第1章 サクラプロダクション
日付けが変わり、今日は千尋に会いに行く日である。一昨日電話をした際に、今日にしてもらったのには、いくつか理由がある。
まずは、部屋の掃除。
次に1年間、伸ばし続けた髪と髭をさっぱりさせる事だ。
そして、新しく買ったスーツを着ながら、洗面台で顔を洗う。
決して、心の準備がほしかったなどではない。
いや、本当だよ?
久しぶりに身につけた七つ道具の一つ、腕時計を見ながら、再度、気合いを入れ直す。
「じゃ。行ってきます」
答えが返ってくる事などない。
独身で彼女もいない、一人身なのだから、当然だろ?それでもだ。
新たな一歩はやはり、行ってきますではないだろうか。
ーーーーーーーーーー
千尋が居るというより、俺が務めている会社は、秋葉原にあるビルである。
車で行くか迷ったが、今日は電車にした。
『次は、りの帝国〜次は、りの帝国…』
そんな場内アナウンスを聞きながら、千尋に話す内容を頭の中でまとめるのであった。
ーーーーーーーーーー
駅から歩いて僅か15分の所に、我が芸能プロダクションがある。
何階建てだよ!土地代、幾らすんだよ!成功者どもめ!などと考えながら、豪華なビルをスルーする。
ん?いやいや、こんな豪華なビルなわけがないだろ。
我が社はコレだよコレ。
高層マンションの所為で、陽当たりの悪い場所に建っている3階建てのマンション。
かつて売れっ子タレントを抱えていた、サクラプロダクションの事務所。
一年ぶりに見たマンションは、やはり、陽当たりは最悪であった。
「何も変わってねぇな…」
ちなみに、1階は居酒屋になっており、2階が事務所。3階はレッスンスタジオとなっている。
階段で行くか、エレベーターを使うか。
経費削減を考えるのであれば、階段か?
地球温暖化にもつながってその上、俺の筋力も上がる。
一石三鳥じゃん!いや、経費を削減しても、特するのは千尋か…などと考えていると、後ろから声をかけられた。
「邪魔なんだけど」
「あっ!?す、すいません…って!?あ、姐さん!?」
声をかけられた俺は、素っ頓狂な声を出してしまった。
声をかけてきたのは、レディーススーツに身を包み、可愛らしいゼブラ柄のマフラーを巻いた女性である。
「……どちら様でしょう?」
「…いやいや姐さん!俺ですよ俺!」
「オレオレ詐欺なら間に合ってますので」
おいコラ結衣!誰が詐欺師だ!誰が!大体、間に合ってます何て言われたら、何かの詐欺に引っかかったのかと、心配になるだろうが。
彼女は橋本結衣(20)という名前であり、今の会話から解る通り(俺が姐さんと呼んでいる)マネージャーとしての俺の先輩だった人だ。
本来はマネージャーだった彼女だが、俺が入社したのがきっかけで、現在は千尋の秘書になった人である。
「霧島修二。不肖ながら戻って参りました」
礼儀は大切だ。
戻れるか戻れないかは置いといて、筋を通すべきだと考えた俺は、姐さんに頭を下げた。
「負傷してるなら帰れば?」
「いやいや、ふしょうって意味わかります?」
「怪我をした…でしょ?」
「あってますけど、その負傷じゃなくてですね!」
俺が唯一、頭のあがらない年下の女性。
それが、橋本結衣という女性だ。
礼儀の"れ"の字も忘れ、姐さんに噛み付いた俺に対し姐さんは、人差し指をピッと指してきた。
「ここ。負傷したんでしょ?」
「……!?あ、姐さん」
思わず涙が出そうになった。
姐さんが指で"トントン"っと突いてきたのは、俺の心臓。すなわち、心であった。
「気遣いの出来る女性になられたのですね…って、イテッ!?」
「ったく。馬鹿なこと言ってないで、ほら、開けて」
頭を叩かれた俺は、エレベーターのボタンを押した。
地球温暖化?
いやいや。
それも大事だがそれよりもだ。橋本結衣との仲良しの関係性を失うことの方が、俺には怖かった。
心配して損した。などと言う言葉が後ろから聞こえたが、聞こえないフリをして、俺達はエレベーターに乗り込んだ。
ーーーーーーーー
エレベーターのドアが開くと、目の前にサクラプロダクションと書かれたドアがある。
いつも通り暗証番号を入力して、ドアのロックを解いた俺は、小さく深呼吸をする。
久しぶりの出社だ。
緊張しても仕方がない。
「…早く入れ」
「い、いや!あ、あのですね!ちょ、ちょっと心の準備といいますか」
「修二。その馬鹿な頭で、マヌケな面で、今の現実を受け止めなさい」
「ちょ、ちょっと!?それってどういう意味で……す、か?」
言われてる事の意味が分からない俺を、橋本結衣はその小さな両手で、力強く背中を押してきた。
しかしそれは、聞く必要がないものであった。
いや、聞く必要が増したと言い直そう。
「ゆ、結衣。い、一体、何があったんだよ!」
姐さんと呼ぶのを忘れ、橋本結衣の両肩をがっしり掴んだ俺は、強い口調で尋ねた。
かつて俺が働いていた職場。
しかし、そこは俺が知っている職場ではなくなっていたのであった。




