第九論:生物兵器と化学兵器の比較研究B
※第九論:A(第1章)に続く章ですので、先にそちらからお読み下さい。
2021/02/03
No.09b
「生物兵器と化学兵器の比較研究」第2章
―生物兵器の優位性を中心に―
2 化学兵器の研究
2.1 化学兵器を禁ずる条約について
まず初めに述べておくが、戦時・平時を問わず、いかなる場面、いかなる状況であっても、化学兵器の使用は国際条約等で禁じられている。最も著名なものとしては、ハーグ陸戦条約(1899)が挙げられよう。この条約において、交戦者の定義や宣戦布告の方法、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・負傷者の取り扱い、使用してはならない戦術、降服、休戦などに関して規定がなされたが、その中に、害敵手段に関して次のような規定がある(※13)。
第23条:交戦者は害敵手段の選択につき、無制限の権利を有するものではない。
第24条:特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通りとする。
1. 毒、または毒を施した兵器の使用。
2. 敵の国民、または軍に属する者を裏切って殺傷すること。
3. 兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること。
4. 助命しないことを宣言すること。
5. 不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること。
6. 軍使旗、国旗その他の軍用の標章、敵の制服またはジュネーヴ条約の特殊徽章を濫りに使用すること。
7. 戦争の必要上、やむを得ない場合を除く敵財産の破壊または押収。
8. 相手当事国国民の権利及び訴権の消滅、停止または裁判上不受理を宣言すること。
ここで、特に留意すべき項目は第24条「1.」と同条「5.」である。また、1925年に、化学兵器の使用を禁止する「ジュネーヴ議定書」と呼ばれるものが締結されたことは、後の化学兵器禁止条約(1997発効)成立への地盤となった。同議定書では、戦争行為等における有毒ガスの使用それ自体を禁じた点で、ジュネーヴ条約よりも一歩前進したものとして一定の評価を得てはいたものの、井上(2003)によれば、有毒ガス等の生産や保有を禁止する旨の明文化がなされていなかったという点で、まだ不十分なものであった。しかし、この議定書で初めて、細菌学的兵器すなわち生物兵器の使用に関する規定が盛り込まれた意義はやはり大きなものであった。
化学兵器禁止条約(CWC :Chemical Weapons Convention)では、更に強力な要求として、化学兵器の開発・生産・取得・貯蔵・移転および使用等の禁止を謳い、その実施のために、各国を査察する権限を持つ化学兵器禁止機構(OPCW)を設置することになった。以下、本条約の第1条および第2条を引用する(※14)。
第1条
1. 締約国は、いかなる場合にも、次のことを行わないことを約束する。
(a) 化学兵器を開発し、生産その他の方法によって取得し、貯蔵し若しくは保有し又はいずいれかの者に対して直接若しくは間接に移譲すること。
(b) 化学兵器を使用すること。
(c) 化学兵器を使用するための軍事的な準備活動を行うこと。
(d) この条約によって締約国に対して禁止されている活動を行うことにつき、いずれかの者に対して、援助し、奨励し又は勧誘すること。
2.締約国は、この条約に従い、自国が保有し若しくは占有する化学兵器又は自国の管轄若しくは管理の下にある場所に存在する化学兵器を破棄することを約束する。
3. 締約国は、この条約に従い、他の締約国の領域内に遺棄したすべての化学兵器を破棄することを約束する。
4. 締約国は、この条約に従い、自国が保有し若しくは占有する化学兵器生産施設又は自国が管轄若しくは管理の下にある場所に存在する化学兵器生産施設を廃棄することを約束する。
5. 締約国は、暴徒鎮圧剤を戦争の方法として使用しないことを約束する。
OPCWに与えられた権限は強く、たとえば本条約を承認した国の中で、本条約の違反の疑いがある場合には、疑わしい施設等に対して、条約承認国の承認を得ずに立ち入り検査等の査察を実行できうる。ただし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、中東諸国・アフリカの一部の国々は依然として未加盟であり、また肝心のアメリカ議会がこれの加盟を否決したために、本条約への期待には懐疑的な研究者も多い(井上, 2003)。
2.2 化学兵器の定義
ここで、本研究における化学兵器の定義を行いたい。
本研究において、化学兵器とは、「人又は動物に対し、死又は一時的に機能を著しく害する状態若しくは恒久的な害を引き起こし得る毒性化学物質ないし毒性化学物質の生産のいずれかの段階で関与する化学反応体すなわち前駆物質を用いた弾薬類及び装置であって、その使用の結果放出されることとなる毒性によって、人又は動物に対し、死その他の害を引き起こすように特別に設計された兵器である。」と定義する。
なお、本定義は、OPCW第2条の内容に基づいて作成された。
2.3 化学兵器概説
いわゆる近代国家が常備軍を所持し、その軍隊が急速に近代化していく中で、通常の銃火器・刀剣とは別な兵器として化学兵器が注目を集めたことは、至極当然の結果であろう。
第1次世界大戦最初期にフランス軍が、暴徒鎮圧剤を実戦で導入したのが近代戦における初出であろうという指摘がある(井上, 2003)。いわゆる催涙ガスを詰めた砲弾を敵軍に向けて発射し、敵方の戦闘能力の喪失ないし低下を期待したものであったが、当初はほとんど有益な効果を発揮していなかったようである。しかし、1915年4月のドイツ軍による塩素系ガスを用いた攻撃では、フランス軍側に死者5000名、負傷者1万4000人という大規模な損害を与え、これを皮切りとして、以降の戦闘では同盟国軍・連合国軍双方が化学兵器を多用していく結果となった。
第1次世界大戦における化学兵器の重要性を目の当たりにし、またその危険性を知った各国はこれ以降、独自の研究と開発を繰り返していくこととなる。以下、化学兵器を系統ごとに大別して列挙する。
2.3.1 びらん剤
「糜爛」とは皮膚や粘膜あるいは角膜の上皮が欠損して原局的に消失し、結合繊面が露出した状態をいい(ブリタニカ, 2011)、対象者に向けてこのような効果を発揮せしめる化学物質を総称してびらん剤と呼んでいる。中毒症状としては、皮膚に発赤や水疱を引き起こし(糜爛性)、眼や気道粘膜、肺などに障害をきたす(肺傷性)。びらん剤として最も有名なものにマスタードガスと呼ばれるものがある。びらん剤の中でこのガスがもっとも多く生産され、また実戦において最も多く使用されてきた歴史を持つ。また、ルイサイト、ホスゲン・オキシムなどの化学剤もよく知られている(井上, 2003 ; 小井土ら, 2020)。
マスタード剤(mustard)には大別して硫黄マスタードと窒素マスタードがあり、油っぽい黄色から茶色の液体で特有のマスタード臭を放つ。物理的にも科学的にも大変安定した物質で、持久性(17)・残留性が高い。従って曝露後も長時間に渡り当該地域を汚染し続ける可能性が非常に高い。揮発性は低いものの、暖かい気候下での蒸発は生命を脅かすほどの危険レベルに達する場合もあるが、それは気化したマスタードガスが呼吸器を侵すためである。致死量は1500mg/分/立方メートルとされている(井上, 2003)。
小井土ら(2020)によれば、ルイサイト剤(lewisite)のヒトでのデータはほとんど無いに等しく、従って体系的な概説が難しいが、マスタードに比べ、曝露後すみやかに皮膚病変(紅斑・水疱・壊死)や眼痛をきたす症例が多いようだ。すなわちこれは、最初期対応者による早期の曝露事案の把握を容易にさせることを意味し、従って重篤な症状をきたす前に汚染地域から脱出できる可能性の高いことをも意味する。
・主要症状
まず初めに流涙やくしゃみ、せきなどが止まらなくなり、鼻からの出血傾向を認める。眼は充血して結膜炎を起こし、咽頭痛を生じさせ、次いで悪心、嘔吐、下痢などの症状も出現してくる。皮膚に直接接触した場合には、程度が軽ければ灼熱感と水疱、酷ければただれや潰瘍を引き起こすこともある。揮発した蒸気による曝露の場合には眼症状は必発症状で、対応者は傷病者の眼への影響度合いから曝露の程度を逆算して推定することが可能とされている。また特筆すべき事項として、曝露から症状の出現には数時間から最大で2、3日を要する点が挙げられる。すなわち、この被曝から症状出現までの時間のことを潜伏期間と呼び、マスタードガスの特徴として潜伏期間が比較的長くあるということなのである。そのため初動対応者の対処・対応が遅滞し、さらに被害が深刻化しうる場合がある(井上, 2003 ; 小井土ら, 2020)。以上が、マスタード剤の主な症状等である。
次いで、ルイサイト剤の症状等を概説したい。マスタードに比べ速効性を有する。まず皮膚への障害は、被曝後5分以内に表皮部位の壊死に伴う灰色の病変を認め、水疱を形成し、広域の組織壊死に至る場合もある。重篤な傷病者では、壊死した組織が脱落することもあり、その場合は速やかな処置を講じる必要がある。眼は疼痛や眼瞼痙攣が生じ、多く結膜炎や眼瞼浮腫を認める。多量被曝の場合には、虹彩炎や角膜損傷が出現してくる。また肺は、気道徴候が顕著で、気道損傷や炎症を認め、重篤な場合は肺水腫に至る症例も報告されている。大量被曝の傷病者の中には、嘔吐・下痢を伴った肝・腎などの内臓組織の壊死を引き起こすこともある(小井土ら, 2020)。
2.3.2 神経剤
有機リン化合物は、強い毒性を持った神経毒の一種である。神経剤とは、これの人体への影響を踏まえて製造された化学剤であって、化学剤・化学兵器の中で最も強い毒性を誇る。液体や蒸気といった多様な形態を取り、いかなる形であっても有害である(井上, 2003)。
神経剤の中で、特に有名なものが(a)タブン、(b)ソマン、(c)サリン(これら3薬剤をG剤などと総称することもある。)、及びVXと呼ばれるもので、はじめの3種類はすべてドイツで開発された薬剤である。この前者3薬剤は揮発性に富むが、このうち最も揮発性に優れたものがサリンである。VX剤については後述したいので、この項では先の3薬剤について記述する。
(a)タブンは、1936年に発明された神経剤で、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツにおいて約12,000トンが生産された。有機リン化合物系の神経剤特有の速効性があるが、G剤の中では比較的毒性が弱いとされている。しかし、その危険性は極めて高く、呼吸器からの吸入だけでなく皮膚からも容易く侵入できるため、防御には防毒マスクだけでは不十分で、全身を被い包む対化学剤用の個人防護服を必要とする。体内に吸収されると容易に痙攣を誘引し、呼吸困難など顕著な神経症状を呈して傷病者は死に至らしめる。純粋なタブンは無色な液体で無臭であるが、不純物が存在すると微かな果実臭があるという。有機溶媒に溶けやすく、強酸・強塩基に分解されやすいという特徴がある。半数致死量(LCt50)は400mg/分/立方メートルである(※16)。
(b)ソマンは、タブン、サリンと並ぶ神経剤で、極めて揮発性が高いことで知られる。従って兵器としての持続性を欠くため、実戦場面では例えばピナコリルアルコールとメチルホスホン酸ジフルオリドを使用時に混合して発生させるなどして利活用する。半数致死量(LCt50)は70mg/分/立方メートルと猛毒であるにもかかわらず、アセチルコリンエステラーゼ阻害に伴う効能が速効性かつ不可逆性を顕著に持つため、PAM静注は被曝後、数分以内に投与しなければほとんど効果を認めない(※17)。
(c)サリンは1937年にドイツのシュラーダーによって開発された有機リン系の化学兵器である。外見は無色で純粋な状態では無臭、水に溶けやすく、揮発性は極めて高い。毒性は非常に強く、被曝者は短時間のうちに特有の神経系作用を呈し、従って高い殺傷能力を有する化学剤としてこれまで各国軍・非国家主体などから注目され続けてきた(井上, 2003)。我が国において、「化学兵器」、「神経剤」といった言葉を見聞きした時、最も著名な化学剤がこのサリンであることは最早明らかであろう。半数致死量(LCt50)は100mg/分/立方メートルと猛毒であり、また経皮吸収による半数致死量(LD50)は1700mgとする臨床報告がある(※18)。体内のおける解毒は緩やかで、蓄積性が顕著である(井上, 2003)。
・主要症状
ごく少量の摂取でも、ヒトの神経系末端にあるコリンエステラーゼ(18)活性を阻害し、アセチルコリンが蓄積し続け、その結果、神経麻痺を引き起こし、やがては死に至る。早ければ曝露後、2、3分で死亡する。初発症状としては、鼻水が出る、眼の前が暗い・室内が暗く感じる、視野が狭い感じがする、息苦しいなどが挙げられる。ついで頭痛、吐き気、喉の痛み、落涙、くしゃみ、四肢のしびれ感などが自覚症状として出現し、客観的所見として最たるものは縮瞳である。瞳孔は著しく収縮し、直径1mm程度になる場合もある。身体の各所がピクピクとする筋繊維束収縮、四肢の筋肉に力が入らない筋脱力、全身の痙攣、呼吸困難、心臓の拍動停止なども見られる。中等症例以上では急速に悪化する症例も多く、迅速な対処を施さなくては死に至る可能性が非常に高い。主な治療法としては、硫酸アトロピン療法・PAM療法・ジアセパム療法などが挙げられる(井上, 2003)。
2.3.3 VX剤
1952年、イギリスの化学者ラナジット・ゴーシュにより開発された。猛毒の神経剤の一種で、コリンエステラーゼを阻害するという点ではサリンなどと同様の役割を持つ。1952年に英国で合成された化学剤であり、特徴としてはその揮発性の低さと残留性の高さである。一説によれば、温帯気候の環境下においては散布後1週間程度は十分有効な効果を保持したまま残留していたという(※19)。
外見は琥珀色をした油状の液体で、普通無臭である。粘性を持ち、衣服等に付着した場合は特に注意が払われる。わずかな量でも容易に死亡しうるからである。兵器として使用する際はエアロゾルの形態で噴霧して利活用する。エアロゾル暴露を除き、通常環境下では揮発性は低いため呼吸器からの吸入は考えにくく、まず第一には皮膚から吸収を疑うべきである。防護にはガスマスクだけでは不十分であって、全身を被うNBC防護服(19)等の着用が不可欠である(※19)。井上(2003)によれば、1mgで中毒症状を認め、10mgで死に至るという。体内蓄積性を持つため注意が必要である。
・主要症状
中毒症状はサリンと本質的には同様であるという(井上, 2003)。衣類の上から曝露された場合、発症は遅効する。潜伏期間は数分程度だが、部分的被曝による局所的経皮吸収の場合にはさらに遅効性を示す。サリンと顕著に異なる症状としては、サリン中毒に見られる局所の皮膚における症状がない点である。すなわち地下鉄サリン事件等で報告された「眼前が暗くなる。」、「鼻汁が流れ出る。」などの自覚症状が認められない。初発症状として、意識障害や痙攣発作が顕著に認められる。重症例ではいきなり昏睡状態となり、即座に心肺停止が生じうる。そのため心肺蘇生術は直ちに開始されるべきである。呼吸管理は必至である。高度の意識障害を呈する場合には痙攣発作を伴う。一部の症例では、局所症状として筋(被曝部位の付近)がピクピクする筋繊維束収縮が出現する場合もある。
痙攣発作については、一般にてんかん発作に見られるような強直性及び間代性を認め、その他に呼吸困難、唾液や気道分泌液の増加、筋繊維束収縮などの症状を呈する。また徐脈や低血圧を認める。縮瞳は終発症状よりやや遅れて出現し、これは必発症状である。瞳孔は初め、左右の大きさが異なることがあり、のちに左右同大となり、ついには縮瞳する。痙攣発作にはジアゼパムを静注し、気道分泌液には硫酸アトロピンを静注して様子を窺う。
意識障害は程度にもよるが、7日間以上続いた症例もあるという(井上, 2003)。回復期に興奮、独言、幻覚などの精神症状を呈する症例もあるが、意識回復の始まった場合、その予後は比較的明るい。著しい精神症状を呈する傷病者にはハロペリドールを与えて様子を見る。
注意すべき事項として、VX剤は親油性が高く、水で洗浄しただけでは十分除染できない。また揮発性が低いため衣服、家屋の壁面、木材や生活用品等の表面に付着した場合には長期間効力を保持したまま残留する。そのため汚染部の除染は大至急に取り組むべき行動である。汚染された衣類等は水洗しても容易に除染することは叶わず、従って汚染衣類は速やかに破棄することが強く推奨される。汚染除去には漂白粉や次亜塩素酸ナトリウム水溶液を用いてこれを行う。
2.3.4 肺剤(窒息剤)
肺剤と窒息剤は厳密には別種の化学兵器であるが、肺剤のその主たる目的が対象者の無力化ないし死であることから、窒息作用を持つことは最も効果的な観点であり、よって肺剤に求められる作用の一部ないし大部分を担うものである。この意味から、概して肺剤を窒息剤と同義的に捉まえる文献も多いようである。ここで「窒息」の語義をブリタニカ大百科(2011)で引いてみると、呼吸が阻害されること、あるいはこれによって起る状態をいう、とある。続いて、「窒息では体内に酸素が欠乏し、一酸化炭素がたまり、窒息状態となる。はじめ無症状であるものの、まもなく意識を消失し、呼吸困難、痙攣、失禁をきたし、やがては呼吸停止に至る。その後、あえぎ呼吸(末期呼吸)が始まるが、この呼吸の継続時間はだいたい3から5分ほど。あえぎ呼吸終了後も心臓はその拍動を止めず、5分から最大で20分は動き続けるという。窒息死を起すと血液は暗赤色流動性で、皮膚、眼結膜、諸粘膜、漿膜などに溢血点、肺、肝臓、腎臓に鬱血などが現れる。」とある。肺剤の多くは塩素、ホスゲン、ジホスゲンなどで、このうち塩素は肺剤として最古の歴史を持つが、最も多く利活用されてきたのはホスゲン(塩化カルボニル)である。 ホスゲンは、第1次大戦中、塩素に変わる新兵器として1915年にドイツ軍が初めて実戦投入された。小井土ら(2020)によれば、ホスゲンは空気の4倍も重く、従って穴を掘って立て籠もりながら戦う塹壕戦で効果を発揮する。塩素やホスゲンは、戦史的にはマスタード剤よりも古く、井上(2003)によれば、第1次大戦における毒ガスによる死亡者の約8割はこのホスゲンによるものであるという。また、同大戦で多数の被曝者が死亡していった背景には、訓練を受け、十分な化学剤に対する知識を有した対応者がおらず、有効な対象法である副腎皮質ホルモンを精製するだけの技術もいまだなかったことが挙げられる。
・主要症状
ここでは主に、塩素とホスゲンについて記述する。
塩素ガスは第1次世界大戦で広く使用され、現在でも家庭用漂白剤などとして広く一般家庭に流通しているが、使い方を誤れば重大な毒ガス事故に繋がる。塩素による主な症状は、咳、咽頭痛、流涙、窒息感、胸痛などで、被曝量が大きい場合には劇症肺水腫の様相を呈し、急性呼吸障害を認める。曝露が短時間の場合、基本的に症状は一過性で予後は比較的快方に向かうことが多い。塩素中毒の特徴は傷病者が、被曝後すぐに自覚症状を持つという点にある(小井土ら, 2020)。また、塩素は空気と比べてその比重が重く、低層に留まりやすい。非可燃性であり、従って化学兵器として使用する際には、銃砲の弾頭部分にこれを充填して空中で爆破、飛散させるといった方法が採られる。
ホスゲンは、呼吸器を通して吸入されるが、皮膚から体内に侵入するといったことはまず考えられない。窒息剤の中でもかなり危険な物質で、一定の潜伏期間を有するのが特徴とされている。低濃度曝露による被曝の場合、24時間以上の潜伏期間が報告されており、その後に生じうる症状としてはまず鼻腔や肺などの刺激症状が認められる。肺水腫は中等量の曝露では2から4時間後に、大量曝露では30分から60分後に出現し、曝露後6時間以上経過して肺水腫が出現した傷病者については、適切な治療を受けることで比較的生存する可能性が高いが、予断は許されない。軽症な者であっても、すべて被曝者は厳重な観察を受けるべきで、数時間ごとの再トリアージが特に重要とされる。とりわけ乳幼児は軽症であっても容易に重症化しうる。ホスゲンの、被曝者の半数が死亡しうる吸入致死量(LCt50)は3200mg/分/立方メートルとされ、低濃度から中毒症状を呈する。特有の生牧草のような臭いを持つが、中濃度以上では喉などに刺激症状をきたし、咳き込む者も少なくない。高濃度では短時間で致命的な状態に陥るが、曝露総量がどれくらいで肺水腫に至るのかといった具体的なことはよく分かっていない。主要症状すなわち肺水腫の症状として、息切れ、呼吸困難、胸部圧迫感、咳などが出現、皮膚は蒼白し、チアノーゼを認める。咳は頻回、痰は増加する。血痰を認め、その色調は深紅色から深赤色まで様々である。胸部の聴診で聴取される喘鳴や水泡性ラ音(20)は明確で、また脈拍は増大するものの時に減少し、その場合には不整脈を生ずることもある(井上, 2003 ; 小井土ら, 2020)。
2.3.5 無能力化剤
ヒトの精神を錯乱させ、以て戦闘継続を不可能にさす又は戦闘能力を喪失させるために用いられる化学剤を総称して無能力化剤などと呼んでいる。歴史を紐解けば、例えばチョウセンアサガオやベラドンナ、大麻などはかつて実際の戦場で使用された過去を持つ。基本的に、無能力化剤は非致死性で効果は一時的、比較的予後が良好であることが期待されている化学兵器である。BZと呼ばれる化学剤は北大西洋条約機構(NATO)軍が、抗コリン剤の一種であるグリコール酸塩(3-キヌクリジニルベラジラート)を兵器化し、実際にベトナム戦争で使用されたことで有名である。BZは常温では白色無臭の結晶で、水溶性があり、使用時には使用しやすくするためにエアロゾルの状態にしたり、経皮吸収のためにプロピレングリコールなどの溶剤に溶かして用いられたりする。すなわち、BZは皮膚からも容易に吸収されうる。潜伏期間は最短30分から最長24時間で、被曝者は暴露の事実にすら気がつかないこともしばしばである。50%の症例に無能力化が期待できる量は112mg/分/立方メートルである(小井土ら, 2020)。
・主要症状
BZの症状としては、まず瞳孔が散大(散瞳)し、まぶしさや目のかすみを覚える。口が渇き、脈拍は増加して頻脈が出現する。ただし、曝露量が多くなると脈拍は減少する傾向がある。中枢神経系に対して影響を与えるため、BZの量が増えれば自然と意識レベルは低下していく。低濃度では眠気を覚え、濃度が増していくと意識障害や昏睡状態にさえ陥る。また正常な判断力や思考力が低下し、記憶力や集中力、計算能力なども喪失し、自制心を失った傷病者は暴言や乱暴、下品な行為をすることが報告されている。わずかな曝露量でも、言動は不明瞭となり、意味のない言葉を繰り返す。唐突に着衣を脱いだり、口をもぐもぐしたり、引っ張ったり、握りしめたりする。運動失調が生じ、姿勢の制御も困難となる。中枢神経への症状として、幻覚や妄想に取り憑かれることになる。幻覚などは曝露量に大きく左右されるが、程度が著しいと戦闘への従事が困難となり、戦列から離脱させざるを得なくなり、場合によっては被曝者たちのモラルや自制心の低下から、部隊内の規律を維持できない又は完全に崩壊する可能性がある。精神症状は主として2、3日後には回復するとされている。特別な治療は特に必要ないといわれているが、対応者は防毒マスクだけでなく防護衣の着用が強く推奨されている。これは傷病者の衣服等に残留したBZの皮膚からの吸収による二次被害を食い止めるためである。傷病者が興奮して手がつけられない場合には一時的に身柄を拘束具等で束縛し、周囲に危険なものがないかを確認して、必要ならば安全のため片付けておくべきである(井上, 2003)。
2.3.6 暴動鎮圧剤
いわゆる催涙ガスなどがこれに分類される。その歴史は第1次世界大戦前にまで遡り、組織的かつ本格的な使用はおそらくはパリ市警が最初であろうと思われる。大別してCNとCS(21)とがあり、今日の主流はCS剤となっている。極めて一般的な薬剤であり、軍や治安当局が防毒マスクの訓練用に使用したり、また護身用具として一般に販売している国もある。米軍がベトナム戦争時に地下壕に潜伏した敵兵をいぶり出すために活用したことでも有名である(井上, 2003)。
・主要症状
CNやCSの効果は速やかに出現し、曝露から数秒以内に皮膚・粘膜への刺激症状を認めた症例も多数報告されている。これらの化学剤に対しては、眼が特に鋭敏であり、激しい痛みと焼けるような感じに落涙を生じさせ、また結膜はひどく充血する。眼瞼は膨張し、また痙攣する場合もあり、やがて開眼することが難しくなる。一時的に視覚能力を奪われるが、曝露地域から離脱すれば短時間のうちに回復し、徐々に開眼できるようになる。眼の次に顕著に症状が現れるのは鼻や咽頭で、くしゃみ、鼻水、せき、息切れやひどい場合には呼吸困難をきたし、死に至ることは稀であるが注意が必要ではある。皮膚表面が被曝した場合、その部位に疼痛や灼熱感を覚え、外部所見に発赤を認める。曝露地域の気候や気温、その日の天候、湿度や傷病者の体調等にも左右されるが、先述の症状は概して1時間程度で完全に回復する症例がほとんどで、閉鎖された空間で高濃度の暴動鎮圧剤を大量に吸入ないし被曝した時には重症化し、重度の呼吸困難をきたし、稀に死亡することもある。また、CN・CSに対して強い薬剤アレルギー等を引き起こした傷病者の中には、皮膚刺激が顕著に生ずる症例もあり、程度が甚だしいと火傷をきたしうる。皮膚の発赤が4から6時間後には水疱へと変わり、それが半日程度続く症例も報告されているが、基本的に予後は明るい。すなわちこれらの症状は一過性のものなのであり、新鮮な空気のもとに移動させれば症状は落ち着くものであって、通常は何か特別な応急処置は必要としない。眼の痛みが激しい場合には、生理食塩水で洗浄すると効果的である。ただし、傷病者の衣類は依然として化学剤が残留している可能性が高く、二次被害を懸念して、そのような汚染されたと思われる衣類・所持品等は速やかに除染ないし破棄されるべきであろう(井上, 2003 ; 小井土ら, 2020)。
2.4 注釈
(17) ここでいう持久性とは、散布後どれくらいの間、自然界に存在し、その効力を発揮し続けるかを指すもので、その化学剤について「持久性がある」とは概して散布後24時間以上揮発せずに液体として存在することを意味し、「非持久性である」とは24時間以内に蒸発することを意味する。
(18)コリンエステラーゼは、体内にあるコリンエステルという物質をコリンと酢酸に分解する酵素で、体内には真性(Ⅰ型)と偽性(Ⅱ型)の2種のコリンエステラーゼがある。真性は神経組織や筋肉に含まれ、アセチルコリンを分解して、神経の刺激伝達の後始末の役割を担う。 偽性は血清や脾臓、肺など広く体内に分布し、アセチルコリンのほか様々なコリンエステルを分解する(ブリタニカ, 2011)。これの働きを阻害されると神経麻痺を起こし、やがては死に至る。
(19)化学災害・化学兵器等の曝露事案が発生した場合の対応としては、小井土ら(2020: p44, p55)に以下のような記述があるので援用したい。「人が化学剤に曝露する経路としては、肺からの吸入や皮膚・粘膜への接触、摂食などが挙げられる。有事に際しては、化学剤はエアロゾルの形態で散布される可能性が高く、吸入が最も効果的で速効性の期待される経路である。従って、災害現場への進入に際しては厳重な警戒が必要であり、曝露物質等に関する情報が明らかになっていない場合においては、最高レベルの防護装備が必要である。」「NBC防護服」とは、核兵器(Nuclear Weapon)・生物兵器(biological Weapon)・化学兵器(Chemical Weapon)などが曝露した現場ないしそれらを用いた任務に従事する際に着用すべきとされる防護用着衣のことである。一般的に、化学剤事案等対処における個人防護装備にはレベルA~Dまでが設定されており、以下にその概略を示す。
レベルA:最高レベルの防護を要する場合
完全な化学防護衣、陽圧式の自己完結型呼吸装置、化学防護用の二重の手袋及びブーツ、スーツと内部の完全な空気シール(すなわち顔面のみを被う防護マスクだけでは不十分で、全身を完全に被い包む防護衣の着用が必須)
レベルB:皮膚の危険がより低い場合
レベルAに準ずる完全な呼吸防護。ただし空気シールはレベルAが望ましい
レベルC:空気中の有害物質が少ない場合
顔面を被う呼吸缶式防護マスク、適切な化学防護衣
レベルD:化学剤曝露の危険がない場合
ラテックス手袋、眼の保護。ただし突然の危険に備え、緊急用呼吸装置を装着すること
(小井土ら, 2020: p55 表6.に拠る)
(20) ラ音ないしラッセル音という。気管、気管支、肺胞、肺空洞などに分泌物や血液がたまって呼吸の時に異常な雑音を発する。聴診器などで確認し、大別して乾性ラ音、湿性ラ音、大・中・小水泡音、稔髪音、有響性ラ音、無響性ラ音などに分けられる。肺及び気管支の病気の診断上、X線診断が普及するまでは最も重視された。勿論、医療技術や器具の発達が進んだ今日であっても、これらの医学的知識がまったく不要のものと成り下がったわけでは決してない。従って、医療従事者等は、極めて初歩的で原始的な診断技法こそ最後に頼るべき、最も尊ぶべきものであることを肝に銘じておくべきであろうと思う。
(21)CNとは、正式名称をクロロアセトフェノンといい、その外見は白色の固体である。歴史的にはCSよりも古く、第1次世界大戦後の主流な暴動鎮圧剤として治安当局に重宝がられた。しかし、1928年にはより強力で、けれども毒性の弱いものとしてCSと呼ばれる薬剤が開発され、以降の主力に取って代わられた。CSとは、正式名称をO-クロロベンジリデンマロノニトリルといい、その外見は白色の固体である(井上, 2003)。CS剤の名の由来は、アメリカの開発者Ben CorsonとRoger Staughtonの姓の頭文字から。普通、使用時は水溶液の状態にしたものを噴霧して散布する。皮膚や眼、粘膜等から侵入し、効果は速やかに現れる。皮膚や眼の灼熱感が顕著で、結膜は充血し、落涙を認め、鼻水が止まらなくなるが、持久性は低いとされる。多くの症例から、曝露後数分から数十分で回復し、予後はかなり明るいことが分かっているが、まれに重篤な皮膚障害を認めることもある。中等度の場合には、皮膚紅斑などを呈する。いずれも遅延性のもので、最長では数週間後に皮膚障害の現れた症例もあるようだ(※15)。
2.5 参考文献
・井上尚英 (2003). 化学兵器と生物兵器 種類・威力・防御法 中公新書
・化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bwc/cwc/jyoyaku/pdfs/05.pdf
外務省HP 2021/02/01現在(※14)
・小井土雄一・作田英成・鈴木澄男・中村勝美 (2020). CBRNE テロ・災害対処ポケットブック 診断と治療社
・ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版〈2011年度版〉
・フリー百科事典「Wikipedia」 ハーグ陸戦条約
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
2021/02/01現在(※13)
・フリー百科事典「Wikipedia」 クロロベンジリデンマロノニトリル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%AA%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%AB
2021/02/01現在(※15)
・フリー百科事典「Wikipedia」 タブン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%B3
2021/02/01現在(※16)
・フリー百科事典「Wikipedia」 ソマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%9E%E3%83%B3
2021/02/01現在(※17)
・フリー百科事典「Wikipedia」 サリン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3
2021/02/01現在(※18)
・フリー百科事典「Wikipedia」 VXガス
https://ja.wikipedia.org/wiki/VX%E3%82%AC%E3%82%B9
2021/02/01現在(※19)
第九論:Cに続きます。




