第十八話 決心
「恵美? もう行くのか? 危険だから勝手に出て行くな。ちゃんと送ってやる。近道を案内してやるよ。ただ……俺がまともに動けるようになるまで、もう少しだけ休ませてくれ」
恵美は目をそらしたまま、小さな声で言った。
「もう……ここにはいたくない。これ以上……」
祐二があわてて腰を浮かせた。傷口はまだ開いていた。
「待てよ。それなら今すぐ送っていく」
「ついて来ないで。ここまでの道ならよく知っているし、あたしはひとりでも大丈夫だから」
「金はないぞ。人里へ出てどうする気だ」
「警察まで歩いて行って、実家へ連絡してもらうつもり。親に迎えに来てもらって北海道へ帰る。お金がなくても大丈夫」
「そうか……」
恵美は、人の姿に変わり、入口付近に置いてあった『森神祐二』と名の書かれたザックから着替えを取り出した。その中には、恵美用のTシャツとハーフパンツ、それにサンダルまできちんと入っていた。すべて、祐二が用意してくれていたものだ。下着まではないが、そんなことはどうでもいい。恵美は、それを身につけると、穴から外へ出た。
「恵美、気をつけろ。滑るぞ」
後ろから祐二の声がしたが、振り返らなかった。
穴の外は急斜面で、降りにくかった。来た時は、何とも思わなかったが、そこは人が歩くようにはできていない地形だった。ゴツゴツした岩の間に木々が割るように生え、木の枝に体がひっかけられる。恵美は木の間を、足場を選びながら、ゆるりゆるりと降りて行った。歩きにくいサンダル。これも祐二が盗んだ物かもしれない。新品ではなかった。今さら、このサンダルや服はどうやって手に入れたかなどと、聞く意味もない。
穴から出て少し降りたところにある、平坦になっている場所は、名もない滝の上。すぐ足下で豪快な水音を発てている滝は、落差五メートルほどで、水量は豊富だ。滝壷は深く広く、透明で澄んだ水底は深い場所では緑に見える。そこは、恵美と祐二が親しくなってから、行水をしてふざけ合った場所だ。誰も入って来ない、登山道から大きく外れた、二人だけのお気に入りの場所。夏でも涼を感じさせる滝の周りは、大岩がごろごろところがり、木々が緑の手を伸ばすように覆いかぶさっている。人の手の入っているものは何一つない。
恵美は後ろを振り返った。祐二は人の姿ですぐ後ろに付いて来ていた。服は着ていない。たくましい体は、未だ止まらぬ血で汚れ、目を覆いたくなるような痛々しい肩や腹部に、恵美は視線をそらした。姿を変えても傷まではなくならない。
「ここで……もう……(さよなら)」
恵美の乾いた唇から、決心した言葉が出た。小さな音でやっと喉を通った言葉は、流れ落ちる水の音で、全部は祐二の耳に届かなかったが、祐二は理解したようで、ハッと眉が震え、唇がゆがんだ。
「恵美……恵美! 本当にここからひとりで行くのか」
恵美は目を合わせようとはせず、首を縦に振った。目の前の川は、すぐ眼下にある滝壷へ引きずり込まれるように、途切れなく流れ続けている。ザアーッと水が絶え間なく落ちる音に、思い出がよみがえった。
『おいっ、恵美も行水しろよ。気持ちいいぜ』
祐二はTシャツを着たまま、ズボンだけ脱いで、水に体を浸していた。
『やだっ、あたし着替え持って来てないもん』
『俺もないぜ。乾かせばいいだろう? 来いよ』
『キャッ!』
恵美は服ごと水に引っ張り込まれていた。深い水に首までどっぷりつけられ、水の中できつく抱きしめられた。
『気持ちいいだろう?』
『ひぃー、冷たい! ちょっと、祐二、よく平気だね。放してよぉ。あたし、こんな冷たいの我慢できない』
『いやだね、逃がさない』
祐二の手を振りほどいて、浅い場所へ逃げようとした恵美は、今度は顔まで沈められ水中で唇を奪われていた。
『ぷはー、ちょっとぉ!』
『へへっ、唇、いただきぃ!』
『もうっ! 靴まで濡れちゃったよ。髪の中まで水が入っちゃったじゃない。よくもやったわね! そんなに水が好きなら、どんどんかけてやるわよ』
『こらっ、やめろよ、目に水が入る』
頬を染めて、笑顔で水をかけ合った。飛び上るほど冷たい山の水が、すぐに蒸発しそうなほど、二人は心も体も熱くなっていた。
あの時と同じ場所。こんな別れが来るとは思いもしなかった。
「祐二……あたし……」
恵美はゆっくりと顔をあげ、祐二と視線を合わせた。これで最後。もう会うこともないだろう。ここへ戻って来ることは一生ない。それでいいとわかっていても、たまっていた涙が、重さに耐えきれず、恵美の目から地面に落ちた。
死にかけの男を許せずに捨てて行く。感情も思い出も、すべて握りつぶして。
「あたしね、あの時ここではしゃいだみたいに、楽しいままがよかった。祐二にだまされているって、なんにも気づかず、一生を過ごしたかったな。死ぬまで……祐二と……」
「恵美……」
祐二は軽いためいきとともに恵美を見つめた。
「悪かった。俺は自分の気持ちを表すことだけで精一杯だった。これで最後になるなら、人里まで送って行くよ。ここからおまえひとりでは危ない。そうさせてくれ。頼む、恵美……」
祐二の透明な瞳。それは涙で満たされていた。あふれ出そうになっていても、それ以上涙を出すまいと、必死でこらえて眉を寄せる祐二。
――祐二……初めて見た。祐二が泣いている……祐二が……人をだますような冷酷な男が泣いている……だからどうだと言うの? あたしは……あたしはもう決めたんだ。祐二とは別れるって。迷ってはいけない。決めたんだから。人殺しとは暮らせないって。
恵美はまた揺らぎそうになる思いを抑え込んだ。これ以上、祐二の顔を見ていると別れられなくなる。熱く幸せだったあの頃。二人の思い出が未来につながることはない。ただの思い出と化して、いつか自分の中で風化していくだろう。恵美は涙の瞳を伏せた。
――あたしは祐二を好きだった……それはもう過去になった。祐二が、祐二が……あたしに嘘をついたから……
「……あたし……本気だったよ……本当に祐二のお嫁さんに……なるつもりだった……さよ……なら……っ……」
恵美は、祐二に背を向け、山肌を蹴ってダッと滝の上から滝壷へ飛び込んだ。水に受け止められる衝撃とともに、祐二の絶叫が聞こえたような気がしたが、滝の音と、飛び込んだ水音ですべてはかき消された。
――水が前ほど冷たく感じない。あたしは人ではなくなった。いくら人の姿をしていても、もう人ではない……こんなの嫌……
恵美は落ちた水の中で目を閉じた。