第二十一話 大岩の上で
恵美が目を開けると、すでに朝日は昇り、暗い森の中も明るさを取り戻していた。目を覚ました木々がうれしそうに葉を揺らす。今日も天気がよさそうだ。固い場所で寝たので、体が痛い。寝起きのぼんやりした頭が、この状況を説明しようとする。
――そうだ、ここは大岩の上。よく来る滝のところだ。ここで昼寝をしていたんだった……祐二と……
そこまで考えて、ハッと脳が覚醒した。昼寝じゃない! 夕べ抱き合った形のままで、素肌同士が触れ合っていた。
「祐二!」
あせって起き上がろうとすると目の前に、明るい色の瞳があった。
「おはよう、恵美」
「ゆう……!」
言い終わらないうちに、首の後ろをつかまれ、祐二の唇が重なって来た。
「恵美、ありがとう。俺の体、治してくれたんだな」
やさしく触れられる唇が震えた。
「ゆ……うっ……っ……」
嗚咽がこみ上げ、声が出ない。祐二はパッと恵美を離し、さびしげに目を伏せた。
「恵美……ごめん……そんなに俺が嫌か? こんなふうにされるのも泣くほどがまんならないか……」
「わぁぁ……祐二……っ」
「俺が悪かった。そんなにつらいなら無理せず人として生きろ。俺が怪我をしたからって、おまえがここにいなければならない理由にはならない。おまえ、俺の傍にいるって言っても、本当はやっぱり俺を許せないんだろう? 泣くほど嫌いな俺と、無理して一緒にいることはない」
「祐二が……嫌なんじゃない……っ……あたしは……」
――祐二の傍にいたい。
「あたしは……」
――祐二が死んでしまうと思って、気が狂いそうだった……
「恵美?」
「あたしは、祐二を……」
――愛してる。
「あたしは」
祐二は恵美の両肩をつかんで、視線を合わせた。光に当たると宝石にも見える、祐二の金色の瞳は大きく見開かれ、真っ直ぐに恵美をとらえていた。
「あたしは祐二が好き」
「恵美!」
「祐二を……愛している……」
「……本気か?」
疑うように眉を寄せた祐二の視線が痛いが、恵美は正面から見つめ返した。
「だから……あたしはどこにもいかない。祐二がいないと生きていけない」
「恵美……いいのか? 本当に?」
「何度も言わせないで」
「じゃあ、何で泣くんだよ」
「……祐二が目を覚ましてくれたから」
「そんなことが泣く理由になるのか?」
「だって……祐二はすぐに死にそうだったから、ほっとして……」
再び唇が紡がれた。今度は恵美の方からだった。二人の心の中まで明るい日差しが入り、同時に緊張が緩められていく。粉々に砕かれてしまった二人の未来は、また新たな塊に変わり、歩き始めた。
「恵美、ありがとう」
祐二の手が恵美の髪に触れた。祐二はフッと軽い笑いと漏らした。
「おまえ、少し行水したほうがいいな。顔も髪も、ほら、俺の血だらけだ。水に映して顔を見ろよ。汚いぜ。まあ、それは俺を精一杯治そうとがんばってくれたことの証拠だけど。俺、うれしいよ。恵美が俺を助けてくれた。俺はまた恵美に幸せをもらった」
祐二は、にこにこと笑っている。先ほどのかげった表情はすっかり消えていた。
「祐二、もう大丈夫なの?」
やっとその言葉が出た。傷口はすべて閉じられている。弱っていることは間違いないだろうが、祐二の笑顔はそんなことを感じさせなかった。
「おまえがなめくりまわしてくれたから、治ったよ」
いたずらっぽく口元を弛めた祐二の顔に、恵美はいつもの調子を取り戻した。
「なっ、なめくりまわす! どういう言い回しよ。そんなこと言うなら、そのまま放っておけばよかった」
「そうすればよかったじゃないか。俺を捨てて逃げる気だったくせに」
「いじわる! あたし、誰か人を呼んでこようと思ったんだよ。でも、ここでは誰もいないからどうしようもなくて。趣味で、なめくりまわしていたわけじゃないのよ」
「アハハ、恵美はおもしろいな。誰か人間を呼んできてどうするつもりだよ。俺が人じゃないことがばれるじゃないか。体温が低すぎるし、血液も体のつくりも人とは違う。ちょっと突っつき回されたら、化けの皮が剥がれてすぐに正体がばれちまう」
「あっ、そうか。あたしは、お医者さんに診せれば何とかなると思った。傷口を縫ってもらって、消毒でもしてくれたらとそれしか頭になかった。どうせ、あたしの考えることはくだらないことばかりだって言いたいんでしょ。ふん!」
「そんなこと言ってない。ふくれてないで一緒に血を洗い落とそう。来いよ」
二人は手をつないで、滝壷の深い水へゆっくりと入った。
水で体を清めると、すっかり気持ちよくなった二人は、大岩の上の血を洗い流すとそこへまた横になった。山の水で冷えた体に夏の日差しが照りつけるが、今はそれも心地よい。滝の音を耳から入れながら、裸のままでのんびりと横になりながら、祐二は、恵美に謝罪の言葉を何度も口にしていた。
「祐二、もういいって。あたしこそごめんね。あたしの為に、祐二はこんな怪我をした。泥棒もしたし、人殺しもやった。それはあたしの為だったんだよね。人間になりすまして、普通に暮らしていても、あたしたちが人間でないことには変わりはない。いつ正体がばれるかとおびえながら、びくびくして暮らしていくのは嫌だ。だから、あたし、これからもずっと祐二と一緒に山で暮らす。あたし、祐二と一緒にしか暮らせないから」
恵美は祐二に素肌の身をすりつけた。今の見た目はまったく人と同様。人の通らない山奥だから外でこんなかっこうでいられる。
「恵美……本当にごめんな。俺はずっとひとりでさびしかった。この山が大好きなおまえなら、ここで俺とずっと一緒にいてくれると思って、二回ほど山で見かけたおまえにまた会えるように、待ち伏せしていたんだ。人間じゃない俺なんかが好きになって、おまえを悲しませてしまった。でも、大好きなんだ、恵美。俺はおまえにいっぱい嘘をついたけど、この気持ちだけは嘘じゃない」
この言葉は信じられる。満たされた心と傍にいる安心感。これを手放せば二度と手に入らないだろう。恵美は微笑んだ。
「もう祐二のバカッ! こんな怪我までして! 祐二はあたしの為に何するかわからないから、ひとりにしておけないじゃない。こんなバカを好きになるなんて、あたしもちょっとばかりバカだったみたい」
恵美は、ふふっ、と軽く笑った。唇が触れ合う。口付けは徐々に深くなり、やがて体を求め合いたい気分へ変わっていった。青い空の下、岩の上で夢中になって愛し合う二人を、木々が見守る。鳥のさえずりが祝福の歌を奏でる。はずむ呼吸。かすかにもれる声。滝の音がそれを吸収する。深く結んだ瞬間に同じ思いが交錯する。
――他に何もいらない。こうしていられるなら。
体の傷も、心のひび割れも、苦しい涙も、嘘のしこりも――求め、満たされ、すべてが緩やかに溶けていく。トウトウと流れ続ける透明な水が、つかえていた思いを押し流していった。