第十論:村上春樹〈青が消える〉の茫漠的教材研究A
※村上春樹「青が消える」の教材研究に関する評論になります。全3章構成の予定です。
2022/01/28
No.10a
「『青が消える』の茫漠的教材研究」A:第1章
-〈青〉の持つ意味にとらわれずに-
1. はじめに
1.1. 「言葉」のはじまり
かつて南部メソポタミアの地に文明を興し、強大な都市国家を建造したシュメール人は、楔形文字と呼ばれる特徴的な文字を発明した。これをシュメール語と称し、古代メソポタミア地域とその周辺においては長らく「文化語」として使用されることとなった。『日本国語大辞典』(第2版)は「紀元前十八世紀まで話され」、その後も「文化語としては紀元直前まで使用された」と説明している。ここで注目しておきたいのは、少なくとも起源18世紀より以前にすでに人類は、発達した「言語」を有し、それを用いて他者と意思疎通を図っていた、ということだ。単純な形、あるいはその組み合わせによって何らか表意性と記号体系を備えた「文字」、または「文字」といえそうな物をも範疇に含めれば、さらに過去へと遡ることも可能であろう。
「言語」の獲得及びその使用こそは、人類を「人類」として定義づける一つの指標であり、他の動物とは異なる歴然とした特色であると述べて差し支えない(1)。人類の「言葉」の歴史は、人類の文化的な営みの歴史とほとんど同義である。たしかに原初の「言葉」は、極めて単純なコミュニケーションを図るための手段に過ぎず、固有の文字を持たず、従ってその「言葉」を保存することはできなかったはずである。しかし、ある時期・ある文化によって「文字」が使用されはじめ、現生人類の言語文化は進化史上、著しく急速に発達していったことは自明である。ここで考古学的・文化人類学的な論述を行いたい訳ではない。あくまで着目したいのは、他者との意思疎通を図ろうとして「言葉」を生み出し(2)、それを操り、延いては複雑な思考をも可能になったことである。すなわち「知性」などと称される能力を得た人間は、これによって万物の概念化、自然界の構造把握、事象現象の合理的解釈などを行うことができるようになった。また「文字」による情報の保存は時空を超越し、その状況は、「文字」それ自体が物理的に破壊されない限りは半永久的に続いていく。「文学」とは、人が生み出したものの中で、もっとも「知性」の力の動員された産物の一つであろう。
1.2. 教育の理念とは
ところで、 教育(3)の目的が、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期」(教育基本法第1条)し、「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培う」(同法第2条)ことであるとすれば、「言語力」はこの目的の達成のために必要不可欠な能力であると明言できる。次なる社会の形成者となっていく生徒(児童を含んでも差し支えない)が、豊かな人間性とか調和の取れた人格とかを身につけるためにまず必要な能力がこの「言語力」なのである。いわゆる「国語力」であるが、ここでいう「言語力」とは語彙力・読解力などの狭義の「国語力」ではなくて、対人スキル・コミュニケーション能力・対人推察力・状況判断力などをも踏まえた、より包括的かつ総合的な力のことを意味している。
先述したように、人間は「言葉」を操る動物である。人類の文化の発達は、常にこの「言葉」とともにあった。我々人間は現状、「言葉」に依らない意思疎通の手段を持ち合わせていない(4)。人間が精神の外側にある外的世界を認識できるのは、すべて「言葉」による記号化と体系化の賜物である。国語教育が目指すべきは、幅広い知識と深い教養とに基づいた確かな言語観を涵養させることである。その土台があってこそ、はじめて人間は「言語力」を習得することができよう。もちろんこのような力の習得は、わずか12年間の学校教育では不十分なのであって、「言語力」の習得は一生涯を通じて外的または内的要因によって研鑽を繰り返していくし、また繰り返されるべきである。従って「言語力」は習得する・されると述べるよりも、「言語力」は体得する・されると述べた方が適切なのかもしれない。また、ある人間のある発達段階において、歴然と体得しえたか否かが判明する訳ではないのだから、この点にも留意すべきであろう。
教員はもとより現代人全般は、とかく目に見える成果を求めがちで、その成果に基づいた評価を切望しがちである。報酬とは、この評価に応じて適切に分配される(ことになっている)。しかし、教育基本法や学習指導要領などが謳う「豊かな人間性」の育成や「心身ともに健康な国民の育成」、完成された「人格」を備えた人間の育成は、それが達成できたか否かを即時判断できない。すなわち切り取られた「単元」毎の評価、それも課題達成・理解度測定方式の考査・確認テスト・模擬試験等だけでは満足に評価することもままならない。もちろん、日々の学習評価、学期毎・学年末の評定が不要だと言っている訳では決してない。先述した内容はあくまでも教育上の「理念」であって、それは授業者側の「目標」ではあるが、学習者の「達成目標」とは少し違う。定期考査や学期毎の評定は、学習者がその単元ないしその期間(通常、学期と称する。)にどの程度「学習」に対して達成できたかを測定する指標としての役割を持っているのである。
1.3 文学教育の意義
さて、では具体的に、国語科において「言語力」の育成は、何によってなされるのであろうか。もちろんそれは、「教材」によってである。高校国語の教材は大別して、次の3種に分類することができよう。すなわち評論作品分野(論理国語)と文学作品分野(文学国語)及び古典分野(古文漢文)である(本評論で再三述べている「言語力」とは、現代に生きる我々現代人の操る言葉=現代語に関する能力を指している。よって、これより後は古典分野については除外して述べることとしたい)。
新学習指導要領(新指)は概して「論理的な文章」、「実用的な文章」を読解する力の必要性を訴えているが、結論から述べれば、「言語力」の育成には評論作品分野(論理国語)と文学作品分野(文学国語)のどちらの知識・教養も欠けてはならない。ことに文学作品の読解は、「豊かな人間性」の完成に寄与するばかりでなく、具体的な日々の暮らし、すなわち生徒一人ひとりを取り巻く実際の他者関係・人間関係に直接に好影響を与えうる。人間は、他者と関係するとき、常にその他者の顔色を観、言葉遣いや語調を捉え、発話内容を適切に理解して、以てその人との関係性を友好かつ円滑なものにしようと努力する。自己と他者とを仲立ち、また他者理解(自己理解も含めて)に最も寄与するものこそは「言葉」なのであって、個々人の言語能力の高低はそのまま対人関係の得手・不得手に直結しうる。
文学作品の学習の狙いは、まさにここにある。文学作品の読解・理解とはつまり、その作品に描かれた内容から作り手の意思・主張(と考えられる主題等を)を正しく(最も適切に)把握し、理解することなのである。そのためには、描かれた作品の内容はもとより、端々にちりばめられた些細な描写の一つ一つ、作中に現れる登場人物の発言ややり取り、不意に出現する内省言語の隅々に至るまでを悉く観察し、具に検討していかなくてはならない。この時、必要となってくる根本が語彙力及び推察力で、これらの力を土台として表現力や人間理解の能力すなわち「言語力」が涵養されていくのである。
1.4. 注釈
(1) 『日本大百科全書』(ジャパンナレッジにて閲覧 二〇二二年一月二十五日現在)によれば、「人類と動物を区別する根本的な特色は言語の使用という点にあるという説に疑問を挟む者はいない。言語能力は、レズリー・ホワイトによると、人類のみが所有するものである。これは、ホワイトによると「象徴化の機能」である。いいかえれば、あるものに意味を与える能力である。犬が「おあずけ」や「お手」を覚えるように、動物でも条件づけによって、音声の意味をある程度習得することができるが、動物は、あるものに意味を与えること、つまり「象徴化」の能力をもっていないのである。この人類に特有の「象徴化」の能力こそ言語をつくりだし、文化を生み出した」という。
(2) アメリカの言語学者Chomskyは、変形生成文法説を唱えて、言語の生得性を主張している。Chomskyの諸理論に対する賛否は両論であろうが、仮に言語生得派(ここではそのように呼称する)の立場に寄るのであれば、「言葉を生み出し」た、と述べるのは不適切である。言語生得派は、「人間の言語習得は、生得的な因子によって予め決定づけられている」と考えている。普遍文法説は、「全人類に共通の言語能力が予め脳内に存在しているはずだ」と考える。これを全言語に普遍の「文法」すなわち普遍文法と呼んだのである。この普遍文法説をさらに推し進めたのがChomskyで、個別の言語の習得(獲得ではなく、あくまで習得)においては個別言語の言語構造に対応しながら脳内の言語能力が生成されたものであるという理論を打ち立てた。これが広義の生成文法、あるいは詳細には、変形文法と生成文法という二つの理論から成り立っていたので変形生成文法説と呼んでいる。
(3) 本評論における「教育」とは、「教育基本法第1条に定める目的を達するために設置された各種教育機関において、学習者に向けて取り組まれる一切の行為のこと」をいう。
(4) 本文の当該箇所においては、「我々人間は現状、言葉に依らない意思疎通の手段を持ち合わせていない」と指摘した。これに対しては次のような反論が十分想定される。「なるほど、確かに〈言葉〉などというものは我々がこの世界を認識し、表現するための主たる手段ではあるだろう。しかし、我々が世界を表現する手段は他にもたくさんあるのではないか。たとえば芸術と称される美術作品や音楽作品などは、我々人間が世界をありのままに感じ取り、ありのままの直感や感性に基づいて具現化(視覚情報化または聴覚情報化)したこれも一種の世界についての〈記号〉ではないのか――」と。この言説について、誤解を恐れずに述べれば、「言葉」も「芸術」も、すべて主体たる人間が都合良く生み出した「記号」の総体にすぎない。従って、ここで言う「言葉」と、「芸術」との間に差異はない。「言葉」も「芸術」も、その実体は人間の脳内にしかない。「言葉」とは、外的世界を認識し、知覚する主体が生み出した、世界について(表現するため)の「記号」である。「記号」とは、主体の脳内にのみある「それ」を表現し、具現した「もの」のことを指し、従ってこの意味で、脳内にある「それ」と「記号」として表現された「もの」との間には明確な違いがある。すなわち「言葉(言語)」と「言語表現」・「芸術」と「芸術表現」・「音楽」と「音楽表現」・「愛情」と「愛情表現」といった具合に、それぞれ対となる両者は似て非なるものなのである。そうして個々の主体が外的世界に向けて表現した「もの」は、当然のことながら第三者(無論、これも主体である)によって認識され、知覚され、解釈されるが、その作業はその主体の都合の良いように取り組まれる(「都合の良いように」とは勿論、主体の無意識が吟味・検閲し、許諾された内容だけが意識化されるという意味でのことである)。
1.5. 参考文献
・『岩波 世界人名大辞典』(ジャパンナレッジにて閲覧 二〇二二年一月二十五日現在)
https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=52030193620s180620_000
・三省堂『精選 国語総合【改訂版】』(平成29年度版)中渕正尭, 岩崎昇一 ほか
・『日本国語大辞典』(ジャパンナレッジにて閲覧 二〇二二年一月二十五日現在)https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=2002020f85e8566oCTbL
・『日本大百科全書』(ジャパンナレッジにて閲覧 二〇二二年一月二十五日現在)
https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000081436
・『日本大百科全書』(ジャパンナレッジにて閲覧 二〇二二年一月二十五日現在)
https://japanknowledge.com/lib/display/?lid=1001000113042
・ノーム・チョムスキー 福井直樹・辻子美保子(訳)(2011)『生成文法の企て』岩波現代文庫
第十論:A 終
〈青が消える〉の茫漠的教材研究B:第2章に続きます。