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第二論:なぜ外部不経済はなくならないか

2019/08/28

No.02

「なぜ外部不経済はなくならないか」




(1)人間は罪の子か


 旧約聖書によれば、アダムの子孫である人は生まれながらに罪を背負っているという(1)。

 17世紀のイギリスの哲学者Lockeは、人間はタブラ・ラサの状態で生まれてくるという「白紙論」を唱えた。

 18世紀のフランスの思想家Rousseauは、人間の本性は善でも悪でもなく、各人が自然な状態として自足しているが、文明社会の発展に伴ってこの平和が崩壊していくと主張した。

 人間は、ごく基本的な行動の一つとして「集団」を形成する。かつてMaslowが唱えたように、我々には抗いがたい欲求の方向性というものがあって、彼が唱えた「欲求段階説(2)」によれば、集団への帰属欲求は5階層中、中間位の下から3番目とされる。

 個体間の社会性は高等動物には広く認められる現象であるが、人間の場合、形成される集団への帰属性に加えて、より複雑で怪奇な事象が観察されうる。このような人間の社会性心理、集団性心理などを研究する学問が社会心理学である。

 ところで、「罪」には「罰」が伴う。

 人類の始祖アダムが犯した罪は原罪として、キリスト教圏のあらゆる人々の意識を長らく拘束し、今なお原初の罪としてこの教徒を縛り上げている。かつてLockeやRousseauら感覚論者(3)が主張したように、確かに人間は生まれながらに白紙であり、自然状態においては善悪などないのかもしれない。だが、我々は社会を作り、文明を築き、国家を形成させてしてきた。「罪」の概念など、所詮は国家や社会がその集団を運営していく上で編み出した、単なるルールや規範に他ならない。「罰」もまた、同様なのである。我々は特定の規範によって「罪」を共有し、違反者は集団を顧みなかった者として弾劾される。

 すなわち、本来何ものにも囚われないはずだった我々人間は、集団に帰属していたい、社会から孤立したくないという、心の底から湧き上がる純粋なる欲求に従って、ただこの欲望を満たしたいがために、これらの規範やルールに服従しているといえる。だからこそ、帰属したくない集団、所属する必要のない集団――外集団の利益や繁栄はことごとく無視して良く、むしろ自身が属する内集団の利益を脅かし、発展を阻害するようならばこれを撃退することもためらう必要はない(4)。

 しかし、人類がこれほどまでに科学技術を向上させ、自身の生存圏たる地域、地方、ひいては地球の環境にさえも影響を与えうるようになった20世紀以降、純粋に内集団の利益のみを追い求めてばかりもいられなくなってきたのである。いわゆる、「外部不経済(5)」がそれである。

 なぜ人間は、自身の行動の責任も取れないのに、社会に不利益を被るような行動を抑制できないのだろうか。環境が破壊されると知りながら、たとえば海や川を汚染したり、無尽蔵に廃棄物を生み出したり、ましてや産業廃棄物の不法投棄は後を絶たないのだろうか。

 人間は、自らで自らの種の寿命を縮めていることに何の危機感も抱かぬくらい、いつから欲深くなったのであろうか。





(2)何かに服従するということ


 精神分析学では、人間には複数の「自我」が存在すると考える。快感原則に従い、無意識の奥底から溢れ出る「イド(エス)」、道徳・良心に従って衝動を抑制する「超自我」、現実原則に従い、イドからくる本能衝動と、外界の現実や超自我と折り合いをつける「自我」がそれである(6)。

 本来、人間には幼少期に植えつけられた道徳心などから芽生えた「超自我」の働きによって、ルールを破ったり、「罪」を犯すことに対しては抑制がかかるはずである。にもかかわらず、人間はむしろ進んで非道徳的な振る舞いや行動を取る場合がある。たとえば戦争状況下の兵士、たとえば捕虜収容所の監視官、たとえばナチスのユダヤ人絶滅所の警備兵、たとえば集団による嫌がらせやいじめ行為、あるいは極端な場合には傷害・暴力行為や殺害事象といった事態にまで発展することもあるだろう。

 これらの行為・行動はすべて通常、いわゆる文明社会においては許容されるものではなく、(個別の文化のわずかな差異はあるにしても、)理性・人間性・道徳性などといった心性が欠落しているものと認識されうる。しかし加害者たちは歴とした文明人の一員なのであって、その多くはごく一般的な人間に過ぎない。普通程度の知能を有し、一定程度の教育を受け、一般的ないしはそれ以上の家庭環境下で育ち、ほとんど問題なく学業を修めて社会へ巣立ち、平凡だが幸福な家族を築く。ナチス・ドイツのEichmann親衛隊中佐がそうであったように。

 かつてMilgramが実施したアイヒマン実験が実証したように、すべて人間は、自分より権威あるいは地位のある人物に従い、その人物に身を委ね、それによって安心感を得たいという欲望が潜在的に備わっている。また、この実験が明らかにしたもう一つの事実は、人間の「責任感のなさ」と「無責任さ」である。Eichmannの置かれた状況がまさにこれを後ろ盾するように、ある人間がいたとして、自身の良心が当該行為を顧みるよう働きかけたとしても、自身に課せられた職務を全うしなくてはならないという良心も同時に合わせ持ち、また当該行為に関しての一切の責任を背負う義務がないことが明らかな場合、その人は、案外容易く非道徳的・非倫理的行為に陥りうるということなのである。そして「その人」は、ごく少数の限られた思考パターンをする人々なのでは決してなく、我々すべての人間に当てはまる可能性があるのだ。

 精神分析学には、サディズム(加虐性愛)/マゾシズム(被虐性愛)と呼ばれる概念があるが、近年これらの言葉は一定、社会に通用するようになった。メディアなどではSMという省略した記号で流布されているこれらの用語は、本来は精神疾患を患う病者に対して用いるべきである。しかし誤解してはならないのは、これらの言葉は決して精神病者を蔑視するためにあるのではなく、これらサディズム/マゾシズムの概念は非精神病者すなわち正常者の心的構造の理解に寄与しうるということなのである。藤田(2006)が言うように、サディストの多くはその心的内面にマゾシズム的性質を持ち、すなわち人間とは根源的にマゾシズムの性質を持つのである(根源的マゾシズム(7))。サディストは眼前の誰か(何か)を加虐して快楽を得ながらも一方では、心の奥底では自身の被虐を待ち焦がれている。つまりサディストが本当に加虐したいのは誰なのか。それは自分自身である。さらに言えば、記憶の中の自分自身である。従ってサディストの欲望は、その人がサディストである限り絶対に充足されることはなく、加虐性の増大はかえって本人を苦しめる結果となる。

 Freudは、「元来人間は、根源的にマゾシズムの性質を持つ。」と主張した。であるのなら、先述したアイヒマン実験の結果は、Freudの言う根源的マゾシズムすなわち受動志向が広く人間の意識・無意識に影響を与えていることを示唆しているのではないだろうか。なぜなら受け身でいることは、手放しの安心感を与えるからである。これは幼児と保育者の関係が常に、受動と能動であることからも推し量れる。

しかし、その人がその集団にどの程度帰属意識を持ち、あるいは依存的であり、また集団内上位者の権威が明らかであるか否かによって、必ずしもその人は指示された内容を行為するかどうか分からない。また肝心なことは、その人の取るその行為の責任が、ほとんど(全く)本人には帰されないということである。ここでいう集団とは、単に経済主体(企業)であるかもしれないし、どこ市町村・都道府県であるかもしれないし、誰かの家族であるかもしれないし、あるいは一個の社会全体、一つの国全体であるかもしれない。




(3)おわりに


 本評論では、「外部不経済」という問題事象の心理的原因を根源的マゾシズムに求めた。先行研究の多くはこの問題事象の心理的原因を「囚人のジレンマ」に見出しており、確かにその思考モデルの立場に立てば、ある程度はこの問題事象を説明できる。しかし、それだけでは根本的な部分の解明として不十分であると思われた。

 囚人のジレンマ理論では、個別の人間または集団の「良心の呵責」と「自己利益」だけが焦点化され、各人それぞれが当該行為の強要(法令違反行為などの指示)をなぜ受動的に受け入れられるのかという部分が度外視されている。すなわち、「外部不経済」の問題に関しては以下の二元的モデルを提案したい。

 当該問題の背景には、当事者本人の心理的要因が多分にあり、第一に囚人のジレンマ状況では最終的には利潤の追求を欲望してしまうということ、第二に人間には「権威ある者に服従したい」というマゾシズム的性質が元来、備わっているということ。

 これら二点の心理的要因モデルを用いることで、当該問題のさらなる分析が期待される。






(4)注釈


(1)『旧約聖書』「創世記」第3章に記されている、有名な禁断の果実を食むくだり。キリスト教においては、この項を宗教的典拠として、すべての人間は人祖の犯した罪を負い、生きながらにこの罪の中にあって、我々人間にはその罪から逃れる自由を自分では持たないと説く。この罪の観念はパウロやアウグスチヌスによって極端なまでに強調され、未来永劫キリスト教徒を縛り上げる。神による恩恵によってのみ人類は救われ、原罪からの解放は、カトリックにおいては洗礼の秘跡に、プロテスタントにおいてはキリストの贖罪と信仰のみによるとされる。


(2)A.H.Maslowが、人間の発達とその可能性の探究として提唱した欲求と動機づけに関する理論のこと。彼によれば、人間の欲求は明らかな構造性を持ち、その欲求構造は基礎的な段階から順に五階層を成すという。すなわち、(1)生理的欲求、(2)安定・安全の欲求、(3)社会的欲求(所属欲求)、(4)自我(自主性)の欲求、(5)自己実現の欲求の五階層である。なお、下位の(1)から(4)の欲求については、下方の欲求が充足されると次の欲求が高まっていくが、最高位の(5)に関しては生涯、完全に充足されることはなく、引き続いて欲求が喚起されて行動の動機づけとなり、ゆえに高い勤労意欲が誘発されると主張した。


(3)あらゆる認識は、感覚に由来するとする哲学理論の一つ。この世界を認識するとき、我々は五感を駆使して知覚することしかできず、ゆえにこの立場の論者は、感覚相互間の関係とその認識の分析を重んずる。すべての認識の源泉を知覚にあるとして、知性の働きをも感覚に還元しようと考えた。心理学的には、あらゆる精神内容は感覚に還元できるとし、観念連合論に近い部分もある。「存在するとは、すなわち知覚されることである――」とは、G.パークリーの語録の一つである。


(4)外集団よりも内集団を肯定的に評価してしまう傾向が人間にあることは、たとえばTajfelの知見が有名とされる。Freudを祖とする精神分析学では、集団内部から生ずる不安感や恐怖心などのフラストレーションからくる攻撃衝動を外集団に向けることで、集団内部の統合と秩序が維持されているものと解釈している。しかし、精神分析的な解釈では、いずれの外集団がスケープゴートの対象とされるのかが未解決なままである。これに対して、Sherifは現実に内集団の利益を脅かす集団が敵視されるという「目標葛藤理論」を提出した。Sherifらの研究によれば、競争関係の導入が集団間差別を生み出すことが示された。


(5)ある経済主体の行動が、その費用の支払いや補償を行うことなく、他の経済主体に対して不利益や損失を及ぼすこと。イギリスの経済学者Marshallが用いた言葉で、市場を通じて行われる経済活動の外側で発生する不利益が、個人、企業、社会に悪影響を与えること。外部不経済の内部経済化が課題とされる。


(6)改めて、精神分析学の「人間」に対する基本的な考え方を記述しておく。人間とは心を持った存在である。心=心的領域とは「意識」と「無意識」から成る。「意識」とは、今気がついている心の部分をいい、「無意識」とは、心の奥底へと抑圧され、いかなる意志でも意識化できない心の部分をいう。無意識から表れる欲動(いわゆる欲望)はエスと呼ばれる。保育者や教育者などからしつけされると道徳心や良心、倫理観などが育っていく。これを超自我と呼ぶ。このように概説しただけでも、「人間」の心とは実に多様で、複雑さを持ち、銘々が銘々に自分勝手に要求を突きつけてくる。しかし最も大切なことは、これら乱れ合う心的領域を暗闇から見つめているのは誰かということである。無論、それは「無意識」しかいない。


(7)サディズムが優れ、マゾシズムが劣ったものかのように捉えられ、一部メディアにおいてもマゾシストを蔑視するような風潮、メディア出演者の言動などが散見されるが、精神病理的には両者に優劣はつけがたく、いずれも度を過ぎれば適切な心理介入や医師による治療が必要となる。また、マゾシズムが根源的であることを疑問視する意見もあるが、これは幼児期の保育者との関係性を鑑みればすぐに撤回されるものと考える。すなわち人間は未熟な状態で出生し、その後一定期間は保育者(通常は母親)による手助けを受けざるを得ない。その関係は常に受動的であり、この関係性は本人に確固たる自我が形成されるまで継続される。この関係性を全面的に受け入れるためには人間は保育者に対して全面的に受け身であるしかなく、そのためにはこの状態を不快と認識しては具合が悪い。四六時中、緊張状態であることは心理的・精神的に不適切である。






(5)参考文献


・藤田博史 (2006). 性倒錯の構造 フロイト/ラカンの分析理論 青土社.

・池上知子 遠藤由美 (2009). グラフィック 社会心理学 サイエンス社

・前川重治 (1985). 図説 臨床精神分析学 誠信書房.

・若田恭二 (1995). 大衆と政治の心理学 勁草書房



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