』が刊行されたが(精選国語総合編集委員会, 2017)、戦前の検定教科書に本作品が掲載された記録はなく、我が国の国語科教科書における初採録は1956(昭和31)年であった(筑摩書房, 2019)。以降、のべ130回以上の採録を経て現在ではいわゆる「定番教材」としての不動の地位を獲得している小説「羅生門」であるが、それは戦前・戦後の国民教育において期待される趣旨が全く異なっていたことと無関係ではないだろう。

 集団主義・国家主義・軍国主義などが唱導された戦前日本においては、当然のことながら教育界においても、このような思想や価値観が容認され、また基本的教育観の部分を成したものと考えられる。軍国主義などにおいては、勇気や正義を称賛し、愛他的で自己犠牲的な精神の涵養と錬磨が唱導される。従って、「羅生門」の教科書への掲載は、当該作品の持つ作品性のために、戦後の教育改革を待たねばならなかったのだろう。

 ところで、「羅生門」には、読解する上で留意すべき疑問点が幾つかある。以下に列挙するので御覧いただきたい。なお、配列は単に本文に登場する順番にのみ従うものとする。



・なぜ「この男の他には誰もいない」のか(1)

・なぜ「右の頬にできた、大きなにきびを気にしながら」いるのか(2)

・「どうにもならないことを、どうにかしようとして」とはどういうことか(3)

・「手段を選んでいるいとまはない」とはどういうことか(4)

・下人が手段を「選ばないとすれば」どうなってしまうか(5)

・なぜ「積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」のか(6)

・「どうせ死人ばかりである」とはどういう意味か(7)

・下人の描写「猫のように身を縮めて」の意図(8)

・なぜ「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない」のか(9)

・下人の描写「やもりのように足音を盗んで」の意図(10)

・楼の様子「裸の死骸と、着物を着た死骸とがある」のはなぜか(11)

・下人の「ある強い感情」とは何か(12)

・老婆の描写「猿のような老婆」の意図(13)

・「六分の恐怖と四分の好奇心」とはどういうことか(14)

・「猿の親が猿の子のしらみを取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた」の描写意図(15)

・なぜ「この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木切れのように、勢いよく燃え上がりだし」たのか(16)

・なぜ「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すベからざる悪であ」るのか(17)

・「安らかな得意と満足とがあるばかりである」とはどういうことか(18)

・なぜ下人は「少し声を和らげてこう言った」のか(19)

・なぜ老婆は「下人の顔を見守った」のか。また、老婆の目が「まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い目」であるとはどういうことか。(20)

・なぜ「下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」のか(21)

・なぜ下人は老婆の言葉を「もちろん、右手では、赤く頬にうみを持った大きなにきびを気にしながら、聞いている」のか(22)

・なぜ「下人の心には、ある勇気が生まれてきた」のか。(23)

・「さっき問の下で、この男には欠けていた勇気」とはどのような勇気か(24)

・「この老婆を捕らえた時の勇気」とはどのような勇気か(25)

・下人の台詞「きっと、そうか。」とはどういうことか(26)

・なぜ下人は「右の手をにきびから離し」たのか(27)

・なぜ「はしごの口までは、わずかに五歩を数えるばかり」なのか(28)

・なぜ老婆は「門の下をのぞきこんだ」のか(29)

・なぜ「黒洞々たる夜」だったのか(30)

・なぜ「下人の行方は、誰も知らない」のか(31)




3. 疑問点に対する解釈


 上項に挙げた事柄は、初読時に感ずる疑問点として、ごく一般的なものばかりであろうと推察される。学習者に「読後の感想」を書かせた時、概ねこのような部分に関する抜き出しが多いし、授業に関してもこれらの箇所を中心発問に据えた展開を行うことが多い。ここに挙げただけでも三十一個あるので、できるだけ簡潔に、最も適当かつ妥当と考えられる解釈を示す(3)。なお、便宜上、本文全体を28個の形式段落に分割したい。分割に際しては、三省堂『精選 国語総合』(2017)に依った。



(1)なぜ「この男の他には誰もいない」のか


 読者に自然と疑問を抱かせる。「この男の外にも、(中略)もう二、三人はありそうである。」という文との繋がりから、そこが朱雀大路の大門であるのに誰もいないという状況が自然と読み手の意識下に入り込んでくる。次の形式段落二個部分に、洛中の衰微した様子や、そこに住む人々の不道徳な行いの状況などが記述され、寂れた羅生門に狐狸や盗人が棲みつき、ついには死人を捨てていくという習慣さえ生まれたことが示されるが、読者にとっては驚愕の時代背景とは裏腹に、この上なく淡々と、実に淡泊な文調で書かれている。それがかえって、読み手の恐怖や不気味さを誘うのである。何かを表現するのに、たくさんの言葉で述べ並べ立てる必要のないことを表すよい例ではなかろうか。



(2)なぜ「右の頬にできた、大きなにきびを気にしながら」いるのか


 下人が雨やみを待って、石段に座りながらぼんやりと雨を眺めている時の様子である。この部分から正体不明のこの下人が、おそらく青年なのだろうことが微かに推測される。洗顔化粧品の技術革新が進んだ今なお「にきび」は、いわゆる青春・若者の象徴であろう。「にきび」という言葉は物語終盤でも登場するので、ここでさりげなく注目させておくと、最終時の授業展開がスムーズに行く(ことが多い)。



(3)「どうにもならないことを、どうにかしようとして」とはどういうことか

(4)「手段を選んでいるいとまはない」とはどういうことか

(5)下人が手段を「選ばないとすれば」どうなってしまうか


 下人は「永年、使われていた主人から、暇を出された(4)」のであり、すなわちそれは生きる道を断たれたことを意味する。これは過言でも何でもなく、平安という世の時代性を鑑みれば当然の予想である。事実、下人は〈盗人になるか〉・〈飢え死にするか〉に悩んでいた。従ってここでの「どうにもならないこと」とは生きていくということであり、「手段を選んでいるいとまはない」のは、すでに主人のところを追い出されたのは四、五日前のことだからである。下人が手段を「選ばないとすれば」、「盗人になるより外にしかたがない」ということになるのである。



(6)なぜ「積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」のか


 一般的、常識的に考えて、「盗人になる」のは倫理や道徳に反する選択である。それは平安時代であろうと現代日本であろうと、疑問を抱く余地はない。にもかかわらず下人が悩むのは、死にたくないという至極当たり前な欲求を満たすためには「盗人になる」ほかないという、究極の二者択一を迫られているためである。さんざん悩んだ挙げ句、結局決断する「勇気が出ず」、延々、羅生門の下で雨やみをし続けているのである。



(7)「どうせ死人ばかりである」とはどういう意味か


 ごく当然であるかのごとく記述されているが、よくよく考えなくともこの一文はおかしい。この部分から、下人も洛中の人々と同様、価値観や物の見方が非常識的になっていることが示唆される。死人を生者よりも甘く見ているという下人の考えを良く表した表現であろう。この流れで、下人は今晩の寝床を羅生門の楼に決める。



(8)下人の描写「猫のように身を縮めて」の意図


 指導書には次のようにある。どうせ楼内にいるのは死人などの、たいしたことないものばかりだろうと「安易に構えていた下人は、〈猫のように身を縮めて〉、すなわち臨機応変に対処するために警戒しながら、上の様子をうかがっているのである――。(精選国語総合編集委員会, 2017)」学習者への発問例としては、口頭で「猫という動物のイメージは?」・「猫の習性としてどんなことを思いつく?」・「狩りをする時の猫の様子を見たことがあるか?」などと問うに止める程度で良いだろうが、本作品にはこのように動物を用いた表現が散見されるので、なるだけ拾いつつ読解させてやりたい。明瞭な情景描写というだけでなく、ここから読み取れるのは、そのように形容された人物の「動物的」・「野性的」な生々しさである――というのが、定説である。



(9)なぜ「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない」のか


 これは非常に不可思議な発想である。楼へと続くはしごを上がる途中、ふと見上げると楼内を微かに明かりが灯っている。生者がいるのであろうが、その人物は「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない」と決めつけるのである。もし仮にあなたが、雨の降る夜、傘も差さずに電信柱のそばで、赤いトレンチコートを着てたたずんでいる長髪の女がいたとして、その人を見た途端、「あの女はきっと、ただ者ではない。」と決めつけたりするだろうか。そんなことはまずしまい。もちろん、確かに今「羅生門」という場所は荒れ果てた状態で、死体が捨てられているという風聞のために人の寄りつかぬところと化してしまっている。いわゆる「普通の人」なら決して近づかないような場所であり、その意味で下人が楼内の何者かをこのように判断したのも一定、納得できうる。しかし、もう一つ付け加えると、下人もまた「この雨の夜に、この羅生門の上」へと上がろうとしているのであるが、そのことを下人は度外視している。この点も、下人が精神的に幼いと批評されることの所以であろう。



(10)下人の描写「やもりのように足音を盗んで」の意図


 上項(8)を参照のこと。指導書(精選国語総合編集委員会, 2017)には次のようにある。「下人が相手に察知されぬように、身を低めて時間をかけて慎重に、はしごを上る際の形状をたとえたもの――。」具体的な生き物の名を挙げることで、その人物の情景を生々しく表象させる効果を帯びる。定期考査などではこのような箇所をあらかじめ抜いておき、語群式で空所補充させてみると、予想外の生き物を当てはめる学習者もいて大変面白い。



(11)楼の様子「裸の死骸と、着物を着た死骸とがある」のはなぜか


 今後の授業展開上、注目させたい箇所である。すなわちこれは、老婆という人物の生計の立て方にも関わってくる。裸の死骸すべてが老婆の手によるものとは考えにくい。老婆の外にも同様な人物がいて、そのような類いの人々も死後この場所に捨て去られているのだとすれば、不気味かつ嫌悪の感を催すことこの上ない。「土をこねて造った人形のよう」とか「口を開いたり手を伸ばしたりして、ごろごろ床の上に転がって」とかいった描写も、どこかさらりとしすぎていて、かえって気味の悪さを助長する。



(12)下人の「ある強い感情」とは何か


 二つ後ろの形式段落にある「六分の恐怖と四部の好奇心」と換言する関係にある。死骸だらけの楼内で老婆の存在をはっきりと視認し、辺りを漂う腐乱臭さえ気にならないほどの関心を持ったということ。詳しくは、次々項の(14)を参照されよ。



(13)老婆の描写「猿のような老婆」の意図(13)


 上項(8)・(10)を参照のこと。老婆の不気味さを表現する。(15)の部分へと繋がる。その様子は「檜皮色の着物を着た、背の低い、白髪頭の、猿のような老婆」であったとある。



(14)「六分の恐怖と四分の好奇心」とはどういうことか


 いわゆる定番の発問であろう。下人は楼内を今晩安心して過ごせる場所として考えていたが、今、この正体不明の老婆のためにそれが脅かされている。それはまさしく恐怖以外の何ものでもない。人間がある対象に対して「恐怖」を覚えるとき、その背後には対象を十分理解できない・理解できていないという状況がある。人間を含めすべて動物は、ある状況下において、生存の上で最も安全の行動を選択するようプログラムされているが、そのように判断するためには、その状況を正しく分析・把握することが不可欠であり、そのためには如何に適切に「情報」を収集せしめるかが肝心になってくる。今、下人は老婆についてその外見の様子以外、全く何も理解できていない。理解するだけの「情報」を欠いている状態であって、そのために下人は次にどのような行動を採るべきか判断保留の状況下にある。どうして良いか分からないとき、人は不安になり、その不安は恐怖へと繋がるのである。そこから導き出される当然の流れとして、「好奇心」という名の観察意欲がわき上がったのである。従って「六分の恐怖と四分の好奇心」とは、下人の心理状況の結果を言い表すものなのであって、中間途中の状況を指し示す心理描写ではないということに留意すべきである。「六分」とは六割の、「四分」とは四割のという意味である。恐怖と好奇心が五分五分ではなく、少しだけ恐怖の方が勝っているというところがまた、何とも人間らしくて面白い。



(15)「猿の親が猿の子のしらみを取るように、その長い髪の毛を一本ずつ抜き始めた」の描写意図


 芥川の表現を鑑賞させたい。横たわったその女の死骸をおそらくは抱き起こし、髪を抜くのに具合の良い体勢を取ってから、あたかも「猿の親が猿の子のしらみを取るように、」慎重に、そして丁寧にその死骸の髪を抜いていったのであろう。なお、「しらみ」とは、シラミ目の昆虫の総称で、体長は2ミリ程度、長楕円形、扁平で羽を欠く。哺乳類に外部寄生する吸血昆虫である。



(16)なぜ「この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木切れのように、勢いよく燃え上がりだし」たのか

(17)なぜ「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけですでに許すベからざる悪であ」るのか


 下人の「悪を憎む心」を燃える松の木切れにたとえた比喩表現である。老婆が死人の髪の毛を抜く行為を繰り返す度、下人の心には「この老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた。」老婆の行動の意図も分からず、真意も解せないまま、その死人の亡骸が損なわれていく様を見た下人は、ただ純粋にこの老婆を憎んだのである。それは合理不合理とか言う価値基準とは全然別の、これは下人の直感による判断なのであって、こんな雨の夜に、こんな場所で、死人の亡骸を損壊させているという事実それだけを以てしても、十分この老婆は「許すベからざる悪」を行う悪人である――、というのである。定説ではこの描写は、下人のいかに移ろいやすい心であるか、未熟な精神であるかを描いた部分であるとされるが、それだけに止まらず、人間とはかくも感情的な生き物であるということの面白さも描かれてあるように思われる。



(18)「安らかな得意と満足とがあるばかりである」とはどういうことか


 卒然、老婆の眼前に躍り出た下人は即座に太刀を抜き払うと、それを見せつけながら老婆に問うた。下人の所持する太刀が「白い鋼の色」をしているというのは、悪を憎む下人の心の穢れなき純粋さを表しているのか、あるいは身なりはいかにも「下人」であるのに、その下人が持つ太刀だけは白く輝くほどに美しいという不釣り合いさを表した滑稽な表現であるのか、いずれにしても面白い。「おのれ、どこへ行く。」そう言って老婆に迫った下人だったが、老婆があまりにか弱く、悪の象徴であった彼女を力で屈服できてしまっているという状況に、「今まで険しく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。」のである。悪の化身ともいえる老婆を暴力によって支配できている現状に、下人は「得意」になり、「満足」する。ところで、下人が太刀を所持している点から鑑みて、おそらくは身分の低い武人であるのだと推察される(勿論、下人はすでに仕える主人を失っているが)。



(19)なぜ下人は「少し声を和らげてこう言った」のか


 上項(18)に絡む。武力によって老婆を制圧できてしまっている状況において、殊更に威圧的に振る舞う必要はなく、老婆の行動の真相を探りたい下人としてはむしろその目的の妨げとなりうる。老婆をいったん安心させるためには、声を和らげて振る舞ったのである。



(20)なぜ老婆は「下人の顔を見守った」のか。また、老婆の目が「まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い目」であるとはどういうことか。


 老婆にとっては、下人もまた何を考えているのか理解不能な存在である。予想外に突然の襲撃を受けた老婆にとって、この状況を如何にやり過ごせるか死活問題である。従って、下人の真意を探ろうと注視したのであろう。老婆は「まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い目」で下人を見つめた。肉食鳥は小動物などを補食する鳥を意味し、鷹・鷲などの猛禽類を指すことが多いが、指導書(2017)には死人の肉をついばむ「からす」のイメージを帯びる、とある。確かに直後に、「その喉から、からすの鳴くような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へと伝わってきた。」とあるので、「からす」のイメージを遡及的に持っても問題はないか。



(21)なぜ「下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」のか


 老婆が「髪を抜いてな、かつらにしようと思」ったと答えたので、下人は失望したのである。下人としてはもう少し意外性のある、驚きの返答を期待していたのであろう。期待が外れた時、人は他者に対して「失望」する。絶望とは普通、自分自身に対してするものである。下人の失望の感が老婆にも伝わったのだろう。老婆が重ねて回答した内容を要約すると、次の通りである。〈過去に悪事を働いたことのある人間には、どんなことをしても許される。生きるためにする悪事は、どんなことでも許される――。〉老婆の必死な言い分は、しかしこの後、老婆自身を追い詰める結果となった。



(22)なぜ下人は老婆の言葉を「もちろん、右手では、赤く頬にうみを持った大きなにきびを気にしながら、聞いている」のか


 これ以降の疑問点は、本作品を読解する上で、中心となるものであろう。ここではより妥当かつ最適な解釈を挙げたい。常識的に考えたとき、人の話を聞くに際して、何か別の作業をしたり、何かを触ったり弄ったりしながらいるというのは失礼であろう。雑談ならともかくとして、老婆から事の次第を聞いている今の状況においては、あまりふさわしくない。にもかかわらず下人がこのような動作をしながら老婆の話を聞いているのは、そこに何の期待もしていないとからであろうことは明白である。その様子を見た老婆がおそらく焦り、長々と弁明の言を述べれば述べるほど、下人の老婆への興味は薄れていく。直前の一文にある「冷然として、」・この部分の出だし「もちろん~」という表現から、やはり必ずしも真剣には耳を傾けていない感じを読み手に与える。「にきび」を右手でいじり、左手は「太刀の柄」を押さえているこの場面は、今後の授業展開上、学習者には特に印象づけたい。



(23)なぜ「下人の心には、ある勇気が生まれてきた」のか。

(24)「さっき問の下で、この男には欠けていた勇気」とはどのような勇気か

(25)「この老婆を捕らえた時の勇気」とはどのような勇気か


 この「ある勇気」に関しても、いわゆる定番発問である。この「ある勇気」は、図らずも老婆の釈明内容を受けて、下人が得た勇気である。老婆の主張〈過去に悪事を働いたことのある人間には、どんなことをしても許される。生きるためにする悪事は、どんなことでも許される――。〉を聞いた下人は、自分自身に何ができるか・何をするべきなのかを認識した。それは、「さっき問の下で、この男には欠けていた勇気」であり、さきほど「この老婆を捕らえた時の勇気」とは違う、「全然、反対の方向に動こうとする勇気であ」った。すなわち、今を生き抜くために「盗人になる」ことを選択する勇気だったのである。



・下人の台詞「きっと、そうか。」とはどういうことか(26)


 この言葉は、老婆にたいして向けられたものなのか、あるいは下人自身に対してなのか。おそらくは後者であろうと推察される。つまりこの言葉は下人が、老婆の主張を受けて、それを自分のものとして吟味・咀嚼し、その最終過程として心の内からこぼれた独り言に近いものなのだろう。



(27)なぜ下人は「右の手をにきびから離し」たのか


 上項(2)において、「にきび」のここでの役割とは若さの象徴であると述べた。すなわちそれは精神的な幼さ/未熟さをも表現したものであると思われる。従ってここで、下人がこの「にきび」から手を離したことは非常に重大な意味を持つはずで、自らの今後について下人なりの決断を下せたこと、つまりはこの「下人」という人物の成長を表現するのである。物語の登場人物が必ずしも倫理的・道徳的に善なる成長を遂げるとは限らないし、またそのような約束を守らねばならないという法もないはずである。もう少し消極的に述べれば、「下人は〈にきび〉というものを気にすることをやめた。」と言っても良い。いずれにせよ、下人は自らの今後の生き方について少なくともこの時は、何らかの決断を下したのである。



(28)なぜ「はしごの口までは、わずかに五歩を数えるばかり」なのか


 仮に下人が現代の20代男子くらいの年齢・背格好であったと想定しても、一歩のその歩幅とはせいぜい50~70㎝くらい。大股歩きであっても80~100㎝程度が限度であろう。仮に下人の歩幅が80㎝であると仮定して、五歩分とはせいぜい4mくらいのものである。あまりにもはしごの口から近すぎやしないだろうか、といった疑問は至極当然に湧いてくる。はじめ下人ははしごの口から顔だけ覗かせて、老婆の様子を窺っていたのだから、それほど近距離であればさすがの老婆であっても気配に気づきそうなものである。死骸探しに集中していたにしても、少し無理がありそうな距離であるのだが、ではなぜ作者はあえてこのような具体的な数字を挙げたのであろうか。注目すべきは「わずかに~」という表現である。すなわちここには、「たったの五歩」・「本当にすぐそこの」といったようなニュアンスが込められており、「5」という数字には特にこだわりはなかったのではなかろうか。肝心なことは、下人が楼の外へと出て行くまでの距離が「わずかに五歩」であるということで、楼に入る前の外の世界と、老婆の主張を受けてからの外の世界とでは、まるで意味合いが違ってくる。というよりは、これまで下人が見てきた「外の世界」と、これから生きていく「外の世界」とでは、下人を取り巻く世界の見え方が違ってくるということなのである。これから「悪の世界」と生きていく下人にとって、その世界までの距離が「わずかに五歩」であったというのである。この描写については何らかの形で学習者に考えさせたい。



(29)なぜ老婆は「門の下をのぞきこんだ」のか

(30)なぜ「黒洞々たる夜」だったのか


 下人が老婆の着物を剥ぎ取り、はしごから飛び降りて行った後、残されたのは押し倒された老婆と死骸だけである。「しばらく~」から始まる第28形式段落は、すべて老婆の行動のみを描いた段落で、火の光を頼りにはしごの口まではっていき、見下ろすと、そこは「黒洞々たる夜」の世界が広がっていたというのである。留意しておくべきは、あくまでこれは老婆が見た、老婆の目に映った世界の姿であるということである。夜である以上、門の下に広がるのは勿論、夜の闇の世界であるのだが、老婆の目にはそれが暗い底知れぬ洞窟のような世界に思えたのである。指導書(2017)の言を借りればこれは、「盗人と化した下人が溶解してしまった世界」であり、老婆が確認したかったのは下人の行方を捜したかったというより、これから下人が生きていく世界の姿を確認したかったと述べた方がより適切かもしれない。あるいは、作者が老婆の行動を通して、読み手にこれから下人の生きる世界を示したかったと言っても良い。学習者には、この部分の解釈を考えるにあたり、ここまでの授業展開で繰り返し作者の描写・表現に関心を向けさせた状態で臨ませたい。「その描写にはどんな意図があるのか」・「なぜ作中人物にこのような行動を取らせるのか」など、繰り返し思考を促した上で最終時に向かうとより良い読解に繋がるであろう。



(31)なぜ「下人の行方は、誰も知らない」のか


 本作品の末尾一文については、これまで二度の改定が認められる。指導書(2017)に依れば、初出の形は、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつヽあつた。」とあり、第一創作集『羅生門』所収形では、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」とあったようだ。それが、『新興文藝叢書第八編 鼻』では、「下人の行方は、誰も知らない。」という現行の形に改変されたのである(精選国語総合編集委員会, 2017)。なぜこのように改変したかという問いついては、何か一つの明確な解を提示することが難しい。しかし、書き改めた以上そこには作者の何らかの意図が介在していることは明白である。私見を述べれば、下人の行方をあえて曖昧なものとしてぼやかすことで、「下人は完全な盗人と化した」とも、「盗人となって捕まった」とも、「最後には老婆のように誰かに身ぐるみを剥がされた」とも、「また誰かの考えに触発されて改心した(ここでいう改心は文字通りの意味ではない)」とも考えられる。このような解釈の余地を広く取ることで、読み手の自由な解釈を促すというよりはむしろ、読み手の解釈作業をより困難なものにせしめる作用を狙ったのではないだろうか。すなわち、そうすることによって、この「下人」という人物の掴み所のなさ、流されやすさ、漠然とした頼りなさげな感じを読み手に与えている。もし仮に有名な盗賊にでもなっていれば名が残ったであろうし、それ以外の道で著名になってもまた然り。しかし、あくまで「下人の行方は、誰も知らない。」とあるということは所詮、下人という人物はその程度の人間であったということなのだろう。




4. 純粋な人か、安直な人か


 「下人」の性格と結末の行動について考えさせたとき、想定されうる解は次の二つであろう。①「下人は悪を憎む純粋な心の持ち主で、方便を垂れる老婆を懲らしめるために、老婆の着物を盗んで逃げた。」あるいは、②「下人は悪の象徴である老婆の主張を聞き、納得し、盗人になることを素直に受け入れて、老婆の着物を盗み逃げた。」

 下人の心情が変化したという点にのみ固執すれば、本作品は下人という登場人物の成長物語として見ることもできる。主人公かどうかは明確には分からない。一定、下人を軸に描かれた作品ではあるものの、最後まで名前は明らかでないし、「羅生門」での出来事ということ以外、ほとんど何も確からしい情報がない。後半以降を鑑みれば、老婆が主人公であったとも考えられる。つまり、本作品については明確な、主軸となる作中人物が分からない物語なのである。あえて曖昧にすることで、この「下人」や「老婆」という記号には誰でも、どんな人でもあてはまりうるという恐ろしさが生まれる。

 このように考えたとき、際立ってくるのは、「下人」という人物の自己選択力・自己決定力の乏しさである。確かに老婆の主張を聞き、盗人になることを選びはしたが、それも老婆という人物に出会い、彼女の主張を聞いたからこそ成りえた結果であって、いわば他人の意見を安易に、鵜呑みにしているともいえる。仮に②の解釈を取れば、下人という人間の安易さ、考えのなさ、思考の幼稚さのために、下人は羅生門から立ち去った後もふらふらと、どこに行っても誰かの意見に左右され、何をするにも中途半端な人生を送った、というような読みが可能となる。他方、①の解釈を取れば、それこそ下人という人間の精神的な幼さが全面に浮かび上がってくる。まるで癇癪を起こした幼子のように、老婆の論理の揚げ足取りをして逃げ去るというのはあまりにも子どもじみている。

 下人の行方が誰にも分からない以上、たいした成功もせず、生きているか死んでいるかさえ一切不明という意味では、結局①も②も同様だが、下人の心情を考えたとき、一つの行動からいろいろな読みができるというのは面白い。どんな読みをしても良いという訳では決してないが、文学の読解とはこのように、場面一つからより妥当かつ最適な解釈を、書かれた文字の中から探っていく探究の作業なのである。



5. 小説を読んだことのない人へ(結びにかえて)


 近年、いわゆる「定番教材」・「国民教材」の再評価や再検討が進められている。「羅生門」を学習させない学校も増えてきていると聞く。当たり前を見直し、当然とされてきたことを思い切って止める。それも確かに大切なことではあるのだろう。

 新学習指導要領で再編される高校国語科の科目は、大きく「論理国語」と「文学国語」という二つに分別されるそうだが、期待される科目は無論、実社会に繋がる資質・能力を育成することを目的とした「論理国語」の方であろう。「~であろう。」というよりは、そうなのである。学校教育は、実社会・実生活に即し、いつでも即戦力として使用可能な、一定の諸能力を有した国民を育成することが(これまでも)求められてきたが、今後は益々強力に要求されるものと思われる。確かに欧米の歴史を鑑みれば、そもそもの学校教育とは、優秀な労働者となるよう、良質な国民をできるだけたくさん育成することを期待して誕生したという経緯があり、勿論その重要性も十二分に理解しているつもりではある。

 しかし、では学校は、特に高等学校は、「職業訓練」の場となれと言うことなのだろうか。実社会といえば聞こえは良いが、要は企業の労働者となった時に、いかに少ないコストで多くの利益を上げることができるかを期待されているということなのである。すなわち、学習指導要領の総則等に記載されている内容を求めているのは確かに文部科学省や政府であっても、その背後にあるのは経済界からの要請なのである。

 ところで、「小説なんか、詩なんか勉強して何になるの?」、「そんなこと学んでどうなるの?」。こういった問いはいつの時代、どんな場所であっても、誰しもが抱く内容なのではないだろうか。この問いに対して、発問者は一体何を期待しているのだろうか。あるいは、訊かれた人の困り顔を見てにこにこしたいだけなのだろうか。ここでいう「何になるの?」・「どうなるの?」で想定されているのが仮に、「将来の自分の利益に関与するか」・「自身の金儲けに繋がるか」といったものなのだとしたら、誠に遺憾ながら発問者は未来永劫、決して納得のいく解を得ることはできないだろう。

 何も筆者はここで、「学校は学問の楽しさを味わう場所だ!」とか、「勉強と学問は違う! 人々は利益中心主義に囚われている!」だとか言って、別に綺麗事や御託を並べ立てたいわけではない。利益や利潤を追い求めることは、経済活動の根幹に関わることだし、それこそは資本主義の第一信条でもある。この世の森羅万象を損か得かの価値基準で分別し、万物を合理的か云々で語ることは明瞭かつ明快であって、複数人がこのような考え方を同じ「物差し」として利用したときに、ぶれにくいということは確かにいえるだろう。それこそ合理的だ。より効率的に、より無駄なく、より最適な状態に近づけつつ――。人間社会は、このような思想・価値観を日々加速させているように感ぜられるが、それを否定しているわけでは決してない。筆者にはそこまで言い切ってしまう、その度胸がない。

 けれど、無駄なものは本当に「むだ」なのだろうか。無駄なものは「無駄なもの」として本当に、排除されるべきものなのだろうか。このことはよくよく考えなくてはならない。ここでいう「無駄なもの」とは無論、経済活動の観点から見るそれではない。もっと人間生活の根幹に関わる話がしたいのだ。すなわち、「豊かな人間性」に関わる話題である。

今、少なくない数の読者諸氏が失笑したこととご推察する。勿論、筆者とて小っ恥ずかしい。だが、それでもなお、この話題を避けて通るわけにはいくまいよ、と思う。

 大層に言えば、人間に与えられた余生というものの中で、その大部分は何ら脈絡のない、無価値かつ無意義な、ほとんど無駄なことの連続ではないだろうか。ほとんど多くのことはとり取り越し苦労で、無駄骨で、徒労に終わり、理不尽で不条理で意味不明なことの積み重なりが、その人を一個の自立した人格へと成長せしめる。「豊かな人間性」とは、このように如何にして「無駄なもの(こと)」を経験して来たかによってのみ育まれるものなのではないか、と筆者は思うのである。

 先述したように、いずれ「文学国語」で扱われるような作品は虐げられ、いつかその権威の失墜する時が来るであろう。「羅生門」も「山月記」も、「こころ」も「舞姫」も、やがては教科書にすら掲載させてもらえぬ日が必ずやって来る。それが時の流れであり、人々が望む世の流れであるのなら、もはや一個人には抗いようもないことである。文学の読解が持つ意義や価値をどんなに述べ立てたところで所詮、世の人々がそれを認識し、理解し、認めてくれなければ同じことである。むしろ「理解者」を育て上げられなかった高校国語科にこそ非があるのだとすれば、それが国語教育の限界であり、力不足であり、当然の報いとして甘んじて受け入れよう。

 しかし、それでも諦めきれぬと涙する私が今、ここにいる。

 全体主義と批判されても良い。たとえ学校も、出身地も、年代とて異なっていたとしても、共通の教材を学んだことで得られる連帯感・安心感。今や心の繋がりは不要の時代と言うことなのだろうか。個性や特性などというものはもはや必要なく、それぞれが分離・独立し、あらゆる関係性から切り離された人間でありさえすればそれで良いのだろうか。個別の人間はもう、個々に交換可能な単なる「部品」の一部として、並列化された方が都合が良いということなのだろうか。人工知能研究の実社会への応用が進む今、大部分の人々はAIに操作される「歯車」である方が合理的であると言うのなら、もはや文学読解の意義はないにも等しい。人間理解も一切不要だろう。今後あらゆる対人関係の問題はすべてAIが計算処理し、最も合理的な解決策を導き出させ、人はそれに沿った行動をしさえすればそれで良いのだから。




6. 注釈


(1) 本評論における「教育」とは、「教育基本法第1条に定める目的を達するために設置された各種教育機関において、学習者に向けて取り組まれる一切の行為のこと」をいう。

(2) 本文の当該箇所において筆者は、「我々人間は現状、言葉に依らない意思疎通の手段を持ち合わせていない」と指摘した。これに対しては次のような反論が十分想定される。「なるほど、確かに〈言葉〉などというものは我々がこの世界を認識し、表現するための主たる手段ではあるだろう。しかし、我々が世界を表現する手段は他にもたくさんあるのではないか。たとえば芸術と称される美術作品や音楽作品などは、我々人間が世界をありのままに感じ取り、ありのままの直感や感性に基づいて具現化(音声化)したこれも一種の世界についての〈記号〉ではないのか――」と。この言説について、誤解を恐れずに述べれば、「言葉」も「芸術」も、すべて主体たる人間が都合良く生み出した「記号」の総体であるということなのである。従って、ここで言う「言葉」と、「芸術」との間に差異はない。「言葉」も「芸術」も、その実体は人間の脳内にしかない。「言葉」とは、外的世界を認識し、知覚する主体が生み出した、世界について(表現するため)の「記号」である。「記号」とは、主体の脳内にのみある「それ」を表現し、具現した「もの」のことを指し、従ってこの意味で、脳内にある「それ」と「記号」として表現された「もの」との間には明確な違いがある。すなわち「言葉(言語)」と「言語表現」・「芸術」と「芸術表現」・「音楽」と「音楽表現」・「愛情」と「愛情表現」といった具合に、それぞれ対となる両者は似て非なるものなのである。そうして個々の主体が外的世界に向けて表現した「もの」は、当然のことながら第三者(無論、これも主体である)によって認識され、知覚され、解釈されるが、その作業はその主体の都合の良いように取り組まれる(「都合の良いように」とは勿論、主体の無意識が吟味・検閲し、許諾された内容だけが意識化されるという意味でのことである)。もっと簡潔に申し上げれば、「我々は心に思い描いた事柄を、常に完璧に言葉にできるだろうか――」という一文に集約される。答えは否である。

(3) なお、あえて疑問点という形でここでは指摘していないが、冒頭部分「ある日の暮れ方のことである。」~「それが、この男の外にはだれもいない。」までの箇所についても、導入の発問として良く用いることがある。というのは、この箇所だけで「誰が」・「いつ」・「どこで」・「何を」という場面設定が把握できるためである。「なぜ」に関しては三つ後の形式段落から分かる。この辺りも、本作品が定番教材として親しまれることの所以であるように感じられる。

(4) 「いとまを出す」とは勿論、奉公人を解雇するという意味である。




7. 参考文献




・中渕正尭, 岩崎昇一 ほか (2017). 精選 国語総合 改訂版 三省堂

・精選国語総合編集委員会 (2017). 精選 国語総合 改訂版 指導資料① 三省堂(本評論中の指導書に同じ)

・ちくま書房 (2019/11/16現在). ちくまの教科書 定番教材の誕生 第2回 生き残りの罪障感

http://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/teiban-kyouzai/002-02.html

・高等学校学習指導要領

https://www.mext.go.jp/content/1384661_6_1_3.pdf




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