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第五話  不安

「ふう……休憩」

 恵美は掃除で汗だくになって顔を洗った。昼になるのに、祐二はまだ帰って来ない。

「遅いなぁ、もう」

 掃除で腹ぺこになった恵美は、結婚祝いにもらった菓子の包みを開けて、それをつまみながら待っていたが、十三時を過ぎても祐二が戻らないので、携帯電話にメールを入れた。


『お腹すいたよ〜。早く戻って来て〜〜 』


 すぐに返信が来た。シャランと鳴った携帯電話に飛びつく。


『今会社。仕事の打ち合わせが急に入って呼び出されたから夜まで戻れない。昼は適当に食べておいて。夜ごはんは買って帰る』


 返信を見た恵美はため息をついた。祐二のメールはいつも顔文字も使わず、用件のみで味気ない。

「ちょっとぉ……適当な食べ物がないから困っているんじゃない。冷蔵庫も炊飯器もないんだからね。会社に行ったのなら、さっさと連絡くれればいいのに」

 菓子の箱に手を伸ばした。明日か、あさってには、祐二の友人の家から、家具や家電一式が届くはずだ。

 それにしても、どうも落ち着かない。山歩きで静かなのは慣れているとはいえ、車の音ひとつしないこの静けさ。静か、と言っても、蝉の大合唱はうるさいぐらいだが、人工的な音がしない。人の気配のない空間を満たしているのは、虫の声、鳥のさえずり。これは願ってもない、すばらしい環境だと言える。車や電車の音に悩まされることのない暮らしは、恵美の憧れでもあった。こんな所で子供をのびのびと育てるのが夢。広い庭。家庭菜園もやりたい。

 しかし。この言いようのない、落ち着かなさは何なのだろう。町中にある自分のアパートは、近くに大きな幹線道路が走っており、常に車の音でやかましかった。あまりにも違いすぎる。

「静かもいいけど……ま、文句は言わない。ありがたい」

 恵美は、また掃除を再開したが、暑さで疲れてしまい、畳の上に座り込んで、携帯電話を開き、小さな画面にテレビをつけた。ニュースをやっていた。



『今日、午後二時三十分頃、自転車に乗った四十歳の主婦が、黒いサングラスをした男に襲われ、現金約一万円の入った手提げ袋と自転車を奪われるという事件がありました。事件は○○町の……目撃者によると、犯人は、黒っぽいTシャツにジーンズをはいた男、ということですが、主婦から自転車を奪う際に、主婦ともみあい、主婦にかみつかれ右手を負傷していることがわかっています。主婦は、犯人に蹴られて転倒し、頭を打って重体となっています。警察では、強盗傷害事件として右手を負傷した犯人の男の行方を追っています』



 携帯の液晶画面は、現場にポツポツと残された犯人の血を映し出していた。

「二時半って、まださっきじゃない。犯人に、主婦がかみついたって? 最近の主婦って怖いねえ。犯人にかみつくなんて。あたしはそんな戦う勇気はない。さっさとお金渡しちゃうね。もし、ここにそんな変な男が入ってきたら……」

 恵美はひとりごとをつぶやいて、ぶるっと体を震わせた。

 今、もし、その犯人が入って来たら、どうするか。報道されていたひったくりの話は、すぐ隣の町の話だった。

 もし、自転車でその男がここへ来たら。金を取るためには、手段を選ばず、何をするかわからない。悲鳴をあげても、誰にも聞こえない。聞こえる範囲に人がいない。今、ここで何かあったとしても、誰にも知られず、祐二が帰ってくる時には死体になっているかもしれない。山を歩いている時は、女ひとりでも危険だと思ったことは一度もなかった。だが、こうして、静かな家にひとりでいると――

 恵美は、大急ぎで、家中を走り、開け放していた、縁側や玄関をすべて閉めて、鍵のかかるところは、全部鍵までかけた。蝉の声がする真夏。クーラーなし。むわっとした湿った空気。汗がどんどん噴き出してくる。風の通らない真夏の部屋は、まさに魔夏。

「祐二、早く帰って来て!」

 たまらず携帯電話をかけた。


 ピルルルル……


 祐二の携帯電話が、着信を知らせた。自転車に乗っていた祐二は舌打ちして、ジーパンの後ろポケットにつっこんであった携帯電話を取り出す。

「後にしてくれ。今仕事中だ」

 恵美には何も言わせず、一方的にそう言って携帯電話を切った。祐二は全速力で自転車をこいでいた。その右手の甲は、歯型のついた傷ができ、血が流れている。

 できるだけ、遠くまで逃げなければ……ペダルをこぐ足に力が入り、息が切れ、汗が流れる。盗んだ自転車を猛スピードでこぎながら、途中でサングラスを道端のドブに投げ捨てた。

「俺にかみつくとは、あの女、犬か? 凶暴なやつめ」

 祐二は、自転車をこぎながら、傷ついた右手を、長い舌で、ぺろぺろとなめた。傷がみるみるふさがっていく。二キロほど逃げたところで、盗んだ自転車を川のへりから落とし、自分の血で汚れてしまった紺色のTシャツを脱いで、それも川沿いの草が生い茂った中へ放りこんだ。ジーパンに、上半身裸になった祐二は、周りを確かめ、追われていないと確認すると、主婦から盗んだ袋から、財布だけを取り出した。

「一万ちょっとか。充分だ。これで、バス代もできたし、数日分の食料を買って帰れる。恵美、待っていろよ。何かうまいものを食わせてやる。しかし、かみつかれるとはまいったな。もっと年寄りを狙えばよかったんだ」

 ひったくりの証拠品をすべて処分した祐二は、周りに誰もいないことを注意深く確かめると、通りすがりの民家の庭先に干してあった、半乾きのTシャツをすばやく盗んで身につけ、何食わぬ顔で歩き始めた。そのまま、夏の太陽がじりじりと照りつける中、汗だくでバス停まで歩いて行き、ちょうど来たバスに乗って、町へ向かった。



 ブツリ、と切られてしまった携帯電話を、恵美はゆっくりとおろした。目の下に、汗とも涙とも思える液体がたまった。そっけなかった祐二。怖くて必死で電話した。仕事中に電話するとは愚かだったと思う。自分もこの前まで働いていたのだから、それは迷惑以外の何ものでもないとわかっていた。今からメールをしようと、携帯に打ちかかったが、やめた。返信を待ち続けるのもむなしい。


 むっとする暑さは終わらない。閉め切られて風の通らなくなった部屋にひとりきり。もう掃除をする気にもならなくなってきた。今日の掃除で、納戸からみつけた木のちゃぶ台の上に、数日うちに出しに行く予定の、大切な婚姻届を置き、その隣にゴロンと横になった。どちらを向いても暑いのは同じ。じっとおとなしくしていても、汗で首周りがべとついてくる。熱帯のような空気は、サウナにいるようだ。

「あつーい! もういや!」

 恵美はまた家を開け放した。木々に囲まれた家に、涼しい風が通りほっとする。凶悪犯でも何でもどうぞいらっしゃい。熱中症になって死ぬよりましだ。

 開き直って、畳の上に横になっているうちに、恵美は眠ってしまっていた。





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