第九論:生物兵器と化学兵器の比較研究A
○「はじめに」
本研究は、長編『汚染少女』の「幕間研究」にて記述した内容を基盤として、大幅に改稿したものになります。なお、本研究は第1章・第2章・第3章の3部分より成ります。注釈は全体で通し番号を付し、それぞれの章末に添えます。参考文献についても、それぞれの章末に明記することとします。複数の章で重複して参考・引用する文献についても、その如何を問わず、各々章末に記すこととします。なお、例によって注釈が大きなウェートを占めているのはご愛嬌でよろしくお願い致します。
2020/02/23
No.09a
「生物兵器と化学兵器の比較研究」第1章
―生物兵器の優位性を中心に―
1 我が国を取り巻く世界情勢
1.1 テロ時代を生きるということ
近年、世界的にテロ活動等が活発化している現状がある。公安調査庁(※1)が公式発表する「国際テロ組織 世界のテロ組織などの概要・動向」によれば、近年その活動が注目される「テロリスト等非国家主体(1)」(以下、テロ組織等)は16組織、また今後もその動向を監視していくべき世界のテロ組織等はのべ220を数える。
1991年のソビエト連邦(2)の崩壊以降すなわち東西冷戦が、米国の生き残りという形で終焉を迎えて以降、国際社会はかえって不安定な状況に晒されることになった。この三十年間で世界は平和と安定を手にするどころか、恐ろしくも微妙なパワーバランスの世を生きることを余儀なくされた。すなわち、テロとの戦いの時代が幕開けたのである。
アジア圏をソ連が、欧米圏を米国が主導・統御することでかろうじて保たれていた世界の均衡が、ソ連を失ったことで米国一強の資本主義世界へと一気に転じたことは、一部の人々に混乱と恐怖を与えた。米国の「世界の警察」(3)の思想を良しとしない者たちの一部はテロ思想と結びつき、テロ組織等と急速に接近していった。確かに冷戦時代のまっただ中にあっては、いつ大戦争が起きるか、いつ大戦が勃発するかと銘々が銘々に疑心暗鬼に囚われてはいたが、結果論から言えば、米ソ大戦は生じなかった。ここで代理戦争(4)の経緯やその定義の話をしたいわけではないことは自明であろう。ここで問題としたいのは、冷戦体制の崩壊後あっという間に国際社会が米国の国色に染まってしまったということなのである。
このような不安定な国際情勢の中にあって、たとえば2015年のパリ同時多発テロ事案(5)は記憶に新しい。死者130名、負傷者約350名を生んだこの痛ましい事件を画策したのは「イスラム国」(ISIL: The Islamic State of Iraq and the Levant)(6)であり、後に「イラク・レバントのイスラム国フランス」という名義で犯行声明が発出された。さらに遡れば、2001年の米国同時多発テロ事案(7)、いわゆる「9.11事件」は死者3000名にも上る21世紀最悪の大規模テロの一つで、後に「アルカイダ」(Al-Qaeda)(8)による犯行声明が発出されている。
公安調査庁(※2)の調べでは、直近の4年間すなわち2016年以降の欧米各国のテロ等発生状況は、フランス13件、米国7件、英国6件、ドイツ5件であり、またロシアでは9件のテロ事案が発生している。我が国におけるテロ事案は近年、報告されてはいないものの、1994年の松本サリン事案(9)、翌1995年の地下鉄サリン事案(10)は戦後最も凶悪なテロ事案として、今なお日本国民の心に残した傷跡は計り知れない。
このような不安定な国際情勢の渦中にあっては、しっかりとテロ等の危険性を認識し、またテロは常に起こりうるのだということをいつも頭の片隅に置いて都市生活を営むことが肝心肝要である。このことは先進国・発展途上国を問わず、いかなる国にも言えることであり、勿論我が国においてもそれは同様である。
1.2 問題提起
ところで、国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部が2004(平成16)年度に策定した「テロの未然防止に関する行動計画」(※4)の中には、次のような記述がある。
国際テロをめぐる情勢は、依然として厳しく、その我が国への脅威は決して過小評価してはならず、テロの未然防止対策は今後も、不断の見直しが行われなければならない(第1)。2004(平成16)年5月には、ICPO(国際刑事警察機構)(11)を通じて国際手配されていたアルカイダ関係者であるフランス国籍のリオネル・デュモンが、偽造旅券を用いて我が国への出入国を繰り返していたことが明らかになった(第3, 1, ④)。
およそ15年前に策定された上述の内容を踏まえ、また近年のISIL等の活発な活動現在もなお、我が国内に複数のテロ関係者が入国・移動・居住・潜伏していても何らおかしくはなく、防衛省等が懸念するように、今後我が国において非国家主体が何らかのテロ活動、またそれに伴う工作活動等を実行する可能性は十分想定されうる。
これまで、いわゆるテロ等活動と言えば武器等を用いた破壊活動・殺傷行為といったイメージが強かった。実際、テロ等事案のほとんど多くは、やはり銃火器や爆発物などを用いた物理攻撃的な手段であるし、国連等が取り組むテロ組織等の封じ込め作戦も、その主なものとして想定されているものには(緊急性を帯びた強襲・奇襲攻撃の場合を除いて)、武器供給網の遮断・物資購入のための資金流入の阻止などといった物理的な妨害工作が多い。しかし近年、その使用が強く懸念されている攻撃手段として、防衛省(2019)は「生物・化学兵器」や「核物質・放射性物質兵器」を明記している。これらはNBC兵器(Nuclear, Biological, Chemical)と総称される兵器で、その特異性・特殊性から、従来の銃火器等を用いたいわゆる破壊攻撃型のテロ活動とは、その様相を異にしているといえる。
東西冷戦体制の崩壊以降、旧ソ連の軍事兵器研究者・開発関係者が中東地域を中心とした諸外国へ逃亡ないし亡命し、核開発技術や生物・化学兵器の開発技術が当該地域を含む国際世界に急速に拡散した、という防衛白書(2019)の記述に一定の妥当性を見出すならば、今後我が国が直面しうるテロ事案において、これらNBC兵器が使用される可能性は完全には棄却できない。加えて、これらNBC兵器は重量の銃火器と比較すれば非常に軽量で、わずかな量でも容易に対人殺傷を完遂できうる。このような点を鑑みた時、テロ組織等が銃火器と並ぶ代替兵器としてこれらNBC兵器を利活用したとしても何ら疑問はない。
ISILやアルカイダなどのテロ組織等は、正規の戦闘員ではない準戦闘員や当該組織等を支持する者たちに向けて、各自の機関誌などを通じてナイフ・車両、また身近に存在する材料で簡単に製作可能な爆弾などを用いたテロの手法を具体的に紹介・説明し、テロ実行を繰り返し呼びかけている、といった実態がある。ソーシャルメディアやSNSなどを通してテロリズムに感化された一部の人々の中には、外国人戦闘員としてテロ組織等の活動に従事する者も多くあるが、一方で懸念されているのは、当該人物が居住国でテロを実行するという、いわゆる「ホーム・グロウン」型テロの脅威である。また、「ローン・ウルフ」型テロと称される、テロ組織等との正式な関係は認められないものの、何らかの形でテロ組織の影響を受けた個人または団体が、単独または少人数で計画及び実行したテロ事案も報告されている(12)(防衛省, 2019)。
「ローン・ウルフ」型テロの特徴は、刃物、車両、銃といった個人でも比較的入手しやすいものが利用されることや、事前の兆候の把握や未然防止が困難であることが指摘されているところであるが(防衛省, 2019)、このような新しいテロにおいてNBC兵器が利用される可能性は十分念頭に置かなければならない事柄であろう。
政府は2001(平成13)年11月の閣議決定(※8)で「生物化学テロ対処政府基本方針」(13)を策定したが、しかし生物・化学兵器への警戒及び対応確認等には、不断の見直しが今後も継続的に必要であるものと考える。
そこで、本研究においては、NBC兵器の中の生物兵器及び化学兵器に焦点を絞って、その重大性・危険性に関する論を展開していきたい。とりわけ生物兵器に関しては、本研究の大半の紙面を割いて論じたいと考える。というのは、生物兵器の持つ特徴を鑑みてのことである。生物兵器は他の2つの兵器(化学兵器・核兵器)と比べてみた時、①「感染性(伝染性)があること」、②「宿主の体内で増殖可能であること」、暴露から発症の間には③「固有の潜伏期間が存在すること」、またそれに伴って生ずる④「心理攻撃性が高いということ」が指摘できると考える。
また、今回このような「生物兵器」をテーマとした評論を執筆した経緯の背景には、折しも、先般、具体的にはここ2、3ヶ月、世情を賑わせている中国・武漢の「新型コロナウィルス」(14)の存在が大変大きい。電子空間上で真しやかに囁かれている武漢病毒研究所(15)からの伝染性物質暴露説にほとんど確たる証拠はなく、十分な立証力もなく、何らの信憑性はないにしても、当該研究所で「レベル4」クラス(15)の細菌・ウィルスの研究が取り組まれていることに相違はない。
このような情勢も含めて、今回、このような趣旨の評論を示し、以て「生物兵器」等の驚異性・危険性を広く世情一般に広報していきたい。
1.3 注釈
(1) 非国家主体(non-state actors)の定義づけは大変難しく、たとえば国家間政府組織である「国連」などもこの非国家主体に内包されてしまう。この用語は使用する論者によって様々な意味を持ちうる。そこで、本研究において「非国家主体」とは、「他国や国際社会からの承認を受けていない非国家または民間組織等で、武力の行使または行使の威嚇を当該組織の目標達成のための重要な手段として用いている武装した主体」であると定義することとする。なお、定義づけには次の文献を参考としたので適宜、参照されよ。
・長谷川晋 (2017). 非国家主体研究から見た紛争解決学と安全保障学の接点 関西外国語大学 研究論集, 106, 99-118
(2) ソビエト連邦(ソヴィエト連邦)の正式名称は、「ソビエト社会主義共和国連邦」(Union of Soviet Socialist Republics)で、成立は1922年。1917年のロシア革命を経て、15共和国による政治連合体の形態を為すも、やがて実態としては極度に中央集権化し、「ソビエト共産党」による強烈な一党独裁体制を確立していった。社会主義国家としては世界最初の国で、ヨーロッパ東部とアジア北部にまたがる、全陸地面積6分の1を有する広大な領土を誇った。ブリタニカ国際大百科事典(電子版)には次のようにある。「首都はモスクワ。広大な国土と豊かな天然資源を利用して、社会主義計画経済体制のもとに経済発展に努めた結果、種々の欠陥をかかえながらもアメリカ合衆国に次ぐ世界第2の工業生産国に成長した。しかし91年12月に連邦は事実上崩壊し、〈独立国家共同体〉(CIS)がその地位を引き継いだが、国際法や外交といった具体的な問題に対してはロシア連邦が代表する形となった。」とある。また、「ソビエト」とはロシア語で、「会議」・「評議会」などの意味を有していたが、ロシア革命後はプロレタリア独裁の権力機関、及びその権力形態を指すようになった。
(3) アメリカは、様々な歴史的変動の中にあっても、今なお世界屈指の大国としての地位を維持している。いかなる立場、いかなる視点に立つ人であっても、この主張に異論を挟む余地はないものと思われる。「世界の警察」あるいは「世界の警察官」といった言葉の背後にあるスタンスとは、「我々が世界の諸問題、各国同士の安全保障上の課題等を解決、仲裁、抑制・抑止していく(していかなければならない)」といったもので、これは、第1次世界大戦後に「国際連盟」構想を提唱した第28代ウィルソン大統領、ニューディール政策や第2次大戦時の連合国指導、国際連合の基礎構築に尽力した第32代フランクリン・ルーズベルト大統領などを経て、アメリカ文化・アメリカ国民の心性の中に根付いていったものと認識されている。しかし、初の黒人大統領(アフリカ系アメリカ人大統領)として活躍した第44代オバマ大統領は軍縮を掲げる中で、「世界の警察」を退く(退いていく)ことを匂わす発言をした。具体的には、世界各地の同盟国内に駐屯させている駐留米軍を計画的に縮小または撤退させていくといった内容であった。
(4) 国際法上認められた、いわゆる主権国家と他の国家との間に生ずる争いを武力によって解決させようとする全行為を「戦争」と呼ぶ。また、当該国家が自己の目的を達成するために取り組む、兵力を用いた闘争を「戦争」と呼ぶ。あるいはより広義には、国家に限定せず、民族、組織、政党、政治的共同体などの間に生ずる武力闘争をも指すこともある。ここでいう「代理戦争」とは、いわゆる国家間の直接的な戦争行為を「直接戦争」とでも称したときに対となって生まれ出る、非当事者間の「戦争」に準ずる行為をいうのである。すなわち米ソの朝鮮戦争(1950-1953)、ベトナム戦争(1964-1973)などの類い。ここで両戦争の経緯や戦況結果を記述するといった不毛なことは致さない。1000字、2000字では到底事足らないばかりではなく、その戦争の過激さと近現代戦の悲惨さを述べるのは憚られたためである。ところで、「代理戦争」という言葉の中には、一部に批判的な語感を持つ。それは冷戦体制下の米ソが、もしも直接に全面戦争に至ったならば起こりうる人類滅亡の危険性を鑑みて、自国中心的な立場のもと、一見、直接的には関わりのなさそうな国・地域を介して戦争を行ったことによる。確かに朝鮮戦争もベトナム戦争も、その地域における緊張状態が極限に達し、ついに武力闘争という形で顕在化したという背景があったにしても、それを背後から支援し、これらを支えた存在に米国・ソ連があったことは事実である。
(5) 2015年11月13日、フランス・パリ市街及び郊外において発生した一連の同時多発テロ事案のこと。ISILの戦闘員と見られる複数のグループによる銃撃及び爆発が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者は300名を数えた(※2)。
(6) 独自のイスラム法解釈に基づくカリフ制国家の建設やスンニ派教徒の保護などを組織目標として掲げる武装集団(防衛省, 2019)。2014年6月、指導者バグダディを「カリフ」(アラビア語で後継者を意味し、預言者ムハンマド没後、イスラム圏を率いる者に対して用いられた名称)として「イスラム国」を一方的に樹立させ、整備された組織機構や独自通貨の発行などを通じてイラク・シリアに及ぶ領域を事実上支配した(防衛省, 2019)。ISILの政治的思想は先述した通り、イスラム法の独自解釈に基づいており、あくまで自らは一個の国家として振る舞う。すなわち事実上支配下にある地域を「州」などと称し、幹部クラスの組織構成員は「大臣」や「官僚」などの役職を有する。また、ISILは広報・宣伝活動を効果的に行い、とりわけサイバー空間における広報活動は顕著で、その巧みな取り組みの結果、多数の「外国人戦闘員」等がイラク・シリア両国に移住したという。防衛省(2019)は、その移住者は4万人以上にのぼるとの指摘がなされてある旨を言及している。以下、防衛白書(2019)からの引用を示す。「14(平成26)年以降のISILの台頭を受けてイラク、シリアに流入する外国人戦闘員の数は、その後のISILの勢力が縮小するにつれて減少しつつあるとみられる。一方、こうした戦闘員が両国で戦闘訓練や実戦経験を積んだ後、本国に帰国してテロを実行する懸念は引き続き存在する。17(平成29)年10月時点で、イラク、シリアから少なくとも5600人の外国人戦闘員が帰国したとされており、欧州では、15(平成27)年11月にパリで発生した同時多発テロや、16(平成28)年3月にベルギーで発生した連続爆破テロのように、シリアでの戦闘に参加したISILの戦闘員が関与したとみられるテロが発生した。」(防衛省, ※3)
(7) 2001(平成13)年9月11日、国際テロ組織「アルカイダ」が、米国ニューヨークの世界貿易センタービル2棟に、ハイジャックした米国旅客機2機を突入させたほか、1機を首都ワシントン郊外の国防総省の庁舎に突入させた。また、更に1機はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落し、邦人24人を含む3000人が死亡した(公安調査庁, ※5)。この事案を受けて、米国は同月、「アルカイダ」の指導者オサマ・ビンラディンが関与していることを公表し、同年10月には、ビンラディンを保護下に置いているとして、当時アフガニスタンを実効支配していたタリバン政権に対して軍事行動に出る構えを示した。2011(平成23)年5月、米国の作戦でオサマ・ビンラディンは殺害された。なお、その後継にはアイマン・アル・ザワヒリが就いた(警察庁, ※6)。
(8) 前指導者ウサマ・ビン・ラディンが築いた国際テロ支援組織。アルカイダとはアラビア語で拠点を意味し、その名の通り、世界中のイスラムテロ組織と密接な連絡・連携を取ってこれらを支援することを主たる目的とする。ここでウサマ・ビン・ラディンを前指導者と記述したのには、彼がアメリカ軍の作戦によって殺害されたことを踏まえてのことである。ほか多くの幹部が米国主導の諸作戦によって殺害されたが、しかしながら北アフリカや中東などでは依然として活発な支援活動を継続してさせており、各地のテロ組織等の中枢組織としての機能を果たしていることに変わりはないものと考えられている(防衛省, 2019)。また、現指導者ザワヒリは欧米へのテロを呼びかける声明を繰り返し発出するなど、なお警戒の必要な危険組織の一つである。防衛白書(2019)は、今後も警戒の必要なアルカイダ系テロ組織として、「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)、「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)、「アル・シャバーブ」など三組織を挙げている。
(9) 1994(平成6)年6月27日、「オウム真理教」(以下、教団と呼ぶ)の教団幹部らが、猛毒の神経ガス剤サリンを用いて裁判所職員宿舎を襲撃した事案。風上から自作・改造したサリン噴霧車両を使い、同施設へ向けてサリンを散布。サリン中毒によって住民ら8名が死亡、140名が中毒症状を訴えた。事の発端は1991年、教団が長野県松本市に新規の教団施設建設計画を企画したことに由来し、地元住民からの激しい反対意見から法廷闘争にまで発展した。事件画策の直接のきっかけは裁判所が、施設規模の制限・縮小などの教団に不利な命令を下したことで、教祖・創始者である麻原彰晃こと松本智津夫を含む教団幹部らは裁判所に対する激しい敵意を抱いていたことが分かっている(※9)。なお、以下、「サリン」について若干の補足説明を行いたい。ただし、今後の本文の論展開を考慮して、ここでは概説に留める。「サリン」とは、神経剤の一種である。化学兵器の中で最も毒性が強く、液体・気体の状態を問わず有害で、曝露後数分以内に死亡する事例がある(井上, 2003)。「サリン」は他の神経剤と比べてかなり揮発しやすく、呼吸器からの吸入は勿論、体表面からも容易に侵入する。軽症では意識ははっきりいて歩行可能であるが、鼻水、目の前が暗い、息苦しいなど、重くなるにつれ筋力低下、歩行困難、意識レベルの低下が生じ、重症では高度の意識障害、呼吸困難、著しい瞳孔の縮小、頻回な痙攣発作などの後、呼吸停止・心停止をきたす。体内の解毒性は緩やかで残留しやすく、従って一分一秒を争って医療機関を受診すべきなのである。早急な心肺蘇生術によって一命を取り留めたとしても、まれに意識障害が残る場合がある。蘇生した場合、通常は24時間以内には意識を回復する事例が多いようである(井上, 2003)。
(10) 1995(平成7)年3月20日朝、「オウム真理教」(以下、教団と呼ぶ)は教祖・創始者である麻原彰晃こと松本智津夫の指示のもと、一般市民に対し、猛毒の神経ガスであるサリンを使用して無差別殺人を行った。具体的には、東京・霞ヶ関駅を通過する3つの地下鉄路線(当時の帝都高速度交通営団の日比谷線・丸ノ内線・千代田線)を走る5つの車両に対し、猛毒の化学剤を散布するに及んだ。はじめ視覚異常、めまいなどの症状を呈し、ついで呼吸困難に陥り、死に至る。最終的な死者13名、負傷者は5800名以上にのぼり、戦後最悪の化学兵器テロ事案として認識されている。また、本事案において特徴的なのは、「松本サリン事案」と同様に、単なる一教団が極めて重篤な症状を引き起こしうる猛毒の化学兵器を製造し得たという事実にある。同日、警視庁は使用されたガス剤をサリンと断定、陸上自衛隊は除染のため「化学武器防護隊」を出動させた。同月22日、警視庁は事件を教団の組織的犯行と見て、山梨県上九一色村の教団施設を強制捜査。大量の化学薬品その他を押収し、同年5月16日に松本智津夫を逮捕した。この後、公安審査委員会は「無差別大量殺人を行った団体の規制に関する法律」(団体規制法)に基づいて、教団に対し「観察処分」を下し、公安調査庁がこれを適正かつ厳格に実施できるよう、教団の活動実態を明らかにし、以て国民の生活の平穏を含む公共の安全を確保できるよう活動を続けている(※9)。
(11) 警察庁の公式HPには、「警察庁について 警察庁の概要 ICPO-Interpol(国際刑事警察機構)」の中で、「国際刑事警察機構(INTERNATIONAL CRIMINAL POLICE ORGANIZATION-INTERPOL)とは各国の国内法の範囲内で、かつ、世界人権宣言の精神に基づき、すべての刑事警察間における最大限の相互協力を確保し、及び推進することを目的として
設立(1956年~)された国際組織で、その主な活動としては、①国際犯罪及び国際犯罪者に関する情報の収集と交換、②犯罪対策のための国際会議の開催、③逃亡犯罪人の所在発見と国際手配書の発行、④加盟国の捜査能力向上のためのトレーニングの計画及び実施である」といった内容の記述がある(※7)。
(12) 防衛白書(2019)において報告されている事案は次の通り。2018(平成30)年8月の、英国ロンドンの国会議事堂前で車両が歩行者に突入した事案、同年11月の、豪州メルボルンにおいて通行人がナイフで襲撃された事案、同年12月の、フランス東部で開催されていたクリスマス・マーケットにおいて発生した銃乱射事案。これらの事案はいずれも、国際テロ組織等との関係性は認められていない。
(13) 2001(平成13)年に閣議決定された、生物化学テロへの対処に向けた政府の基本方針に関する5項目のことで、すなわち以下の5点である。
①「感染症対策、ワクチン準備等保健医療体制の強化」、
②「保健医療他関係機関間の連携、発生時対処等の強化」、
③「生物剤、化学剤の管理とテロ防止のための警戒・警備の強化」、
④「警察、自衛隊、消防、海保等関係機関の対処能力の強化」、
⑤「国民に対処する正確で時宜を得た情報の提供」。
これについて、11月15日付で発表されたのが「生物化学テロへの対処について」で、政府の対処状況等が概説された。
(14) 国立感染症研究所(※10)によれば、コロナウィルスはヒトに蔓延している、いわゆる風邪のウィルス4種類と、動物からヒトへと感染する重症肺炎ウィルスの2種類が報告されているらしい。
①「風邪のコロナウィルス」は、往々にして風邪の原因の10~15%を占め、流行期では35%程度を占めることもある、ごく一般的なウィルスである。他方、重症化しうる②「重症急性呼吸器症候群コロナウィルス」(SARS-CoV)および③「中東呼吸器症候群コロナウィルス」(MERS-CoV)については、その危険性からこれまでも度々、各種メディアで報道されてきた経緯がある。
②「SARS-CoV」はコウモリを宿主とするコロナウィルスがヒトへと感染し、一部重症患者が重篤な肺炎を引き起こすようになったと考えられている。2002年に中国・広東省で発生し、2002年11月から2003年7月の間に30以上の国と地域で感染の拡大が認められた。世界保健機関(WHO)によれば、疑い例を含めた当該患者数は8069人、うち775人が重症肺炎で死亡するに至った。致命率は9.6%である。ヒトからヒトへは咳や飛沫を介して感染し、従って空気感染は報告されていない。死亡症例の多くは高齢者や心臓病、糖尿病などの基礎疾患を前もって患っていた人たちで、小児にはほとんど感染例がなく、感染した小児も軽症の呼吸器症状を呈するのみであったようだ。
③「MERS-CoV」はヒトコブラクダに風邪症状を引き起こすウィルスであるが、種の壁を超えてヒトに感染すると重症肺炎を引き起こすと考えられている。最初の感染者は2012年、サウジアラビアで確認された。2019年11月30日時点で、これまでに27カ国で2494人の感染者がWHOへ報告され、そのうち858人が死亡した。致命率は34.4%である。重症化した症例の多くが高齢者か、予め基礎疾患を持つ者たちで、具体的には糖尿病、慢性の心・肺・腎疾患を患う者たちであった。疫学的調査の結果、サウジの人々のうち、0.15%がMERS抗体を保有していることが分かった。そのため、不顕性感染によって自覚症状がないか、あるいはあっても一般の風邪程度の認識でしかなく、従って感染が予想以上に拡大した可能性がある。15歳以下の小児症例は全体の2%程度であるが、その多くは不顕性感染か軽症例であった。
近頃、巷では、新型コロナウィルスに関する話題が飛び交っている。各種メディアでも中国・武漢市の様子や世界各国の概況、また停泊中のクルーズ船を巡る厚生労働省等の対応について、こぞって自由活発な討論がなされているところである。しかし、メディアの役割と意義とは何かを鑑みたとき、世情を煽り、世論を恐れ戦かせることを楽しむことが果たして真に正当なるそれの姿か、という疑問が浮上してこないでもない。読者諸氏におかれては、どうぞ真に信ずるにたる情報源の確保と、それに基づいた適切な判断・対応及び行動を取って頂くようご留意願いたい。パンデミックの際、何より恐ろしいことは、人々の混乱、発狂と行動の予測不能性である。1.4「参考文献」に2月19日時点での厚生労働省の認識等をまとめた公式HPのURLを添付するので参照されたい(※11)。
(15) 正式名称:中国科学院武漢病毒研究所(日本語名称:中国科学院武漢ウィルス研究所)は1956年設立の中国最高クラスの感染症研究施設である。ここで、本研究所が新型コロナウィルスを漏洩させたとか、実験動物が武漢市内の市場で公然と販売されていたとかいったありがちな陰謀説を唱えて、陰謀論者を喜ばせたい訳では決してない。しかし、本研究所がWHOの定める「バイオセーフティレベル」(BSL)(※12)のガイドラインに基づいたレベル4の研究・実験施設であることは確かな事実であって、陰謀論者が主張するように、本研究所内において何らかの生物学的災害事案が発生し、またそれの封じ込めに失敗した、という可能性を完全には棄却できない(のかもしれない)。本研究所の主たる研究内容は、「感染症学」・「ウィルス学」・「土壌環境学」・「植物感染症学」などであるらしい。
(16) WHOは2004年、「実験室バイオセーフティ指標」を作成して、WHO加盟国への周知徹底を勧告した。2003~2004年のシンガポール、台北、北京での実験室内SARS-CoV感染事象が各国経済・国際社会にもたらした影響は計り知れず、世論の生命科学領域への関心は、関係する科学界や国の規制当局による見直しをも促進したという点が重要である(WHO, 2006)。技術が進歩し、高度な実験機器や有効な技術、個人保護具が利用できるようになっているにもかかわらず、事故発生の最重要要因の一つは依然として人為的ミスである(WHO, 2006)。「実験施設バイオセキュリティガイダンス」(2006)によれば、「実験室内感染、材料の紛失や不適切な取扱い、あるいは意図的と思われる不正行為といったもの」がその最たる要因で、これらの「発生の根源には、集中力不足、責任の否定、管理責任の不適切さ、不完全な記録保管、不十分な施設設備、倫理事項の無視、行動規範の欠如(行動規範尊重の欠如)などがある」といった指摘がなされている。勿論、生物学的な実験・研究に従事する者は、十分な責任感と規範意識を持ち、適切かつ安全に業務を遂行し、材料等の確実かつ安全な保持・破棄などの管理を徹底していると思われるし、無論、その通りであるのだろう。適切かつ安全な生物学的実験及び研究等の確保のため、WHOは「実験室バイオセーフティ指標」(※12)で「バイオセーフティレベル」(BSL: Biosafety Level)を示し、ウィルス・微生物等を分類・区分し、そのレベルに応じて各実験室の安全性を確保するよう推奨している。実験施設等は、「基本実験室」、「封じ込め実験室」、「高度封じ込め実験室」の何れかに分類される。以下、「実験室バイオセーフティ指標」(※12)に示されている「感染性微生物のリスク群分類」より引用する。
・リスク群1 (個体および地域社会へのリスクは無い、ないし低い)
ヒトや動物に疾患を起す可能性の無い微生物。
・リスク群2 (個体へのリスクが中等度、地域社会へのリスクは低い)
ヒトや動物に疾患を起す可能性はあるが実験室職員、地域社会、家畜、環境にとって重大な災害となる可能性のない病原体。実験室での曝露は、重篤な感染を起す可能性はあるが、有効な治療法や予防法が利用でき、感染が拡散するリスクは限られる。
・リスク群3 (個体へのリスクが高い、地域社会へのリスクは低い)
通常、ヒトや動物に重篤な疾患を起すが、通常の条件下では感染は個体から他の個体への拡散は起こらない病原体。有効な治療法や予防法が利用できる。
・リスク群4 (個体および地域社会へのリスクが高い)
通常、ヒトや動物に重篤な疾患を起し、感染した個体から他の個体に、直接または間接的に容易に伝播され得る病原体。通常、有効な治療法や予防法が利用できない。
1.4 参考文献
・警察庁 警察白書(平成28年度版)
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h28/pdf/pdf/03_tokusyu.pdf
2020/02/19現在(※6)
・警察庁 警察庁の概要 国際刑事警察機構
https://www.npa.go.jp/interpol/chapter1.html
2020/02/19現在(※7)
・公安調査庁 国際テロ組織 世界のテロ組織などの概要・動向
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/index.html
2020/02/19現在(※1)
・公安調査庁 世界のテロ等発生状況
http://www.moj.go.jp/psia/terrorism/index.html
2020/02/19現在(※2)
・公安調査庁 主な邦人被害テロ事件
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/topic/Japanese_suffer.html
2020/02/19現在(※5)
・公安調査庁 公表資料 オウム真理教
http://www.moj.go.jp/psia/aum-24nen.html
2020/02/19現在(※9)
・厚生労働省 新型コロナウイルスに関するQ&A
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html
2020/02/19現在(※11)
・国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部 (2004). テロの未然防止に関する行動計画
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sosikihanzai/kettei/041210kettei.pdf
2020/02/19現在(※4)
・国立感染症研究所 コロナウィルスとは
https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/9303-coronavirus.html
2020/02/19現在(※10)
・内閣官房 生物化学テロ対処政府基本方針(平成13年11月8日 閣議決定)
http://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2001/1108nbc.html
2020/02/19現在(※8)
・内閣官房 生物化学テロへの対処について(平成13年11月15日)
https://www.kantei.go.jp/jp/kakugikettei/2001/1115nbctaisyo.html
2020/02/19現在
・ブリタニカ国際大百科事典小項目電子辞書版〈2011年度版〉
・防衛省 (2019). 防衛白書(令和元年度版)
https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2019/pdf/index.html
2020/02/19現在
・防衛省 (2019). 防衛白書(令和元年度版) p190
https://www.mod.go.jp/j/publication/wp/wp2019/pdf/index.html
2020/02/19現在(※3)
・バイオメディカルサイエンス研究会 (2004). 実験室バイオセーフティ指標 WHO第3版
https://www.who.int/csr/resources/publications/biosafety/Biosafety3_j.pdf
2020/02/19現在(※12)
・世界保健機関(WHO) (2006). バイオリスクマネジメント 実験施設バイオセキュリティガイダンス (日本語版 翻訳・監修 国立感染症研究所) P1, P2
https://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/69390/WHO_CDS_EPR_2006.6_jpn.pdf;sequence=2
2020/02/19現在
B「第二章」に続きます。