第1章 九段坂千尋
とても静かな事務所。
かつてのような慌ただしさもなく、夢を語りあった机なども何もない事務所。
殺風景な事務所の中を見渡していると、背中越しに声をかけられた。
「ねぇ、修二」
「…何ですか?」
「今度はさ、逃げ出したりなんかしたら…ダメだからね」
「……!?」
どういう意味かを聞こうとした俺だったが、俺の背中に、結衣の背中がピッタリとくっついた事に驚いてしまい、声を出せずにいた。
背中合わせになりながら、結衣は続ける。
「みんな、みんな傷ついた。もう充分ってぐらい傷ついた。そうでしょ?」
「……そうですね」
「だからさ、今度は治す番。みんなでさ、治していこうよ。それが…さ」
「家族ってヤツだろ。ありがとな。結衣」
傷っていうものは、いつか勝手に治るものと、誰かに治してもらわないと治らない傷の、二種類しかないと思っている。
一生消えない傷などない。いや、一生消えない傷などないと願っていると言い直そう。
寿命が後40年あったとして、40年間も傷つきっぱなしなんて、真っ平ゴメンだ。
一生消えない傷は、確かに存在するのだろう。
だがしかしだ。
少しずつ、少しずつその傷を治していけば、いつかは消えてなくなるのではないだろうか?
大から中へ。
中から小へ。
そう思っていないと、この世界では生きていけないのではないだろうか。
「修二。お金の事を考えるよりも先に、やっておくべき事がアンタにはある。違う?」
「…あぁ。本当に悪かった」
「私はいい。出来の悪い後輩だって、分かっているから」
全くその通りだ。
返す言葉が見つからない。
だけどきっと、橋本結衣は言葉を欲しがっていないと思う。
言葉では言い表せないものが、この世界には確かにある。
そしてそれこそが、橋本結衣が求めているものなのだろう。
「千尋は…社長室か?」
事務所の右奥にある"社長室"と、書かれたドアを見ながら俺は尋ねた。
「…えぇ。行くわよ」
言い表せないもの、結衣が求めているものとは何なのか?
問題にもならない問題だ。
答えは『態度』である。
ーーーーーーーーーー
社長室のドアを数回ノックする。
「どうぞー」
「失礼します」
千尋から入室の許可が出たところで、結衣から部屋に入っていく。
小さく深呼吸をした所で、失礼しますと言いながら、俺も部屋に入った。
「あっ!シュウ君。久しぶりだね」
「…あぁ。久しぶり」
部屋に入った俺を、千尋はいつも通り出迎えてくれた。いや、いつも通りを装ってが正しい。
「…結衣。悪いんだが、千尋と二人で話したい」
「分かった。終わったら、声かけて」
何故?と、結衣は聞かなかった。もしも聞かれたとしても俺は、絶対にその理由を言わなかったが…。
結衣が社長室を出て行ったのを確認した俺は、再び千尋に話しかけた。
「…痩せたんじゃないか?」
「ふふふ。ダイエットは、女性の必須スキルだよ」
嬉しそうに笑う千尋を見て、罪悪感が増していく。もともと痩せている千尋が、更に痩せている姿を見て、罪悪感が生まれないはずがない。
「…千尋」
「ん?何?」
「…大丈夫か?」
「ん?大丈夫かって、何の話し?」
千尋とは、長い付き合いだ。
千尋が知らないフリ、分からないフリをする時は、触れて欲しくない話しだということを、俺は誰よりも知っている。
それでもだ。
相手が嫌がっているということを、理解したうえで、再び尋ねた。
「お前とは長い付き合いだ。千尋が無理をしているって事ぐらい、見ればわか……る!?」
バン!!バサバサバサ、と、千尋の机に置いてあった書類が宙を舞う。
机の上にあった書類を投げつけてきた千尋は、うつむきながら口を開いた。
「大丈夫か、ですって?大丈夫なわけないじゃない!!!」
ガタッと椅子をひき、バン!っと、机を叩きながら千尋は続ける。
「痩せたな、ですって?当たり前じゃない!雪が死んで、修二が引きこもって、えっ何?二人の事なんか考える事もなく、食べて食べて食べて食べて、プクプク太るような薄情なヤツだとでも思ってんの?ねぇ?私を何だと思っているのよ!!」
ツカツカと、こちらに向かって歩き出す千尋を、俺は無言で見続けていた。
先ほど千尋が投げた書類を踏み付けながら、千尋は俺の前にやって来た。
「色んな人に迷惑をかけて、色んな人に無能だって言われて、これで大丈夫なハズがない!!だ、大丈夫なハズ…ないよ」
ポロポロと両目からこぼれる涙を見て、罪悪感が更に増していく。
「ど…うして。ねぇ、どうして私を一人にしたのよ!どうして、ねぇ?答えてよ」
ドン、ドン、と、俺の胸を叩きながら、千尋は尋ね続けた。
叩かれる度、千尋が涙を流す度に、胸が苦しくなる。
この間までの俺は、誰かに罵声を浴びせて欲しいと強く願っていた。罵って欲しいと、お前の責任だと言って欲しいと、強く、強く望んでいた。
だがしかしだ。
俺が望んでいた形は、きっとこうではなかったハズだ。
千尋に答える事が出来ず、俺は終始無言だった。
千尋は、我がサクラプロダクションの社長である。
少ない従業員かもしれないが、千尋は皆んなの人生に深く関わる覚悟を持っていた。
決して、大袈裟な話しではない。
人によっては子供がいる家庭もいれば、両親の面倒をみながら働いている家庭もある。
仕事を失わないように、皆んなに給料やボーナスが払えるように、皆んなが幸せに暮らしていけるようにと、日々考えている少女。
それが、九段坂千尋である。
「…もう、もう、疲れたよ」
張り詰めていた糸がプツンと切れたのか、両膝から崩れ落ちてしまった千尋。それを見た俺は、慌てて抱きしめた。
千尋がどれだけ大変だったかを、どれだけ傷つきながら戦っていたのかを、俺は知らない。
一年間。一年間だ。
千尋に全ての責任を押し付けて、俺が引きこもった期間…馬鹿か俺は!
雪の母親と同じだ。
全ての責任を千尋に押し付ける事によって、俺は救われたかったのだ。
その結果がコレか?死ねよ修二!!
ずっと千尋は、我慢していたのだろう。
弱い自分を見せる事を、躊躇っていたのだろう。
そんな千尋を見て、謝る…そうじゃない。
「…大丈夫。大丈夫だ千尋」
「大丈夫なんかじゃない!修二は何も分かっていない!」
「あぁ。けど、大丈夫だ。大丈夫」
「嘘つき!私を置いて逃げた…薄情者!!」
「あぁ。けど、俺は帰ってきた。だから、大丈夫だ。大丈夫」
千尋が欲しい言葉は、謝罪の言葉なんかではないと思う。彼女はつい最近までの俺と一緒だ。
九段坂千尋という人間が、考えか方が、価値観が、生き方が、間違っていたのかと悩んでいるに違いない。
そんな人間に、ごめんなさいだ?そうじゃない。そうじゃないハズだ。
どれぐらい千尋が泣いていたのか分からない。ヒステリック気味に泣く千尋を見て、自分の愚かしさをずっと噛み締めていた。
「…私の両手から、色んな物がこぼれちゃった」
「こぼれたなら拾えばいい。拾いきれないなら手伝ってやる」
「…色んな物を失っちゃった」
「失くしたなら探せばいい。なんなら俺が見つけて来てやる」
「…皆んな、皆んな、居なくなった」
「…俺はここに居る。結衣もいる。お前は一人なんかじゃない」
「本当?も、もう…何処にもいかない?」
「あぁ、約束する。俺はずっとお前の側にいる」
もしもの話しだ。
コレは神さまが決めた運命なのだとすれば、一体何が目的だというのだろうか。
「…私の夢。まだ、終わりじゃない?」
「あぁ。お前の夢はなんだった?」
「…家族が欲しい」
「そんな大切な夢を、ここで終わらせるのか?」
そう尋ねると、彼女は首を左右に振った。
「お前の夢は叶うさ。なんなら、俺が叶えてやる。だからさ、千尋。今だけ、今だけだ」
これまでずっと我慢していた千尋は、大粒の涙を流しながら、大きな声で泣いた。
なぁ、雪。
見ているか?
聞こえているか?
噛み締めているか?
千尋の頭を撫でながら、自分の胸元を貸していた俺はというと、終始無言のまま、ずっと天井を見上げていた。




