第六話 婚姻届
寝ていた恵美は、急な物音に飛び上がった。ガタッ、ガタン、と大きな音に、慌てて起き上がる。
「祐二?」
帰ってきた祐二は、建てつけの悪い玄関引き戸を力任せに閉めた。外はすっかり暗くなっており、時は夜の八時を過ぎていた。
「恵美、ただいま」
祐二は、片手にスーパーの袋を持っていた。
「お帰り、祐二」
寝ぼけ眼で出迎える。祐二は、にこにこと袋を差し出した。
「ほら、お腹すいてたんだろ? 遅くなって悪かったな。バスの本数が少なくてさ、まいった」
「そっか……ここ、バスも少ないからね。やっぱり車が欲しいね」
「金がない。無理な事を言うな」
祐二は、貧乏だから、と笑った。その通りだと恵美もうなずく。
「あれ? 祐二、Tシャツ着替えたの?」
「ああ、朝の紺色のがあまりにも暑くってさ、バス停まで行くだけでもう汗でびしゃびしゃ。気持ち悪いから、スーパーでこの白いの買ったんだ」
祐二は、民家から盗んだTシャツはすでに処分し、町で新しいのを買って着替えていた。
「脱いだ洗濯物は?」
「会社に置いてきた」
祐二は冷静にそう答えた。本当は血で汚れたから捨てた、などとは言えない。
「そんなに汗かいたなら、お風呂先に入る? 水は張っておいたけど」
「それならすぐに入る。もう湯じゃなくていい。水風呂にする。その袋から何でも好きなもの出せ。俺は、食事は会社で済ませてきたから、酒だけでいい。おまえの好きなものを食べろ」
祐二が風呂場へ行くと、恵美は、早速、袋いっぱいに詰め込まれた缶詰やカップめんなどを出した。酒も入っている。冷蔵庫がまだないので、保存食ばかりで、生ものは入っていなかった。
「どれにしようかな」
菓子だけで済ませた昼ごはん。お腹が鳴いている。今夜のメニューは、レトルトカレーとパックのごはんに決めた。これなら、湯を沸かして温めれば、電子レンジがなくても食べることができる。
土間にあった大鍋で湯を沸かしていると、祐二が水風呂からあがってきた。汗がひき、さっぱりした様子だ。
「恵美も先に水風呂入れよ。気持ちいいぞ」
「そうね、そうする。それなら、あたしのカレー温めるの頼んでもいい?」
ああ、と返事を確認し、沸かしかけの湯を祐二にまかせて、恵美は風呂へ行った。
古い家に独特の細かい風呂の中のタイル。風呂壁や天井は、カビだらけだが、見ないことにする。また掃除すればいい。カビ取り剤が手元にない。恵美はザアッと水とかぶって、冷たっ、と声を上げた。
まるきり水だ。いくら真夏で暑い、といっても水風呂は、やはり冷たい。祐二はこんな冷たいのに平気で入っていたのか。そう思いながら、そうそうに風呂を切り上げ、祐二の元へ戻ると、自分の風呂の間に、祐二がやってくれたことで、恵美は思わず大声で悲鳴をあげてしまった。
「うわっ! 祐二、ちょっと! それって」
祐二は、ちゃぶ台の上に出してあった婚姻届を丸くちぎって、障子の穴に張り付けていた。
「なんてことするのよ。それ、大安の日に一緒に出しに行くんじゃなかったの?」
「ああ、そのつもりだったけどさ、この障子の穴から虫が入って来てうっとうしいから、ふさいでやった」
「うそ……信じられない。こんな大事な書類をそんなことに使うなんて……」
破られて、障子の穴に米粒で張りつけられた無残な婚姻届は、文字が逆さになっていた。祐二のへたくそな字で書いた名前の部分が、障子紙になっている。はさみもないので、手でちぎられ、ぎざぎざになった残骸が畳の上に残っている。書類は完成していて、出すばかりだった。
恵美は水でぬれた肩までの髪をかきあげ、眉を寄せた。恵美の怒りに、祐二は気がつかない様子で、上機嫌で酒を口にしていた。
「どうだ。これで虫が入ってこないぞ」
「あのね……普通は、虫が入ってきても、大切な書類でこういうことしないと思うけどな……」
「紙がないじゃないか。その菓子の包みは、みんな昨日風呂用の薪に火をつけるのに使って、薄い紙がないだろう。障子紙そのものを買ってこないといけないけど、スーパーには売っていなかったから。その書類なら、役所へ行って書き直せばいいじゃないか」
「そんな……これはね、生まれて初めて書いた婚姻届だったの。こんな無神経に障子紙にするなんて……」
「いけなかったのか? ごめん、恵美。俺が悪かった。また書けばいいと思ってさ。俺にとってはそんな紙切れは何の意味もない。俺は、恵美がいっしょに暮らしてくれたらそれでいいんだ」
畳の上にあぐらをかいて座っていた祐二は、立ち上がると、風呂から戻ったままあきれて立ちすくんでいる恵美に近づくと、ぎゅっと抱きしめた。お互いに水風呂上がりなので、体はひんやりと冷たい。唇を重ねても冷たかった。
「本当に俺の妻でいいよな? 後悔しないよな?」
「結婚式まで挙げといて、今さら何よ。後悔すると言ったら、婚姻届を出さないつもり? あんなところに破って貼っちゃって……もう、祐二は」
恵美は立って抱き合ったまま、笑って、目で障子紙をさした。祐二は恵美の両肩をつかむと、少し真剣な顔になった。
「祐二?」
祐二の、紅茶のような明るい茶色の瞳で見つめられると、いつも恵美は心臓がパクリ、と動いた。決して大きな瞳をしているわけではない。祐二は、細い目だった。それでも、その細さの奥に光る透明な輝きは、恵美をとりこにしていた。祐二の目は、日の当たっている屋外でそれを見ると、さらに明るく、見ようによっては金色にも見える。
「恵美、俺さあ……実は……」
その時、恵美のお腹がキューと鳴いてしまった。恵美は、あっ、と顔を赤らめた。
「ははは……そうだ、おまえ、腹減っているんだったな。カレー食えよ」
祐二は恵美を離し、レトルトカレーを置いたちゃぶ台の前で、またあぐらをかいて座ると、カップ酒を手にした。大事な話を、また言いそびれた、聞きそびれた、とお互いに思っていたが、恵美の空腹には代えられなかった。