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第七論:戦前陸軍の独立性に関する研究


2019/11/13

No.07

「戦前陸軍の独立性に関する研究」

―統帥権の独立と軍部大臣現役武官制の意義―




(1)要旨


 本稿では、戦前陸軍(1)の政治的側面を考察し、統帥権の独立という軍部の特異的地位とその経緯を概説し、この複雑な仕組みに対する釈明及び若干の擁護を行ったものである。西洋各国が東アジアに進出して植民地獲得競争を激化させる中、日本にとって近代的常備軍の建設は急務であった。このような急ごしらえで創られた日本陸軍は、非常に脆弱でか弱く、様々な特権を与えられてようやく文官・政治家と互角に渡り合っていける状態であった。本評論は、常備軍たる陸軍建軍の経緯を述べ、政治上の特異的な地位の概説とその釈明を行うものである。




(2)国軍建軍と不平士族


 近代国家たるために国家が所持するべきものは何か――。と問われれば、たいていの者が「憲法だ。」と答えるだろう。しかし、軍史をかじったことのある捻くれた人間ならば「常備軍だ。」と返答するはずだ。

 列強各国が植民地獲得に躍起になっていた19世紀、日本もうかうかしていられない状況下にあった。明治維新以降、日本は貪欲で極端なまでの欧化政策・西洋文化の受容に奔走したのはこのためである。

 ところで、日本陸軍の礎を築いたのは誰かと問われればそれは、当時、兵部大輔の役職に就いていた大村益次郎(2)のことであろう。このポストは簡単にいえば国防次官に相当する役職で、大村は兵部省(3)の設置や国軍の仕組みをフランス式に統一することに心血を注いだが、大阪を視察中の1869年に、欧化政策に反対する攘夷派の士族に斬りつけられ、その傷が原因で同年にこの世を去った。その後を引き継いだのが、欧州視察から帰国した山県有朋と西郷従道であった。大村の徴兵制による強力な国民軍の建設の意志を受け継いで、政府直轄の国軍の創設を目指した二人であったが、唯一大村と異にしたのは、彼らがフランス軍制よりもプロイセン軍制――つまりドイツ軍制の優秀さを認めたことである。

 ちょうど普仏戦争(1870~1871)を戦っていた両国を視察した視察団は、ドイツ皇帝に日本の天皇を重ねて見たのだろう。伊藤博文もこの国を非常に気に入り、後に彼は、自分は日本のビスマルクだとさえ語ったと伝えられている。後に発布される大日本帝国憲法もドイツ流の欽定憲法(4)であるし、教育面でもドイツの流儀を取り入れていることからも分かる通り、明治政府がいかにこの国を尊敬していたかが容易くうかがえる。

 ドイツ式軍制の導入を決意し、しかしすでにフランス式軍制に慣れた者が多かったため転換の頃合いを見計らっている間に、二人は大納言・岩倉具視、参議・西郷隆盛や木戸孝允を動かして歩兵部隊の建設を進めた。

 政府は1871年には御親兵と呼ばれる、薩摩・長州・土佐三藩から献兵させた6300名を基幹とする歩兵9個大隊を編制し、この兵力を背景にして廃藩置県を断行した。同時に各藩の常備兵を廃止して兵器類の一切を納めさせたが、このことは士族層の不安を煽ることに繋がったと考えられる。御親兵は翌年、近衛というものに改称された。

 一方で、政府は旧諸藩の廃止した常備兵を全国4ケ所の鎮台に召集し、1873年には徴兵令発布に並行して4鎮台から6鎮台に増設した。陸軍常備軍化に反対していた不平士族の反乱や武装蜂起に備える目的で鎮台が増設されていき、結果として徴兵軍が増強されていったことは皮肉なことである。

 そしてついに、最大にして最後の士族の反乱が九州は熊本で勃発したのであった。




(3)竹橋騒動と統帥権の独立


 1877年の西南戦争で、西郷隆盛というかつての同志と戦わねばならなかった明治政府に、翌年の竹橋騒動は応えたようだった。そして同時に、国軍の反乱と自由民権運動とが結びつくことを恐れた。黒野耐(2004)は当時の政府・軍首脳部の反応について次のように論じている。

 天皇の衛兵による反乱に大きな衝撃を受けた政府と軍首脳部に、西南戦争を起こした西郷が下野直前には筆頭参議と陸軍大将を兼ね、実質的に政治・軍事の両権を掌握していた記憶が重なった。竹橋事件は、政治と軍事を切り離すために統帥権を独立させることが支持される伏線となったのである――。

 帝国議会の開設で、自由民権運動に代表される反政府的な主張を掲げる勢力がただちに躍進してくることは目に見えていた。それら政府に否定的な勢力によって国軍の行動に制約がかけられるようなことは何としても避けたかったのである。ゆえに統帥権は独立したのだ。政治による不当な干渉から軍を防護するために。

 しかし、一般に統帥権の独立は、政府が西郷や江藤新平などの古くからの政治的指導者が起こした政治闘争から軍を隔離して非政治化し、天皇のための軍隊としての絶対的な地位を確立しようとしたためだと認識されていることが多い。たしかに伏線にはなったろう。だが、黒野も指摘するように、江藤も西郷も自身の私兵を動かしはしたものの、国軍を指揮して反乱を引き起こしたのではないのである。この点に注目して、政府は国会開設で自由民権派の進出を予想しており、先手を打って軍を政治から切り離したという黒野の指摘に賛同したいのである。

 これは、裏を返せば初期陸軍が、非常に脆弱かつか弱い存在で、政治が簡単に介入しうる隙があったことの証明にならないだろうか。




(4)山県の思いと昭和陸軍


 軍部に与えられたもう一つの特権として挙げられるのが、1900年に第2次山県有朋内閣において成文化された「軍部大臣現役武官制」の規定である。軍部大臣の就任資格を現役の大将・中将に限るとするこの規定は、本来、軍政を司る陸・海軍省を政治から守るために設けられたものであったと考えられる。

山県はまた、文官官僚も政治から防護している。そのことは、山形が改正した「文官任用令」(5)の改正規定を見れば明らかであろう。

 国会の開設に伴い進出するであろう反政府勢力から、官僚の牙城を守るため――などと理解されることも多いが、これはいささか大げさな極論なのではないだろうか。最初の規定では、奏任官と呼ばれる官僚は原則として高等文官試験を及第した者とされたが、勅任官については自由任用制を採っていた。議会政党がこの仕組みを逆手に取って、勅任官に自身らの息のかかった官僚を送り込んでくる危険性は十二分に考えられた。第2次山県内閣ではこの規定に制限をかけて、官僚人事に対する政党からの干渉を防ぎたいという思惑があったのである。

 軍部大臣現役武官制も、このような流れの中で施行されたと考えて良い。つまり、政党が軍政を介して軍部に過度な干渉を行わないようにという山県なりの配慮であり、陸軍閥の巨頭として、自身の権力基盤を守り抜きたいという画策もあったに違いない。この意味で、軍部大臣を現役の武官に限るとしたこの規定は、陸海軍部からしてみれば非常にありがたかった。

 その大きな理由としては、第一に、軍部大臣を制限することで軍部が不必要な政治闘争に巻き込まれずにすむということ。第二に、現役武官から軍部大臣を選ぶことで、軍部の意見や言い分を直接内閣や議会に提出できるということの二点が挙げられよう。

 しかし、時代が経るに従って、軍部の性格が少しずつ変化していくことになる。明治期全体の政府(内閣)と軍部の関係は、どちらも薩長の同志であり、両者の間では常に活発な意思疎通が図られていた。だが大正、昭和と軍部の人事が若手に代替わりしていくにつれて、政府と軍部との関係は徐々に疎遠なものになっていった。




(5)結論


 不平士族の不満感情は、西南戦争での士族の大敗で行き場を失った。その感情のはけ口として盛んになったのが自由民権運動で、軍内部でも同調する者が現れはじめ、ついには竹橋騒動に発展する。危機感を募らせた政府・軍首脳部は、軍人勅諭で軍人の政治への不干渉を説き、また、統帥権の独立の伏線にもなった。議会の開設に伴い、反政府勢力の進出を予期した政府・軍首脳部は、統帥権の独立と軍部大臣現役武官制という二つの特権を定めたが、それは軍を政治の干渉から防護するための苦肉の策であったのだと結論づける。




(5)注釈


(1) 本研究における「戦前陸軍」とは、「明治政府樹立後に御親兵が創設された1871年から、第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦後の日本国憲法発布までの期間、我が国に在って、主として陸上戦闘を担任した軍隊およびその軍備の総体のこと」と定義する。


(2)幕末の洋学者で、日本における近代的軍制の父と称される。父親の村田孝益は医者で、大村もシーボルトに付いてオランダ医学を学ぶ。やがて兵学に関心を持ち、「講武所」(幕末期に江戸幕府が設けた軍事修練所)では教授の任に就き、明治維新後の明治2(1869)年には兵部大輔の職に服した。当時、諸藩から献兵させて創設した御親兵は封建的・士族中心主義的な性格を強く帯び、その払拭と脱皮は急務とされた。フランス陸軍・イギリス海軍などをモデルに近代的国民軍を目指した改革を実行したが、一方で士族層の反感は否応なく助長され、ついには京都の宿泊先で負傷、のち大阪の病院で死の床に伏した。同年9月の出来事である。


(3)明治初期の軍令・軍政機関のこと。初め明治政府は「陸海軍科」という組織を設け、次いで「軍防事務局」へと改組し、紆余曲折を経て最終的には「兵部省」に落ち着いた。初代兵部郷は小松宮彰仁親王が就き、次官として大村益次郎が兵部大輔として就任した。明治2(1869)年に六省の一つとして設置され、陸海軍及び軍備などを管掌したが、明治5(1872)年には陸軍省・海軍省がそれぞれ創設されたため、兵部省は解体された。


(4)君主主権に基づき、君主が専ら自己の意思によって制定した憲法のこと。従って、これを君定憲法などと称することもある。1814年のルイ18世紀によるフランス憲法、大日本帝国憲法(明治憲法)などが挙げられる。「欽」には、天子に関する物事に冠して敬意を示すという字義がある。


(5)明治憲法下の一般文官の任用資格を定めた法令で、明治26(1893)年に公布。最初の規定では、高等官僚たる奏任官は高等文官試験を合格して初めて任命されるが、一般文官たる勅任官には採用の制限がなく自由任用制を採っていた。従って、明治23(1890)年に初めて開設された帝国議会で、自由民権派その他の反政府的思想の政党が過半を占めつつあった当時、政党の圧力が文官全体に及び、国家行政が脅かされ、ついには政府が政党の傀儡と化すことだけは絶対に阻止しなければならなかった。第2次山県有朋内閣は明治32(1899)年、文官任用令の全文を改正し、勅任官の採用条件等を限定した。




(6)参考文献


・ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版〈2011年度版〉

・黒野耐(2004). 参謀本部と陸軍大学校 講談社現代新書.

・寺田近雄(2011). 完本 日本軍隊用語集 学研パブリッシング.

・東京書籍編集部(2010). ビジュアルワイド 図説日本史 東京書籍.

・全国歴史教育研究協議会(2009). 日本史B用語集 改訂版 山川出版社.




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