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第十七話  心の天秤

 昼間も暗い深い森。名もない滝の上の、急斜面の崖にある小さな穴から入った暗い洞窟の奥。トラックのタイヤほどの大きさの、その洞窟の入り口は、木々が枝をさしのべて隠され、穴が開いているようには見えない。

 そこが、山の中にいくつもある祐二の隠れ家のひとつだった。もちろん、中は真っ暗で、家具も電化製品も、何もない。置いてあるのは、祐二が山へ行く時にいつも持っていた、ザックや水筒など。他に荷物らしいものはない。洞窟内は天井は低いが、人が数人座り込むことができるほどの広さがある。

「もう泣くなと言っているだろう。俺は大丈夫だから」

 恵美の目の前には、あの古家の庭で見た巨大な黒蛇がいた。黒い蛇――祐二の正体。黒蛇の体は血まみれだった。体の真ん中辺りの鱗に大きく引き裂かれた傷ができている。祐二は、傷を癒すため、自分でぺろぺろと舐め続けている。

「祐二、ごめんね……あたしが、勝手に逃げだそうとしたから……」

「いいって。こんなのすぐ治る。俺がおまえを無理やり連れて来たから、おまえが逃げようとするのも無理ないよな。やはり俺は人間じゃないから、人間の気持ちには疎いようだ。おやじもこんなふうに、おふくろに逃げられたに決まっている。恵美がどうしても俺と一緒が嫌で、本気で人間として暮らしていくつもりなら、後で町まで送って行ってやる。俺が動けるようになるまで、少しだけ待ってくれ」

 恵美は、悲しく目を閉じた。祐二を見ていると、涙が出てきそうになってしまう。


 恵美の脳裏に、つい先程の突然の衝撃が、鮮やかな色を伴って流れた。飛び散る白と茶色の羽毛。黄色い鳥の足についた、曲がった黒い鈎爪が、祐二の黒びかりする体から、赤い部分を出す。もつれ合ってころがり、噴き出した赤い血が、埃っぽいベージュの土を染めあげ、紫じみた黒へと変えた。

 あの時、シュッという音と同時に、何かに胴体を捕まれたと思った。ハッと気がつけば、鷲と死闘を繰り広げている黒蛇姿の祐二が目の前にいた。



「この姿では危険だとわかっただろう。人里へ出たいなら、人に姿を変えて服を着ろ。そうしないと、またこんな目に遭う。おまえが着られそうな服を、ひと組だけそのザックの中に入れておいたから、それを着ていけ。俺と一緒に暮らすのが耐えられないなら、俺はもうおまえを追わない。だから、二度とあんな無茶をするな。敵は鳥だけじゃない」

 落ち着いた祐二の声。怒っている素振りは全くない。恵美は閉じていた目を開き、傷をいやしている祐二を目に映した。暗い洞窟でも今は、はっきり物が見える。

「本当に大丈夫なの? 思いっきりやられてるよ。これじゃあ、祐二死んじゃうよ……」

「俺はこんなぐらいでは死なない」

「傷、痛い?」

「たいしたことない。心配するなって言っているだろう。おまえだって、少しは怪我しているじゃないか」

 祐二が傷をなめている姿を、恵美はぼんやりと見ていた。祐二は痛いとも苦しいとも言わなかった。裂けて開いた大きな傷。その他にいくつもある、くちばしにつつかれた深い痕。痛くないわけがない。それでも苦痛の声をもらさない。命にかかわる傷ではないのかもしれないが、深手を負っていることは間違いなかった。この穴までたどり着くのもやっとだったのだ。


 祐二……許せない嘘つきの泥棒の男。誰よりも好きなのに、人殺しをした男。自分を死ぬほど愛してくれている男。ただ、彼は人間ではなかった――


 また恵美の目から静かに涙がこぼれた。

「祐二……」

 次々に湧いてきた涙で視界がかすむ。目の前にいる男は命をかけて自分を守ってくれた。嘘つきでも、泥棒でも、人殺しでも、恵美を思う気持ちに偽りはないのかもしれない。きつく巻きつかれて抱かれた、三日目の夜の記憶。


『俺はおまえの為なら何でもする。俺と生涯をともに……』


 恵美は、祐二の姿を今度はじっくりと眺めた。祐二の傷はなかなかふさがらない。恵美のせいで大怪我をしている。もし、今ここで自分が祐二を捨てて行けば、そのまま死ぬかも知れない。恵美は心を落ち着けようと、深く息を吸った。

 この状況を招いたのは祐二本人。恵美をだますようなことをしたからこうなっている。感情を抜いて、ここは冷静に考えなければならない。

 心の天秤が揺れる。祐二を許すか、許さないか――



『逃げろ、恵美!』


 パニックになっていた頭に響いたあの声。自分が身代りになろうとした祐二。裂けた体から流れる血。恵美は祐二から目をそらした。

 こんなに自分を守り、愛してくれる男がこの世に他にいるだろうか。たとえ、彼が卑怯な方法で、人間でない体にしたとしても。

 心の天秤は許す方へ傾いた。しかし、今度は自分の中の別の声がさわぐ。


 この嘘つき男は、自分をこんな体にした。許せない。人間の社会的にも許されない人殺し。このまま突き放して死んだとしても、誰も困る者はいない。


『おまえなら俺と一生一緒にいてくれるんだろう? 俺がどんな男でも』


 あの言葉にうなずいたとおりに、本気でどんな男でも付いて行こうと思った。自分を手に入れる為に、他人の家や、嘘の仕事、偽の友達まで用意した祐二。故意でなかったとしても、祐二は殺人犯。その罪は生涯消えることはない。それも恵美の為だと……恵美の為にやむなくひったくりをして、たまたまそうなったのだと……


 ――あたしは、そんなこと頼んでない!


 恵美はギュッと目をつぶった。自分の為に人が殺された。殺したやつが今ここにいる。


『俺は……どうしてもおまえが必要なんだ。恵美……俺と一緒にいてくれ……』


 自分に都合のいい言い訳。どう転がっても許せるわけがない。祐二は人殺し。被害者が生き返ることはない。人ではない以上、人として罪に問われ、裁かれることもないわけで……

 ゆっくりと目をあけ、祐二の姿をもう一度見る。祐二は恵美の方を見ずに、ずっと傷を舐め続けている。心の熱は冷め、暗い考えが頭を占めた。天秤は、今度は許さない方にズズッと重く傾いた。

 恵美は唇をかんだ。許す、許さない。いや、彼のやったことが許されるか、許されないか。許してしまっていいのか。自分中心に何でも考えているこの男のすべてを簡単に許し、この状況を受け入れ、ここでのんびりと暮らしていていいのか。


 ――――否!


 それはわかっている。彼の罪は消えない。彼は許されるべきではない。でも……

 天秤がまた揺れる。


『俺はさみしかった』


 両親を亡くしてひとりきり。本当にさみしかったのだろう。それなら、自分が祐二と一緒にいてやりたい。自分がいることで、祐二が満たされ、自分の心も温められる。祐二を愛している。彼の支えになりたい。それが自分の生きる喜び。

 天秤は逆転し、許す方に傾きかけた。しかし、また天秤が反対方向へ引っ張られる。

 

 恵美が黙って許せば、祐二とずっと穏やかに暮らしていけるのかもしれない。人ではない者同士で。しかし……本当に簡単に許してしまっていいのだろうか。心の中の冷酷な部分がまたもや、頭をもたげ、だまされたことの悔しさに火をつける。

 

 自分勝手な人殺しには天罰を。こんな体にしたにくい男など、この穴でのたれ死ねば――それが彼の刑。嘘をつき、人を殺したことへの罪の罰。祐二は死んで当然だ。人殺しだから。被害者の女性が苦しんだのと同じだけ苦しんで、死ななければならない。たったひとりで。この暗い穴の中で。恵美に捨てられて。すぐに死なないにしても、生涯孤独を味わえばいい。それが彼への罰。

 

 天秤は許さない方に傾き、ピタリと止まった。


 ――祐二……あたし、祐二にはついていけない。もう会えない。会わない。あたしは本気だった……素朴なやさしさに惹かれて……あたし、ちょっと幸せだったかも。何も知らないままでいられたなら……


 恵美は、黙って祐二に背を向け、潤んだ目をしながら、ゆっくりと入口に向かって動き出した。




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