第六論:魔法魔術の認識論的考察
2019/10/17
No.06
「魔法魔術の認識論的考察」
「魔術士」と「妖術師」はともに良く似た語のように思われるが、前者は正体の知れた力を基盤として利用し、後者は得体の知れない力を良くは知らないまま利用する。前者は悪魔にその身を委ねさせるが、後者は悪魔にその身を委ねる(レヴィ, 1994)。
また、レヴィ(1994)は、魔術士は自然界に君臨する「法王」であり、真の学問を正しく操る達人であるが、他方、妖術師は単なるその濫用者にすぎず、偽りの学問を貪る山師である――、といった。
魔術の歴史は深い。原始的な呪術行為は、人類誕生とほぼ同時期に発生したものと考えられており、確認されている世界最古の「魔法使い」を描写した壁画として、フランス西部のアリエジ村の小さな洞窟に書かれた絵を上げられよう。これは今から約2、3万年前にクロマニヨン人の手によって描かれたものだと推定されている(羽仁, 2005)。魔術あるいは呪術の歴史及びその形跡は、世界のどの民族、部族にもほとんどあるし、それに付随した神話や伝承は数多言い伝えられているといっても過言ではない。
ところで、精神分析は、世界のどの民族の神話にも共有される幾つかの共通項を見つけ出し、Jungはそれらを集合的無意識の概念へと発展させたことは興味深い。だが、魔術は遠く過ぎ去った過去の遺物でしかないのだろうか。本当に、科学の台頭によってその住処を追われた、単なるまやかしのインチキでしかなかったのだろうか。
溝口(2015)は、認識空間と物理空間の連続性を認め、物理空間の構造やそのメカニズムの研究から、認識空間内における概念の統廃合の機序を究明しようとしているらしい(1)。
科学と呼ばれる一連の諸学問は、構造だとか、メカニズムだとかいう言葉が大好きだ。あらゆるものが、ある一定の物理法則に従ってこの世界を構成しているものだと篤く信じている。科学は、自身について、その究極的な元理なり原則を究明することこそが科学諸学問に課せられた究極的な目標なのであり、つまり、あらゆる現象・事象は、ただ一つの元理(真理)に基づいて生じているということを、最終的には説明できなければならない、と決心している。
では、魔術はどうだろう。何をもって魔術とするのかもいささか曖昧ではあるが、たとえば陰陽道(2)や道教(3)・密教(4)の秘術や秘儀はどうだ。
たとえば、密教などの霊符一つを作成するに際しても、まず書写道具を用意せねばならない。それらは、清浄無汚な(俗事的な事柄を書くために用いられたことがない)品であること。その他の用具もできうる限る質の良いものを選び、例えば水などは、神社仏閣の境内の神木の葉についた朝露を用いる陰陽家もいるという。作成者は最低でも三日前からは身を清める作業に入り、書写室は正しい手順で祓いの呪文を唱えたり、結界を張り、香を焚きしめ、各々の用具を各々の呪文でもって清めなければはじめてはならない。また、道教家の多くは「子の刻」の間に好んで作成をするという(大宮, 2011)。
しかし、これらの所作は、何も無意味な行動をただ繰り返しているだけなのではない。そこには一貫した宗教観があり、独自の教義があり、独特の哲学がある。陰陽道には陰陽五行説(5)が有名だし、道教は後漢末の五斗米道(6)を起源に、老荘思想と民間信仰が中心となったとされる。古神道(7)、密教、修験道(8)なども同様に、それぞれ教理とする中心概念が存在しているのだ。
これらのスタンスは、科学とどう違うのか。ただ一つの元理を追い求める科学。世界各地の魔術もまた、この世界を正しく、美しく記述し、説明することに努めた。
ウィトゲンシュタインは、「科学は必要以上に、宗教その他に介入していくべきではない――」と主張した。しかし、我々、非教養者からしてみれば、高度に発達しすぎた現代科学の研究内容は、かつて古代人が魔術導士に対して抱いていたように、最早奇妙で奇怪なものと言わざるを得まい。
何が素粒子か(9)、何が量子真空か(10)、何がシュレディンガーの猫か(11)。最早、科学は目に見えぬ。
呪力や妖力、神通力などと呼ばれる力もそうだろう。目には直接的には視認できずに、ただ現象のみが我々に姿を現す。
筆者も、多くの科学者と同様、この物理世界にはただ一つの究極的な元理があると信じている。いや、というよりはむしろ、ただ一つの元理で説明できるような原理・原則を建設することが実現できると信ずる――、といった方が適切かもしれない。かつてニーチェか云ったように、「真実などは存在せず、あるのはただ解釈だけ」なのだろう。
森羅万象に遍く精通し、およそこの世の理の一切を理解し、認識すること。そうして会得したそれらを、自然界の「法王」たるべき我々一人ひとりが真剣に検討、考察し、自分だけの論理、法則を導き出すこと。そうして形成された「真理」に、妥当性と普遍性を理論武装させてやること。
科学の名を冠するというだけで、手放しに科学諸理論を信奉してはならない。また一方で、古の人々の価値観や物の考え方を蔑ろにしてはならない。ただ甘んじて科学技術を盲信するだけでは、真の学問の王者とはなれない。
故きを温ねて新しきを知る。
近い将来、「魔術科学論」などといった新領域の誕生も、夢物語ではないのかもしれない――。
〇注釈
(1) 人間はこの世界に生きる一個の自立した主体である。この世界とは、物理物質を基盤として構成された物理空間であり、この閉じた系の内部に在る主体の身体は物理的な物体である。この世界は主体にとっては常に外界であって、すなわち我々人間は外的世界を知覚し、認識する認識主体といえる。当然のことながら認識主体の身体は物質的なのであり、以上から認識主体は物質に宿る。いわゆる精神などというものも、もちろん物理身体に宿るのであって、高度な精神活動や意識活動などの根底には、「自他を認識する能力」があるものと考えられる(たとえば鉱物類の結晶が成長できるのは、個々の分子・原子が自他を認識できているためである)。従って、物理身体に宿る認識主体が有する意識や精神などという非物理的存在物は、その基盤を物質に求めるために、物理的存在物(物理物質)と相互に連続性を持つはずで、物理空間の構造や規則、法則性やそのメカニズムの研究が、脳科学、心理学、精神病理学その他の研究に寄与する可能性は十二分にあり得る。
(2) 森羅万象に遍く精通し、この世の一切を説明し、特に現象・事象の事由や成り立ちを考察し、そこから得られた知見に基づいて今後の将来や未来の吉凶を予測することを主たる目的とした、古代中国に起こった学問の総称。「陰陽五行説」が理論的な側面を支持する。陰陽道に精通した導士は「陰陽師」と称され、日時や方角、人事などについて行為・運勢の良否を、過去蓄積された膨大な情報から半ば統計的に判断し、禍を除いて福を招来し、あるいは厄災を退けて幸福を生み出すべく、占いや呪い、祓いや祭などの祭儀を行う。平安時代以降、陰陽道の思想は貴族文化に浸透し、その名残りとしてたとえば結婚や建築の日取り、土用の丑の日、大晦日の大掃除、節分(御霊会)などが挙げられる。なお、(5)「陰陽五行説」の項も参照されよ。
(3) 中国の後漢末すなわち2世紀後半頃、張陵と呼ばれる人物が創始した宗教、またはその教団のことで、「五斗米道」の名は信者に五斗の米を奉納させたことに由来する。教理の中心は治病法の研究で、病とは神が犯した罪への罰として下した結果とみなす。その許しを請い願うべく行われる諸々の実践は後に理論化、体系化され、5世紀頃には仏教や中国古来の神仙思想・仙術をも取り入れて、新天師道なる学問を設立させた。これがいわゆる「道教」のことで、仏教・儒教に道教を加えて三教と称することもある。創始者とされる張陵の家系は現代にも伝わっており、その一門は台湾で中国道教会を率いている。
(4) 秘密教の略称で、7世紀頃からインドのベンガル地方で盛んになった仏教の一派。日本に伝わった密教は主に中国より持ち帰ったもので、最澄の天台宗、空海の真言宗が真っ先に挙げられよう。根本の仏陀を大日如来と呼び、密教は大日如来の所説であると説く。特徴として、仏教外の諸神、諸聖者はすべて大日如来の現れであると解し、多くの民間信仰を摂取していったことに加えて、衆生(現世に生きる者たち)は潜在的に仏性を具有していると解する点は重要である。ここから、曼荼羅の諸尊を信じ、陀羅尼を誦し、印契などによる特別かつ多種多様な儀式にあずかることによって、ついには悟りの境地に達することができるという考え方に行き着いた。悟りの境地に達するとはすなわち、それこそは仏と成った状態なのであり、随って密教の教理は即身成仏を許容する。
(5) 元来、五行とは中国古来の哲理で、万物を組成すると考えられた五元素を指す。すなわち、木・火・土・金・水のそれで、これらは五気などとも称された。五行にそれぞれ兄(陽)・弟(陰)が配されて十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)が生まれ、十二支の思想も取り入れて十干十二支が生まれた。五行説とは、これら五気の盛衰消長によって宇宙(すなわち物理世界)・人事(すなわち精神世界)のあらゆる現象・事象を説明しようとする考え方のことであり、陰陽説とは、この世の一切は究極的には陰(-)と陽(+)とによって説明可能とする考え方のことであって、これら二説を融合したものが陰陽五行説である。
(6) 上項(3)「道教」の項を参照されよ。
(7) 仏教渡来以前の、あるいは仏教との習合以前に日本に存在していたとされる我が国固有の信仰、儀礼の総称。地域や血縁共同体に古くから根付いていたもので、自然信仰、祖先信仰、神意判断などを主な内容とする。特定の教祖、教団組織はなく、基本的には土着の信仰の総称で、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』などに表れる世界観、哲理、祭祀・儀礼、行動様式の全体を指す。
(8) 我が国固有の山岳信仰で、特定の山岳での修行によって超自然的な能力・呪力を習得し、以て呪術などの宗教活動を行うことをその主たる目的とする。修験道の行者(導士)を「修験者」・「山伏」などと称する。山伏が実践する秘儀の多くには密教との関連性が強く疑われ、またその逆も然り。開祖は奈良時代の山岳呪術者で、江戸時代中期に信仰を集めた役小角。
(9) この時空の全物質を構成する最も基本的かつ要素的な微粒子のことで、物理存在の根幹を為す。あらゆる物質は分子と原子からなり、元来、原子(atom)より小さな物質は存在しないものと考えられていた。a/tom(一個のもの/分割できない)の原義の所以であり、長らく物理学界ではそのように理解されてきた。しかし19世紀末の電子の存在証明以降、次々と新しい素粒子が予想されては証明され、反証されては再証明されるを繰り返してきた。ここであえて「発見」ではなく「証明」と記述するのは、認識主体たる人間の外界認識の機序を踏まえてのことである。いかなる科学的真実・客観的事実があろうとも、その情報に接続した時、認識主体は自身の価値基準で解釈作業を行為してしまう。従って、原子以下の微視的世界を観測の対象とする現代物理学は、常にこの問題を内包しており、これを「観測の問題」などと称する。素粒子研究の基幹理論として「ひも理論」が挙げられるが、これは非常に難解かつ不可思議な学説であるので最早述べまい。最後に記しておきたいのは、素粒子を考えた時、結局たどり着くのは素粒子の生成過程であるということである。すなわちこれは、現代物理学の最終研究対象が宇宙創成であることを意味している。
(10) すべて物質は素粒子の組み合わせによって構造化され、そうして陽子・電子・中性子が原子を成し、やがて原子は分子を成して、ついには一個の物理構造物と化すのであるが、ここで問題なのはそのような構造過程の機序などではなくて、組織化された原子内部の構成要素同士の結合の話題である。さらに言えば、原子を形作る陽子や電子、中性子それぞれの間隙についてなのである。その間隙は一体どのような場所なのであろうか。原子物理学的には粒子間の間隙は「無」であり、この部分を量子真空と呼んでいる。粒子と粒子は厳密には結合してはおらず、あくまで電磁気的な力による繋がりによってその存在を維持しているに過ぎない。繰り返すが、物質と物質は厳密には結合し合っている訳では決してない。従って、恋する一対の人間が互いに抱き合い、手を取り合って暮らしていたとしても、触れ合うその感覚は脳機能の賜物であって、すべて幻想であるに過ぎない。人間の身体感覚の大部分はこのようなまやかしに他ならない。
(11)原子物理学者Schrödingerが想定した思考実験に登場する箱の中の猫をこのように呼んでいる。Neumannは量子力学における数学体系を完成させるため、観測過程における波動関数の扱いを限定的なものとした。しかしNeumannの示した理論体系の中には奇妙な部分があった。それを説明するべく、猫を用いた思考実験をSchrödingerが提示したため、今ではこのような名で呼ばれているのである。量子力学は原子以下の世界を、Heisenbergの行列力学とSchrödingerの波動関数を十分満足させるような形で記述するが、Schrödingerの波動方程式には根本的な問題が内包されている。それと言うのは、波動方程式はある量子の物理量を観測する際には、その量子の運動量が求まらず、ある運動量を観測すればその物理量が求まらないという非同時性を内包しているということである。他方、Heisenbergも位置と運動量の同時不確定性を唱えており(不確定性原理)、これらのことは量子力学における重大な問題の一つとされる。また、量子力学は観測によって得られた測定量を確率的に解釈するために、「Schrödingerのねこ」が教えてくれるような、箱の中の「ねこ」が半分死に、半分生きているといった確率論的問題を潜在的に含んでしまう。やや難解で奇妙な話題のように思われるかも知れないが、現代科学の諸技術はこのような考え方を土台に持つ量子力学に支えられており、今や、「他者(物体)の存在は、〈私〉がそれと認識し、観測するその時まで、存在する状態と存在しない状態とを同時に兼ね備えている――。」というのは常識である。
〇参考文献
エリファス・レヴィ 著/生田耕作 訳 (1994). 高等魔術の教義と祭儀 教義篇 人文書院
カート・セリグマン 著/平田寛 訳 (1991). 魔法 ―その歴史と正体 人文書院
羽仁礼(2005). 図解 近代魔術 新紀元社
溝口建司 (2013). 英語動詞句の概念スキーマ ―状況認識の構造投射― 教育研究、39、43-82, 大阪大谷大学
大宮司朗 (2011). 増補改訂 霊符全書 学研パブリッシング