第二十話 血と涙
「誰かー! 誰かいませんかー!」
声に応えるのは、轟々と音を立てて落ち続ける滝。驚いて飛び立つ鳥の叫び。木々の葉たちにこすれるざわめき。人の声での返事は、どこからもないことなど、わかりきったことだった。
立ちあがって大声で叫んだ恵美だったが、どうしようもなく、がっくりと祐二の横に座り込んだ。
「祐二……」
祐二は大岩の上で意識を失くしていた。大岩の上にたまった水で薄まった血だまりは、恵美の知らないうちにどんどん成長していた。祐二の閉じかかっていた大きな傷口が、滝壷に飛び込んだ衝撃で、開いてしまったらしい。
――どうしよう……
ここは登山者が通らない場所。通りすがりの誰かを期待して待っていても無駄だ。誰かに救助隊を呼んでもらうように頼むことなどできない。携帯電話も持っていない。
おろおろしている間にも、祐二の体から血が出ていってしまう。まだかろうじて息はあるが、このまま血が止まらなければ時間の問題だろう。とりあえず止血するしかない。
恵美は濡れたTシャツを脱いで、手早く絞ると、それを祐二の腹の傷口に押し当てた。濡れた白いTシャツは、みるみる血がにじんでくる。傷を抑える手に力を込めたが、なかなか止まらない。あせりで口が渇き、めまいがした。ふいに吐き気に見舞われたが、必死でこらえた。
「祐二、ねえ……」
返事をしてくれない。死人のような祐二の顔を見ているうちに、先ほどの言葉が、頭の中で繰り返された。
『おまえが、俺に幸せをくれたからだよ』
ポトポト……涙が祐二の顔に落ちた。
「祐二、お願い、目を開けてよ。あたし、まだちゃんと祐二に幸せをあげてない。祐二になんにもあげてない。祐二をこんな目に遭わせただけだった……」
恵美は涙を振り払うと、傷を押さえていたTシャツをどけて、思い切って祐二の傷口に自分の口をつけた。抑えるだけでは止血できないなら、それしか方法を思いつかなかった。人間でないならば、この方法で。祐二は自分で舐めて治していたから……
獲物にたかるハイエナのようだと自分で思った。真っ赤な血で鼻先や口元を染め、必死で祐二の傷を癒す。人がいない山奥だからこんなこともできる。この姿を人に見られたら、どう思われるだろう。全裸の男が、腹から血を流して虫の息の状態で倒れており、それに上半身裸の女がとりすがり、血を舐めている。
恵美は必死で傷に触れながら、その頭の中では、自分はいったい何をやっているのだろうと思っていた。結婚式を終えてからまだ四日しか経っていない。たった四日前に純白のウエディングドレスに身を包んだ自分が、今は、半裸で、顔だけでなく髪まで祐二の血がついてすごい姿になっている。これでは獲物を食いちぎっている獣と変わらない。
これは夢かも知れないと思った。しかし、夢にしては、いつまでも覚めず、血の色も、周りの風景も、感じる風も音も、あまりにもリアルすぎた。これは現実。生臭い血の臭いが鼻につき、傷口に触れ続ける舌は、常に鉄臭い味を口内に広げる。
目を閉じると、結婚式でもらった数々の言葉が浮かんでしまう。思い出すだけで涙が湧いてくる。
『恵美、幸せにね。必要なものがあったらいつでも連絡しなさい』
『お姉ちゃん、おめでとう』
『恵美ちゃん、落ち着いたら、遊びに行くからね』
『いいなあ、庭付き一戸建て。いい男を捕まえたね』
『ご結婚おめでとうございます。旦那さんとお幸せに……』
皆、こんなことになっているとは思いもせず、恵美が今日もあの古家で幸せに暮らしていると信じていることだろう。古家に置いてきた携帯に、たくさんのメールが届いているかもしれない。しかし、それを見るすべはない。急に連絡がとれなくなり、皆に心配をかけているに違いない。涙と共に、さびしさがあふれる。
せめて父と母に連絡したかった。古家は人の物で、誰にも遊びに来てもらえないと。それでも、祐二と共に暮らせて幸せだと。
大切な家族や友達とはもう会えない――自分に言って聞かせる。祐二と共に生きると決めた今、皆、会えない人たちとなった。
――祐二を捨て去ることはどうしてもできないから。でも、もし、祐二が死んだら――
不吉な妄想がまとわりつく。恵美は祐二の顔を手でなでまわした。血の気が引き、死にかけていることは明らかだった。
「祐二が生きていてくれないと、あたし、どうしたらいいかわからないじゃない。もう人間じゃないんだからね。ねえ、祐二……起きてよぉ……ねえ……」
祐二の肩をゆすっても、状況は変わらない。涙腺がまたしてもゆるんでしまう。
「こんなのいやだぁ……あたし、祐二と生きていくって決めたんだよ。祐二の奥さんになるって決めたのに……家族も友達も全部捨てて、祐二とずっと……っ……ああ!」
泣き声は滝の音に飲みこまれた。時だけが静かに過ぎて行った。
大岩の上で、横になってからどれくらいの時間が経っているのかわからない。時計はない。太陽の傾きだけが時を知る唯一の方法だった。もう夕方なのかもしれない。涙が乾いた恵美は一度顔をあげ、汗をぬぐった。と、その時――
「う……」
祐二がわずかに眉を動かし、うめき声をもらした。
「祐二!」
恵美は笑顔になって祐二の片手を取り、強めに握ったが、すぐに力を弱めた。
「……祐二……」
握り返してはくれない。意識は回復していなかった。恵美はため息をつき、また傷口を癒し始めた。
やがて、辺りはすっかり暗くなってしまった。日射しがなくなってしまうと、真夏でも滝からの冷たい湿気がひんやりと体をなでる。水に濡れた体はもう乾いていたが、裸のままでは山の風は涼しすぎるような気がした。
「祐二……しっかりしてよ。大丈夫?」
やはり返答はない。祐二の出血は止まったものの、気が付く気配はない。祐二の服を取りに行こうかと思ったが、祐二をこのままひとりで岩の上に放っておいて、滝の上の洞窟へ戻るのも気が引けた。恵美はすべてを脱ぎ捨てて、祐二の体を横にすると体を合わせた。
肌が合わさる感触。むっとする悲しい血の臭いが、また涙を呼ぶ。
「ごめんね。あたし、祐二は嘘つきの人殺しだから、祐二なんかどうなってもいいと思っちゃったんだ。あたし、なんで祐二の気持ちを考えてあげられなかったんだろう。祐二はこんなにあたしを愛してくれていたのに……」
思い出すのは人間同士として愛し合った二日目の夜。最愛の男を受け入れ、身も心も満たされた瞬間があった。あの時、祐二の体は冷たいと思った。暑い夜にそれがここちよく、夢中で触れた。今は祐二が低体温だとは思わない。肌を重ねると、むしろ温かさを感じた。
――生きている……心臓の鼓動は生きている証。祐二は死なない。絶対に。そう信じよう。
恵美はそのまま祐二を抱きしめて眠り、大岩の上で一晩を過ごした。