第三論:文学が抱える孤独について
2019/08/30
No.03
「文学が抱える孤独について」
-意識主体の認識行為は客観を持つか-
小説家はある意味において、孤独である。詩人も然り。ここでは、小説家も詩人も、およそ言葉を操る人を、仮に「作家」と呼ぶことにする。文字通りの意味での「作り手」である。
ところで、言葉とは何だろうか――。
この問いに明解に答えることはやはり、難しい。
二十世紀の偉大な構造言語学者Saussure(1)は、人間が行うあらゆる言語現象(langage)には大きく二種類あって、一方を「言葉(parole)」、他方を「言語体系(langue)」と区別した。言語学が扱う「言語(言葉)」とは、個人的な「parole」ではなく、より社会的な「langue」であることは勿論なのだが、しかし問題なのは、言語というものがその言語を用いる人間各々の脳内にしか存在いないという点である。溝口(2013)が指摘するように、普段我々が言葉と思って使っているものは、実は「言語表現」にすぎない(2)。その意味で、本質的な「言語」は個々人の脳内にしか存在しえないのであり、従って人間は、言語を意思疎通の主たる手段として使用し続ける限り、この普遍的限界を突き破ることは不可能である。従って、言葉を扱って何かを表現する作家は、その他の芸術家とは根本的にその性質を大きく異にする。鑑賞者は物質として具現化され、物質化された作品を通じて芸術家と心を通わせるが、一方で言語作品の鑑賞者の場合、まず大前提として、作家がその作品で用いた言語を十二分に理解できることが強要される。これは感性とか、直感などとは別次元の話題である。
作家は、作品の作り手であり、その世界の創造主であり、また支配者である。精神分析医で構造主義者Lacan(3)は、「その人の無意識は、その人の言語(の形)として構造化される――」と言った(向井, 2016)。溝口は良く、Libetの「意識的精神活動は無意識的精神活動より0.5秒遅れて意識化される」という文言を援用するが、であるならば、作家の創造した虚構世界は、その作家の無意識によってそのように創造されたと考えて問題はない。
作家が生み出した世界は、しかし作家の脳外に取り出すことはできない。そこで作家は、文字や音という物理的な物質でもって脳内の虚構世界を表現するが、その変換が必ずしも適当な単語に言語表現化されるわけではない。また、文字や音として表現された作品を受け手が読解する過程で、本来オリジナルであったはずの虚構世界は容易に平行世界化しうる。ゆえに作家の思いは根本的には、決して読み手には届かない。
では何故、人は文学を愛するのだろうか。
作家が脳内の精神世界で生み出した創造物を読み手が完全に理解することは、究極的には不可能なはずである。それは、例えるなら川の彼岸と此岸――物理世界という名の「大河」によって隔てられた両岸から、それぞれ向き合っているようなものである。また、どんなに好きな作品があったとしても、受け手がその作品を読解した時点で、オリジナルと平行する虚構世界が生まれ、純粋な意味での作品は改変される。同じ作品が好きだという人間が大勢いて、「私たちは皆、同志だ」と思っていたとしても、それは誤解であり、錯覚であり、幻想だ。あの人と私の観ている作品世界は、決して交わらず、ゆえに作品への思いを読者相互が共有することもできない。文学が言語(すなわち言語表現)を介して表現される限り、作り手・読み手の隔たりは決して埋まらないし、読み手・読み手同士の、作品や作家への感動、共感も究極的には共有することができない。
言葉というものは、非常に曖昧かつ危うい存在である。言語は摩訶不思議な神通力を備えた万能の道具では決してない。読み手は作り手の創造した世界へは決して接続することはできぬ。銘々各々が勝手気ままに解釈し、理解し、共感したつもりになっているにすぎない。
けれど、いやだからこそ、人は文学を愛するのかもしれない。決してその世界に参入することができないと分かっていながら、居もしない彼・彼女に恋い焦がれ、作り手の描写一つ一つに一喜一憂し、実は壮絶な過去を背負うた悪役の悲壮な最期に涙する。自由な解釈とは、本来そういうものだ。
物理世界を観ることも、また同じではないだろうか。
人間は、現実のこの世界を直接に認識することはできず、光情報が神経情報へと変換されて視神経を経由し、脳内で処理される。意識なるものが、感覚器官を介さなくては物理世界の何一つを知覚できないために、読み手は作品の「あの世界」を直接に認識することはできず、文字としての光情報は神経情報として視神経を経由し、脳によって適当に処理される。そのために読み間違いはおろか、覚え違いなどといった勘違いは日常的に繰り返され、「以前に読んだ時は確かああだったのに」とか、「あの時はもっとこんな風に感じたのに」とかいった現象がたやすく生じる。
作品の虚構世界を観ることと、現実の物理世界を観ることとは、本質的には同じことであるといえよう。すなわち人間の「言語」が本来所在する精神世界の内部に構築された文学世界にアクセスし、当該主体がいわばその認識空間(4)を旅することと、その主体が身体外部世界たる物理空間を生きることは、本質的には何ら違いはない。なぜならどちらも、当該主体が何かの「情報」を主観的に認識し、主観的に理解し、主観的に解釈するという一連のプロセスを通して営まれる主観的認識作業に他ならないのだから。人間が行う意識行為はすべて厳密には主観的でしかない。「もっと客観的な視点を持ちなさい。」などと人から指摘を受けた本稿読者がいるかもしれないが、断言できる。そのようなことは人が人である限り、絶対に不可能である。
以上により、文学作品の鑑賞は常に「読み手」自身の精神世界においてのみ行われ、そこには第三者の介入する余地がないという意味で、孤独な作業である。それは「言語」の実体というものが所詮、人間の脳内にしかなく、外部の者がそれを純粋な状態で抽出することができないということから導き出される寂しい事実である。しかしこの事実は、人間が物理世界を生きていく中で常にさらされている事態なのかもしれない。我々の意識主体それ自体には、何ら外的情報を認識する能力がないのだから。もっと言えば信頼する友も、愛する家族も恋人も、感覚器官が常に正しく作動しているという「妄想」によってのみ、確固たる存在として認識しているに過ぎないのだから。
○注釈
(1)Ferdinand de Saussureが提唱した構造主義が、どれほど後世に強い影響を与えたのかを、このわずかな紙面の上で説明し尽くすことは不可能に等しい。たとえば、精神分析学、民族学(文化人類学)、哲学、近代思想研究などは、特にこの影響が甚だしい。また、Saussureがそれまでの因襲的な史的言語学を強く批判したように、構造言語学もまたアメリカの言語学者Chomskyによって、その伝統的風潮を強く批判されたという経緯もあるが、結局は、Chomskyの「変形生成文法理論」もまた批判の対象と落ちぶれるに至った。このように、これまでの言語学界の歴史的変遷を辿ってみるのも面白い。
(2)たとえば、溝口(2013) ,p.45に言語と言語表現に関する言及がある。また、溝口(2013)は、これまでの言語学がその主たる研究対象としてきたものは単なる言語表現にすぎず、物理的には観察できない脳内にこそ言語の実体がある、と設定する構造言語学の登場を待たねばならなかったという、言語学界の悲劇的な歴史を指摘しているが、この点に関して言えば近年、その時間的遅れを取り戻すかのごとく脳科学分野との連携が見受けられる。しかし、たとえば言語発達研究などの領域では、依然として言語獲得の生得的か否かの論争が続いており、脳科学などとの連携、学問的統合による、速やかなる決定的仮説の登場を期待するばかりである。
(3)Jacques Lacanの功績は、Saussureの構造言語学をSigmund Freudの業績と結びつけて考察した点にこそあろう。その結果、当時、失速気味だった精神分析界に希望的新境地を切り拓き、この学問的閉塞性を打破したことは、偉大だと評価しても過大ではない。心理学徒を自称する筆者に言わせれば、Lacanの諸理論は非常に理屈っぽく難解で、実証主義・実験科学を重んずる心理学界からは毛嫌いされている感が否めない。どちらかといえば、作家論や作品研究などの文学界、実在論・経験論などの哲学界等の学問領域の方が歓迎されている雰囲気があるが、個人的には嫌いではない。
(4)本評論において、「認識空間」とは、「意識的な精神活動を行う主体(意識主体)が、外的刺激についてのあらゆる認識処理に取り組む非物理的な心内領域」という意味で用いることとする。「空間」という文言に違和感を覚えるのは、この文言に物理的な意味合いを見いだすからであろう。しかしそれは、あくまで物理学における術語の意味が社会に広く流布されているからなのであって、「空間」の定義は各学界によって異なるのは当然である。
○参考文献
・溝口健司(1993). 認識主体と状況 大谷女子大学紀要 27(2), p113-141, 大阪大谷大学
溝口建司 (2013). 英語動詞句の概念スキーマ ―状況認識の構造投射― 教育研究、39、43-82, 大阪大谷大学
・向井雅明 (2016). ラカン入門 ちくま学芸文庫.
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