第十五話 祐二の真実(2)
「人間の姿をしている時は、人間の男と同じだ。人間の姿でおまえを抱くことはできる。でも、俺は人間じゃないんだ」
「嘘つきはいや」
「嘘じゃない。見ろ」
祐二は自分の右手の爪で、左手の腕の内側をガッと大きく引っ掻いた。十五センチほど皮膚が薄く破れ、血が出始めた。
「ちょっと、祐二!」
「俺が人間じゃないってことを、見せてやっているだけだ」
祐二は自分で傷つけた手を、長い舌で、ぺろぺろと舐めた。傷はみるみるふさがり、どこにあったかわからなくなってしまった。
「傷が……なくなった?」
「これでわかっただろう。俺が今言ったことはすべて本当だ。明日、ここを出て行こう。家も金もなくても俺たちは生きていける」
「……それなら、結婚式に来ていた人達は、みんな人間じゃないの?」
「あれは人間だ。実は、便利屋に頼んで人を集めてもらった。あいつらは友達でも知り合いでもない。ただのバイトだ」
「あの人たちが便利屋の人? 祐二はあの人たちにお金を払って友達をやってもらった、って言うの? そのお金、もしかして……」
祐二は黙って恵美を見た。祐二の目は無言の肯定を示していた。祐二は、恵美からもらったお金で人を雇ったのだろう。恵美に疑いを持たせないように、恵美と結婚式を無事に挙げるために。
結婚すると決めた時、結婚式など必要ない、と祐二は強く反対した。式を挙げることは、花嫁姿に憧れていた恵美の昔からの夢だったので、祐二は恵美に負け、安く済む教会で式だけを挙げた。結婚披露宴も、新婚旅行もなし。
確かに、祐二の招待客はごく少なかった。祐二には両親も兄弟もいないので、身内が少ないのはわかるが、新郎の招待客が全員借り物だなどとは信じがたい。しかし。
便利屋田中――祐二の携帯に残された発信履歴。
恵美は、汗ばんだ額に張り付いた髪をかきあげた。祐二は確かに便利屋に電話をしていた。そうすると、結婚式の二次会に来ていた、祐二の友人達も全員が便利屋のバイトだったというのか。どの男も、いかにも祐二と親しげに話し、ニヤニヤと笑っていた。
「ねえ、本当に、結婚式に来ていた人たち、便利屋の集めたバイトだったの? 祐二の友達じゃないの?」
「ああ、そうだ。俺には友達などいない」
乾いた祐二の声。どこかさびしげだった。
「そんなの……」
恵美は眉を寄せ、奥歯をごりごりとかみしめた。何も知らない花嫁をやっていたと思うと、自分が悲しく、むなしく、脱力するよりも前に、怒りの炎が吹き上げる。祐二の友人たちに気を遣い、にこにこと話をした自分がなさけない。
恵美は、また首を横に激しく振った。
「嘘つきの泥棒! あたしは絶対に、祐二の奥さんになんかならないから」
「恵美、俺の為にすべてを捨ててくれ。物は何もいらないんだ。携帯電話も、結婚指輪も、全部ここへ置いて行けばいい」
祐二はそう言いながら、自分の結婚指輪をはずし、枕元においた。
「いや! あたしは、まともな人間の祐二が好きだったの。泥棒なんていや!」
「花嫁姿に憧れていたおまえの願いをかなえる為だった。そうでなければ、危険を冒してまで泥棒なんかしない」
「人の物を盗らずに、自分で稼げばよかったじゃないの。ま、人の物を盗んでいる方が簡単にお金が入るから、働く気なんかなかったんでしょ」
「簡単に働けると思うな。俺は身元を証明できるものは何もないんだからな」
「だからと言って、やっていいことと、悪いことがあるでしょう。泥棒なんてさ。最悪!」
恵美は、思いきり憎悪をこめて祐二をにらみつけた。祐二は、そんな恵美の怒りをスーッと吸い込むような、穏やかな表情をしていた。
しばらくそのまま沈黙が続き、また虫が奏でる音だけとなった。やがて、恵美が目をそらしてうつむくと、祐二はそれを待っていたかのように、声をかけた。
「恵美、俺がほしいのはおまえだけだ。何も物はいらない。人として暮せないことはないが、俺にとってはそれは大変なことなんだ。人の世界は、いごごちのいい場所では決してない」
祐二の静かな口調。恵美はつっかかる気力もなくし、元気のない声を絞り出した。
「あくまでも自分は人間でないって言い張る気? じゃあ、なんで人の言葉を話せるのよ。祐二の嘘つき」
「今、俺が話していることは、すべて本当だ。嘘はひとつもない。俺は、人の世界で暮らしていたことがある。俺のおふくろも人間だった。俺のおふくろは、おやじと結ばれ同じものになり、共に車にひかれて死んだ。元々人間だったおふくろは、人としての生活が忘れられず、おやじを捨て、生まれた俺を連れて人里へ出た。おふくろは俺をひとりで育てようと、必死で頑張っていたが、やがておやじが連れ戻しに現れ、山へ戻ることになった。だが、その帰りに」
祐二は少し言葉を切った。今日は両親の話でも不機嫌にはなっていないが、声はいつもより低かった。
「俺の目の前で、おふくろたちは死んでしまい、俺はひとりで山へ帰ったが、あまりにもさびしく、数年後にまた人里へ戻った。あの時は、真剣に人として暮らしていこうと思っていた」
「それも嘘でしょ。もうどうでもいい」
恵美が無気力に返した。
「そう言わずに、全部聞いてくれ。俺は人になりきるため、人と同じものを食べ、ホームレスとして、橋の下に作った段ボールの家で暮らした。同じホームレス同士で、人間の仲間もでき、日雇いの仕事をすることを覚えた。やつらは、字もろくすっぽ読めなかった俺が、かわいそうな記憶喪失の若造だと思ったらしい。俺に同情し、警察や役所へ相談しろと、連れて行ったもらったこともある。でも、俺はどうしても人間の世界にはなじめなかった。人としての常識がわからない上、ひげも伸びない俺に、仕事仲間もそのうちに気味悪がって、俺はまたひとりになった。人間として暮らした経験から、人の字もある程度読み書きできるようになったし、すべてが金で支配されている世界だってことはよく知っているんだ。どれだけ働いても、金はなくなっていく。人間の世界は、金がないとどうしようもないんだよな。人の金を盗むのは悪いことだとわかっていた。だけど、どうしても金の必要に迫られてやむをえなかった。すべては、恵美、おまえの為だった」
「そんな……やっぱりそれも嘘だよね? 作り話がうますぎて、どれが嘘で、何が本当かわからない。もう嘘はいや。人間じゃないって言うんなら、何なの? 人間の姿しているじゃないの」
「本当はこんな姿じゃない」
「人間じゃない仲間が他にいるわけ?」
「この近くには、今はもう誰もいない。皆、それぞれにテリトリーがあり、住み分けしている。他のやつには長年会ったことがないから、もしかすると、皆死んだかもな。今、この辺りにいるのは俺ひとりだ。今から、俺の本当の姿を見せよう。三日目の夜が終われば、恵美は俺と同じ姿になれる。また人間の姿になろうと思えば、いつでも戻れる」
「あたしに妖怪かなんかの仲間になれ、って言うの? いや、いや、いやぁ! そんなのいや! あたし、北海道へ帰る。祐二とは一緒にいたくない」
「もう遅い。おまえは俺と二晩過ごした。おまえの体の変化は止められない。今日で完成する。恵美……おいで……これは俺の一族の結婚の儀式なんだ」
祐二は、恵美の方へ這うように寄ると手を伸ばした。恵美はとっさに腰を引いたが、祐二はぐっと手首をつかんで、恵美をふとんの上に組み伏せた。
「いやあぁぁぁ!」
押さえつけている祐二の手はあいかわらず冷たい。
――人間じゃない……
祐二が見下ろしている。透明な目の色。ティーカップの中で揺れる紅茶のようであり、琥珀にも見えるそれ。きれいな目だと思っていた。あまりにもきれいすぎた。
――この人は本当に人間じゃない……
低すぎる体温。彼を見るとどの犬も激しく吠えた。どうして気がつかなかったのか。
――祐二は絶対に人間じゃない!
恵美の全身に鳥肌が立った。
「祐二……はな……し……て……あ……」
突然、目が開かなくなり、声が出せなくなった。今日は意識が眠っていないので、目を閉じていても、何をされているかはわかる。冷たい手で、服を取り払われている。目や声が思い通りにならないだけでなく、手も足も硬直していて全く動かせない。二晩続きのあの悪夢と同じ状態。素肌にされてしまった体。
ざらり……。全身の皮膚をなでるように虫が這う。いや、虫ではない。虫と言うのは大きすぎる。これが祐二? 重く、苦しく、窒息しそうな状態にさせられている。目を閉じたままで、必死で声を振り絞ると、空気だけの小さな声が、唇からもれた。
「……や……くる……し……」
「恵美……もう少しだから……ちょっとがまんしろ……」
首筋に、肩に、吐息とともに触れる祐二の舌。唇を割って入ってきたそれは、あいかわらず冷たい。身もだえしても、ほどけない体の呪縛。これが祐二。生涯を共にすると誓った男の正体。二晩連続した悪夢の元。こんなことを三晩続ける為だけに、たくさんの嘘をついたというのか。冷たい祐二に包まれた体が震えた。
「……い……や……」
「恵美……恵美、泣くな。俺はおまえが好きだ。おまえなら俺と一生一緒にいてくれるんだろう?」
大好きな祐二の声。しかし、その声は、もはや喉から出ている声ではない。頭に直接声が入ってくる。
「なあ、恵美。俺がどんな男でも、俺が殺人犯でも、一緒に逃げてくれるんだろう? そう言ってくれたじゃないか。俺、本当にうれしかった」
――え? 『殺人犯でも一緒に逃げてくれる』って……それって……
意識がもうろうとし、真っ白に覆われてくる思考回路の中で、今の、祐二の言葉が不気味にひっかかった。ひとつの考えが今、恵美を占める。殺人……人殺し……ひったくり犯に殺された女性のニュースが、ぼやけた頭の中で、強い光の点滅を繰り返し、急に鮮やかに浮かび上がった。すぐに治った祐二のひっかき傷。盗んだお金で買った食料品。
――盗んだお金。誰から? 誰のお金だった?
「ゆう……じ……誰の……た?」
からめ取られた苦しい息の下で、ようやくそれだけ言葉が出た。祐二は、首筋に舌を這わせながら、言葉を頭に送ってくる。
「どこまでも俺と逃げてくれるよな? 俺は人間に言わせれば、化け物だ。あやかしとも言われる。人間のように年を取らず、人の寿命よりもはるかに長く生きる。俺はおまえと同い年じゃなくて、おまえの何倍も生きている。俺は本当にさびしかった。だから、誰かそばにいてくれそうな人間を探した。それが恵美、おまえだ。俺はおまえに会いたくて、また出会おうと、人間の姿で山をうろついていた。俺はおまえの為なら何でもする。恵美……俺と生涯をともに……」
恵美の体はさらに、祐二にきつく締めあげられた。閉じた目の隅からあふれ出る涙。祐二の言葉を聞くよりも、今、心を暗く覆い尽くす推測を、恵美は必死で声にした。
「あたしの……為に……ゆう……ひった……た?」
――盗んだお金……もしかして、ひったくって盗んだ? あの日、着替えて帰ってきた祐二。
『犯人は、黒っぽいTシャツにジーンズをはいた男』
ひったくりの殺人犯のことは、そう報道されていた。あの日、祐二が着ていたのは紺色のTシャツにジーンズだった。紺色……黒っぽい色の……
『本当に俺が犯人だったら恵美はどうする?』
『殺人犯だぜ』
心が雷に打たれ、叫び声をあげた。手足が動かせない体は、息を吸うことすら苦しく、悲鳴はかすれた空気として喉をぬけた。
「ゆう……じ……が……ひとを……」
消せない罪への確信を、絶対に違うよね? と心が否定する。祐二がそんなことをするわけがない。たまたまあの日ひったくり事件があった日に、祐二が紺色のTシャツを着替えて帰ってきただけ。祐二は事件とは関係ない。これは悪い夢の続き。この家は祐二の家。祐二は設計士で……
違う。今のこれが現実。震える唇が、これは身も凍るような真実だと確信した言葉をつぶやいた。
「ゆう……が……ころ……した……」
「俺はどうしてもおまえが必要なんだ。恵美、俺と一緒にいてくれ。恵美……」
祐二はさらに強く恵美を抱きしめ、恵美は意識を失った。