第一論:言語獲得の進化必然性
2019/08/28
No.01
「言語獲得の進化必然性」
(1)言葉とは何か
我々は日常生活の中で、特に意識もせずに言葉を交わしながら、誰かとコミュニケーションを図っている。しかし、考えてみれば不思議なものだ。なぜ我々は、同じ言葉を話せるのだろうか。なぜ我々は、相手の言うことの意味が理解できるのだろうか。そして、なぜ我々は、日本語という言語を獲得し得たのだろうか。
人間の感ずるあらゆる知覚・状況は、脳内で反応として認識されるが、それらの感覚や感情が意識化された時点で、即座に言語化されるものと思われる。しかし、意識に上ったそれらの感覚なり感情なりが、特定の言語一つないし幾つかだけで表現されるわけではないだろう。何かを感じた時、人間は漠然とした言葉で以って言語化するのである。
であるならば、本質的な意味での「言語」は脳内にあって、音や文字の形で表出される言葉は「言語表現」とでも言えよう。我々が日頃、言葉や言語と呼んでいるものが実は言語ではなく、意思疎通というものが、文字(光子)や音(音波)などの物質粒子を介して行われているのだとすれば、我々がやり取りしている“モノ”は言語(言葉)ではない。
しかし、そうはいうものの、脳内で構成される言葉の研究がまったく意味を失ったわけでは決してない。言語が個々人の脳内にしかなく、言語それ自体を抽出できないのだとしても、言語表現を観察することで、個々人における言語の扱い方・用法などを推し測ることは可能であろう。
ここで、初めの疑問に突き当たるのである。なぜ我々は(本質的な意味での言語が、個々人の脳内にしかないにもかかわらず)、同じ言語を発話できるのだろうか。なぜ我々は(意識を共有することもできないのに)、他者の言葉の意味を理解することができるのだろうか。そして、なぜ我々は、(一定の話者集団と、構造性・体系性を持つ)言語を獲得することができたのだろうか。
(2)言語の獲得は生得的か
通常、我々が「言語」と捉えるものは、厳密には「言語」と「言語表現」とに区別できる。前者は当該言語を操る話者個々人の脳内(精神世界の内部)にしかなく、後者は「言語」が物理的な形を伴って表現化された物理的存在物である。このことは、まず何よりも初めに確認しておくべき事柄であり、両者を混同して認識する知見が数多く散見されるように思われる。従って、言語学が究極的に取り組むべきは、前者の意味においての「言語」なのである。
ところで、個別の話者は当該言語を、どうやって獲得するのか。
発達言語学・発達心理学などでは大きく次の二つの学派がある。すなわち、「人間は本来、白紙の状態で出生するのであり、従って個別の言語の獲得は後天的なものであって、言語発達は脳機能の発達に伴うものである。」と考える「生後論」派と、「人間も他の生物種と同様、長い進化の歴史の中で発達を遂げてきた。ほぼ全人類が(手話や点字などを含めて)言語を獲得し、使用できている状況は、単に脳機能の発達の一言で片付けるには不自然で、そこには何らかの要因が内在しているはずである。つまり言語の獲得は先天的なもので、すべての人間は生得的に脳内に言語獲得のための種(文法)を有している。」と考える「生得論」派の二つがそれである。
このように述べたとき、多くの読者は次のように思うのではないだろうか。「なるほど。たとえば日本語一つ考えたとき、一億人以上の人間がほとんど問題なく同一の「言語」を獲得し、一定、相互に意思疎通が図れていることは確かに不思議ではある。しかし、だからといって、その根拠を脳機能に求めるのは飛躍しすぎている。」と。
確かにこのような反応も致し方ないのかもしれない。先天的な、とか、生得的な、とか、生まれながらの、などといった言葉の持つ語感は人によっては悲観的に捉えられ、ややもすると動物的で非理性的、非人間的だと認識されかねない。しかし、少し思考を巡らせてみれば、人間が長い進化をかけて猿人など旧人類から発達した新人であり、太古の原初人類は直立二足歩行をし出したばかりで、脳の体積はおよそ現生ゴリラと大差ないくらいの小さなものであったと気づくはずだ。
つまり、言語の獲得は、生得的なのである。それは、人類の進化の過程を踏まえて導き出されたものである。旧人類が直立二足歩行を行い、頭蓋内の脳が安定して膨張できるようになったが、それは単に事実の一側面にすぎない。人類は脳の体積を肥大化するほかなかったのである。すなわち、二足歩行に伴う脊椎姿勢の安定は骨格や筋の発達を促したが、同時に人類は種として物理的身体の進化の可能性を喪失した。つまり人類は、身体のこれ以上の進化を望めなくなったのであり、これは人間の身体が進化する必要のない究極の状態へと達したことを意味していない。脳の発達は種としての本能によるものであり、その結果得られた高度な知能や知性などと呼ばれるものは、進化の過程から考えれば必然なのである。「言語」の獲得もまた進化の必然なのであり、遺伝的に脳内に組み込まれたものであって、この機能は全人類に特有かつ普遍のものであるはずである。
このような考え方を生得論と呼ぶと述べたが、アメリカの言語学者Chomskyもだいたいこのようなことを主張している。
「言語」はあくまで進化の過程で生まれ出でた産物にすぎず、言語の獲得は人類の不断の努力によってもたらされた成果などでは決してない。「言語」は新人に遍くプログラミングされた潜在的なものである。脳内にあると想定された言語諸機能のことを普通、「普遍文法」と呼んでいる。確かに、これだけでは説明不十分で、当該言語の文法(規則)は個別性を有し、現に当該言語の話者は流暢に言語表現を駆使して意思疎通を図っていることを鑑みれば、そこには普遍文法に依らない何らかの別の要因が介在していると想定できる。このように、各言語の言語構造に対応しながら脳内で生成される言語能力は「生成文法」と呼ばれ、普遍文法とは区別して論じられることが多い。
人は、数ある中のただ一つの発達を選ぶが、それは宿命的なものではなく一定、選択の幅を持ちうるということ。ある時点(時期)で、選択の幅の中から一つの発達(過程)を選びながら、一生涯に渡って発達するということ。このことは言語獲得の過程においても同様であるはずである。
(3)自律的進化の閉塞性とその可能性(結びにかえて)
我々は、日常の生活において言語を用いて意思疎通を図っており、また言語によってある事項・現象・事柄を記録する。我々は言語に頼らずして想いを伝達する術をほとんど持ちえず、だからこそ、我々の間には些細ないさかいが絶えない。この意味では、言語には究極的な意思の伝達を図れないという限界性がある。
ところで、Chomskyの言葉「言語は本能だ――」に立ち返れば、人間は言語というものを、獲得するべくして獲得した。それは、たんに霊長類の一種であるヒトの、進化の限界をも意味することになるだろう。
我々の人体構造は、約4万年前に新人類が誕生して以来、ほとんど進化らしい進化を見せていない。長い進化の歴史の中で、もはや人類は、これ以上の身体的・肉体的進化を望めなくなった。そして、進化の行き着く終焉は〈死〉である。そこで人類は、大脳の発達を余儀なくされた。知性の獲得によって、自律進化の閉塞性を打破しようと試みざるを得なかったのである。だが、これは単なる延命処置に他なるまい。終焉は必ず訪れる。人類は、いまや退化的進化の段階を着実に歩みつつある。
従って、人類は大きく二つの悲運を抱えながら種としての進化を歩んでいることになる。一つはコミュニケーションの手段としての言語の限界性。もう一つは人類の種としての自律進化の閉塞性である。進化の過程で生まれた知性の一つである言語能力が、しかし根本的なところで限界性を抱えているというのはおもしろい。
近年、人工知能(AI)研究が急速に進み、いわゆる「機械」はすでに人間生活の一部を構成しつつあって、有機生物(人体を含む)にマイクロマシーンなどを移植する医療技術も臨床段階に入ったと聞く。
先述の、「これら二つの悲劇的課題を克服する術を……、その可能性を見出せる最大の場所は何処か。」と問われたとき筆者は、「電子空間(サイバー空間)である。」と答えるだろう、と言えばいささか大袈裟か。しかし、そう自分自身で嘲笑してみても、日々着々とそのことを感じており、その事実に気づくことさえ恐ろしくもあるのであるが、読者諸氏はいかが思われるだろうか。
(4)参考文献
・溝口建司 (2013). 英語動詞句の概念スキーマ ―状況認識の構造投射― 教育研究, 大阪大谷大学, 39, 43-82.
・大津由紀雄(1997). 文法の脳科学 心理学評論, 40, No.3
・田中克彦(1983). 20世紀思想家文庫2 チョムスキー 岩波書店.
・岩立志津夫(2006). 生得論と使用に準拠した理論で十分か? ―社会的・生物的認知アプローチ― 心理学評論, 49, No.1, pp.9-18
と、いった感じで、日々思うことを小理屈をこねたりしつつ、徒然なるままに書き留めて参ります。
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