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第十九話  思い出の場所

 

 バシャーン、と水しぶきが高くあがり、祐二が追いかけて飛び込んできた。深い水中で目を閉じる恵美の体は、強く引っ張られた。

「ばかやろう!」

 祐二は恵美を抱き上げ、水から出すと、大きな岩の上に下ろした。祐二は、恵美を岩の上にあおむけに寝かせた。

「怪我はないか?」

 祐二は、恵美の体を確かめると、自分も隣へ横になった。平らで、二畳ほどあるその大岩は、二人のお気に入りの場所だった。

「恵美、おい、どうしたんだよ。おまえ……飛び込んで死のうと思ったのか」

 恵美は薄く目を開いて、祐二を見上げた。力の抜けた恵美を、心配そうにのぞきこんでくる透明な瞳。自分を捨てて行く女への軽蔑の眼差しではない。抱きあげられた時、またすべてを預けたくなったたくましい胸。それは傷だらけで血の臭いがした。見ていられない。涙があふれる。恵美の停止しかかっていた思考回路はゆっくりと動き始めた。


 ――あたしは本当に祐二が死んでもいいと思っているのかな……このまま祐二に会えなくなってもそれでいいと……祐二はあたしをだました人殺しだから……


「おいっ、本気で死ぬ気だったのか。正気か? なんでこんなことしたんだよ」

 祐二の語気は少し強めだった。

「……わからない」

 恵美は力の入らない声で答えた。

「わからないって、おまえ、今、自分で飛びこんだじゃないか。俺に送られるのが嫌で、俺を切り離そうとしたのか」

 恵美は答えず、薄く開いていた目を閉じた。祐二は恵美の肩をつかむと、恵美はあおむけのまま、また細く目を開いたが、祐二の顔は見ずに、ぼんやりと、夏空のちぎれ雲を見ていた。

「答えろよ。死ぬほど人間じゃなくなったことがいやか。俺がやったことは、おまえが死ななければならないようなことなのか」

「……わからないの、もうどうしていいか……ただなんとなく……祐二の涙を見たら……」

「飛び込んで俺のことを忘れようと思ったのか」

「わからないのっ、もう何も考えたくない……っ」

 泣き声をあげた恵美に、祐二は表情を緩め、言葉を鎮めた。

「俺が悪かったから、もう泣くな。自分で死ぬようなバカなまねをしないでくれ。全部俺が悪いんであって、おまえが悩むことでもないだろう」

「祐二……っ……っ……」

 とめどない滝の音。どこまでも続く水の帯。それを眺める大岩の上の、緑の広葉樹が揺れる。

「あたし……もう……わからない……」

「何がわからないんだ」

「なんで、なんで、あたしが逃げるのを止めないの? あたしと一緒にいたかったから、あたしを無理やりこんな体にしたんでしょう? それなのになんで、すんなり送って行くなんて言うの」

「俺には……人の常識がわからないから」

 恵美が祐二に視線を移すと、祐二は、微笑を浮かべ、どうしようもない、と軽く首を振った。

「俺は、恵美が嫌がった時のことは、なんにも考えていなかった。恵美が俺と同じものになってくれさえすれば、なんとかなるような気がしていた。がっかりしていない、と言えば嘘になる。だけど、恵美が帰りたいなら、俺は止めない。恵美の幸せが人の世界にしかないなら、帰ればいい」

 祐二は傷を手で押さえながら、ふうっと息を吐いた。

「俺が嫌だからって、何も飛びこまなくてもいいだろう。そんなに嫌なら少し離れながら送ってやるよ。最後ぐらいおとなしく送られてくれ」

「なんで……祐二はそこまであたしの為にやろうとするの? あたしは、祐二を捨てていこうとしているんだよ? わかっているの?」

「俺は後悔したくないんだ。もうおまえに会えないかもしれないから」



『会えないかもしれないから』



 心臓が針で突かれた。そうかもしれない。もう祐二とはたぶん――いや、たぶんどころか、ここを出れば、そして、自分がここに戻って来なければ、永遠に会うことはない。

 でも、それは自分が決めたこと。祐二を捨てると。この殺人犯に、孤独な罰を。人の法で裁けないなら、自分が裁きを。許せない気持ちを祐二への罰に変えると、そう決めたのだ。心の声が強く恵美に語りかける。


 ――何をうろたえている。この男は嘘つきの人殺し。こんな男など捨てろ。絶対に許してはならない。


 木々の間から、小さな茶色い鳥が、バサバサッ、と枝を放れるのが目に入った。滝からの細かいしぶきが、涼を呼び寄せ、真夏の暑さを忘れさせてくれる。前にもこうして、ここで寝そべって服をかわかしたことがあった。プロポーズされたのもこの場所。思い出が交錯する。



『うれしい! 実は、あたしね、祐二のプロポーズの言葉を密かに待ってたんだ』

『それって、俺とずっと一緒でいいと恵美が言ってくれたと思っていい? 返事はOK?』

『もちろん。あたしもずっと祐二と一緒がいい』

『イヤッホー! 恵美は俺のだ』

『キャッ、何するのよ』

 抱きあげられて、軽く宙に放り投げられ、受け止められた。

『おまえ、意外と重たいな』

『失礼な!』


 少女まんがで描くならば、笑い合う二人の背景に幸せの花びらが舞っているような、明るい笑い声が止まらない思い出。

 幸せで、幸せで……何も見えなかった。祐二のすべてを信じ、あの古家で思い描いたとおりの新生活が始まると信じていた。それなのに――

 顔を横に向けると、日光が顔に当たり、金色になった祐二の目と合った。ガラス玉のように美しいそれを見るたびに、どれほど心が揺れたことだろう。涙で視界がかすむ。祐二の温かい視線に、固くした心が、崩されかけた。


 ――祐二……好きだった……知り合ってからのこの半年、楽しくてしょうがなかった。あの頃にもう一度戻りたい……


「祐二」

 未練を呼び寄せるように、口から漏れた名前。この名前を呼ぶたびに、心が舞いあがった。今でもそう。大好きな名前。でも、それは、人生を変えてしまった酷い男の名。許されてはいけない男。どんなにやさしい男でも。


 恵美は祐二から目をそらした。祐二は、濡れて体に張り付いた恵美のTシャツ姿に目を細めた。

「あーあ、びしょぬれになってすけすけだ。しかも俺の血がべったり付いちゃったじゃないか。これじゃあこの服、だめだな。仕方ない、俺のTシャツを着て行け。ザックに入っているから今取って来てやるよ。待っていろ」

 祐二は腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。少しよろめく。傷はまだ完治していない。祐二のかすかなうめき声が耳に入り、恵美は祐二の足首をつかんだ。

「怪我しているくせに、あたしの着替えなんか取りに行かなくていい」

 恵美のちょっとの力で、祐二はよろっと座り込んでしまった。祐二はまた恵美の隣に横になったが、怪我の痛みを逃すように、何度も深呼吸した。恵美は祐二の方を見ようと、体を横に向けた。

「痛いの?」

「ああ……ちょっと水がしみただけだ。すぐに着替えを取りに行ってやるからな。俺に遠慮するな」

 祐二は無理に笑って見せた。

「どうして? あたしは、もう祐二とは――」

 祐二は恵美の言葉をさえぎった。

「俺が一番大事なものは恵美だから、おまえの為なら俺は何でもしてやろうと思っている。俺にできる事なら何でも」

 目の前の祐二は、横になって向き合ったまま、ずっと恵美の瞳を食い入るように見つめていた。

「恵美、人の世界へ戻っても、死ぬなよ」

 真剣で重い言い方だった。恵美の意思だけを尊重し、別れることを前提にした言葉。恵美は唇をかみしめた。返事などできない。

「俺、やっぱり自分がなさけないよ。恵美に死ぬほど嫌われてさ。いろいろ嘘ついて、何を必死で取り繕ってきたかと思う。こんなことやっているから、人として生きていくのは苦痛なのさ。俺には、ずっと人の姿を保ちながら、人の中で暮らす、という選択はできない。だから、せめて、恵美の姿を見ていられるところまで送りたい。俺が大好きな恵美と少しでも一緒にと思って」

「あたし……」

 喉が詰まった。



『俺が大好きな恵美と少しでも一緒に』



 胸の奥の固い氷が砕かれていく。心の氷は指の間からぼろぼろと抜けていく。心に鞭を入れ、祐二が吐いた数々の偽りの言葉を思い出して、怒りで自分を叱咤しても、炎は吹き消されていく。彼を許したい。彼が人として許されない男であっても。


 恵美の唇が震えた。涙の川が長く延び、耳の裏へ入って行く。

「あたしは、やっぱり祐二のこと……」


 ――愛している。


「恵美? どうした? まだ死にたいのか?」

 明るい瞳は偽りなく恵美を愛情で包んでくる。祐二は滝の上では泣いていたのに、水で涙を洗い流してしまったのだろう。恵美を心配させまいと精一杯明るく振る舞い、傷の痛みをこらえているのはわかる。恵美の唇がこらえきれず少し開いて嗚咽をもらした。

「っ……あたしは――」

「そんなに泣くな。すぐに帰りたいんだな? 今、俺のTシャツ、持って来てやるから。ズボンの着替えまではないから、濡れていてもがまんしろよ」

「そんなのもう……いいの。祐二……やっぱりあたし……っ……」

「どうした?」

「祐二を捨てるなんて……できない」

「恵美!」

 明るい目が大きく見開かれた。

「やっぱり、どうしても……別れるなんて……いや……っ」

 恵美はまた、祐二、と声をかけしばらく間をおいてから、とぎれとぎれにゆっくりと言った。

「……あたしは……人間じゃないって、よくわかった。人間の暮らしには戻らない。二度と祐二を捨てて逃げるようなまねはしない」

 祐二は、え、何で? と不思議そうに恵美の目を見た。

「さっき、俺とは暮らせないと言ったじゃないか。人間として暮らすんだろう? そのつもりじゃなかったのか」

「話をころころ変えてごめん」

 恵美は隣で寝ている祐二の頬に触れた。祐二は恵美の心を見透かすような瞳を投げかけて来る。わずかにそれは潤んで揺れていた。

「おい、本当にいいのか? 俺が怪我をしたから、そう言っているだけだろう。俺の体はどうでもいい。大事なのはおまえの気持ちだろう?」

「なんで……そんなにあたしを?」

「なんでって……」

 祐二は少し口ごもった。しかし、恵美の目をつかむように見ながら、はっきりと言った。

「おまえが、俺に幸せをくれたからだよ。だから、俺はおまえの為ならどんな事でもしようと思った。今でもその気持ちは変わらない。おまえが俺を離れてどこへ行こうとも、俺はおまえのことは忘れない。俺が許せないならそれでいい。おまえの好きに生きろ。おまえの幸せが俺の幸せだから。ただし、死ぬな。こんなふうに飛び込むことなんか、俺は絶対に許さない」

「祐二!」

 恵美は、涙で顔をくしゃくしゃにして、すぐ横にいる祐二に抱きついていた。大岩の上で横になったまま抱き合う二人に、夏の日差しが暑く照りつけた。祐二は恵美を抱きとめ、腰と肩に腕を回しながら、傷の痛みで顔をしかめていたが、恵美にはわからなかった。

「ごめん、祐二、あたし……ずっと祐二と一緒にいる。そうさせて……祐二と離れるなんてできない。祐二が好き。大好きだから傍に置いて。あたし、これからも祐二と暮らす。あたしは、あたしにとってはそれが幸せだとわかったの」 

「恵美……おまえ……」

 祐二は、本当にいいのか、と何度も念を押した。恵美は、抱きしめられたまま、うん、うん、とうなずいた。祐二の目に安堵の表情が浮かんだ。祐二は、ふぅ……と大きくため息をついて微笑み、恵美の濡れた髪に指をからめた。

「ありがとう……ありがとう、恵美。俺を捨てずに一緒にいてくれるんだな?」

「祐二はバカだから、放っておけないよ。こんな怪我までして、治ってもいないのに、水の中までついて来るなんて……動くのもやっとのくせに、本当は送って行く元気なんかないでしょう? あたしを送って行ったら、祐二、そのままその辺で死んじゃうよ」

 恵美は抱擁の中で、目を閉じた。

 本当にこの男は自分の為ならどんなことでもしてくれるだろう。愛されている……何にも代えられないほど強く。人間でなくてもいい。今は自分も同じものだから。結婚式で誓ったとおり、この男をずっと愛していこう。この男が罪人であろうが、なかろうが、関係ない。祐二を愛している。彼が何者でも、愛している。彼を捨てて人の世界に戻ることに、今さら何の意味があるだろう。こんなにも深く愛され、自分も愛を断ち切ることができない相手がここにいるのに、どうしてそれをすべて失くすことなどできるだろう。

 幸せはここにあった。思っていた形とはずいぶん違ったが。人としての常識にとらわれ、うっかり大切な事を忘れてしまうところだった。


 幸せに浸っていた恵美は、祐二の呼吸がかなり荒いのに気がついた。

「祐二? ちょっと、本当に大丈夫なの? だいぶ苦しそうだね」

 祐二は肩で息をしていた。抱き合っているとはっきりわかる。

「……ちょっと痛いけど……すぐ治る。大丈夫だから……俺はもっとおまえに謝らないと……恵美、ごめんな……俺はおまえの夢を壊した。だけど、俺は、おまえが好きだ。おまえが俺の傍にいてくれるなら、俺は、どんなことがあっても……おまえを……」

 祐二の腕の力がふっと抜けた。

「祐二?」

 あわてて体を起こした恵美は、息を飲んだ。祐二は眉をよせたまま目を閉じていた。水で濡れた祐二の傷口から垂れた血が、寝そべっている岩を染めていた。恵美は身震いした。

「祐二! ねえ! 祐二ったら!」

 横になっている祐二。ぐったりとした体に血の気のない青い顔。その瞼は固く閉じられている。恵美の心臓が凍った。恵美は祐二の肩をつかんで揺さぶった。恵美の方を向いて横向きになっていた体は、恵美の力で簡単にあおむけにされ、腕がぱたりと岩の上に落ちた。恵美の口から恐怖が招いた悲鳴が飛び出していた。

「いやあぁ! あぁ……傷が……どうしよう……祐二! しっかりして、祐二! 誰か、誰か助けて! 誰かー」

 登山道から外れている誰もいない山中。滝の音だけが恵美の叫び声を受け止めていた。





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