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第十二話  暗雲

 一瞬、携帯が壊れている、そう思った。故障してデータが消えているのだと。しかし、おかしいとは思えない。何度開き直しても、祐二の携帯のアドレス帳には、会社の連絡先はなく、友人の名すらもない。恵美は信じられない思いに、おさまりかかっていた胸の鼓動が再び高まってきた。

 祐二に友人がいないわけがない。結婚式には祐二の友達も来ていた。祐二は自分の携帯電話の番号を誰にも教えていなかったのだろうか。

 納得がいかず、悪いと思いながらも着信履歴や通話記録なども調べた。着信履歴には恵美の名と携帯会社からの連絡ばかりが、削除されずに残っている。通話履歴と、発信履歴には、恵美の名の他に、見知らぬ番号が一つだけあった。発信履歴に残っているということは、祐二から掛けた、という証拠。この番号は友達かもしれないが、会社の可能性もある。

 会社ではないかもしれないが、確かめてもいいと思った。ピッと発信。期待して待つ。

祐二の勤め先、AA設計事務所です、という相手が出てくれることを期待したが――

「はい、お電話ありがとうございます。便利屋田中です」

「すっ、すみません、間違いました!」

 ――違った……

 慌てて通話を切った。思わず不満が口から飛び出す。

「便利屋にかかっちゃったじゃない。どういう使い方をしているの」

 祐二がこの携帯からかけたことがあるのは、恵美と便利屋だけ。こみあげた疑問がぶつぶつと口から出る。

「なによ、会社の電話番号がなんで入っていないのよ」

 自分でそう言ってみて、ハッと気がついた。 

 ――まさか、祐二の会社は、本当は便利屋?

 急にわき出した疑問を自分で打ち消す。

 ――ばかな。

 祐二は設計士だから、便利屋で働いているわけがない。祐二のこの携帯は、ほとんど使われていないから、たぶん、会社から携帯電話をもらっている。彼は会社名義の携帯を持っているに決まっている。そうでなければ、自宅で仕事なんてできないはずだ。

「こっちはあたし専用だから誰も登録してないんだ……あたし、祐二の会社の電話番号の登録をきっと間違えたんだ」

 自分がAA設計事務所の番号登録を間違えた、そう思えばすっきりする。登録した時、番号はしっかり確認したつもりだったが、祐二が言い間違えたか、あるいは、会社の電話番号が変わったのかもしれない。しかし、困った。どうしても今、祐二と話がしたい。

 恵美は、インターネットでAA設計事務所を調べることを思いついた。ところが、携帯でいくら検索しても出てこない。どうやら、AA設計事務所はホームページを作っていないらしかった。これでは、電話番号どころか、住所もわからない。住所が大体わかれば、電話会社に問い合わせて、電話番号を調べることができただろう。

 またもや落胆したが、あきらめず、もう一度、祐二の携帯を手に取り、今度はアクセス履歴を調べた。そこに残っていたのは、先ほどの便利屋のホームページと、出社不要の仕事を紹介するページが複数、そして、もう一つ残っていたのは、設計士の仕事を説明するページだった。

 ――設計士の祐二が、設計士の仕事説明のページを見ていた。なんで?

 嫌な考えがよぎるが、またもみ消した。祐二の携帯をちゃぶ台の上に静かに置いた。

 ――あたしはどうかしている。祐二は、本当は便利屋で、設計士ではないなんて、そんなわけないじゃない。でも、なんで出社不要の仕事のページを見ているわけ? 収入が足らないってこと? 副業を考えているかもしれない。祐二は私に教えてくれたお給料の額をきちんともらえていないのかも……

 心の隅から、黒い汗がじわじわと湧き出してきた。しかし、すぐにそれを角に追いやった。

 ――そんなことはない。祐二が私に嘘をつくわけがないじゃない。ばかばかしい。祐二がどんなホームページを見ようと、祐二の勝手。

 肩の力を抜き、畳の上にゴロリと横になった。汚いしみ天井を見上げていると、出合って間もない頃に交わした会話を思い出した。



『あたし、いつも東京からこの山に来ているの。新宿にある印刷会社の事務所で働いていてここは結構遠いの。祐二さんの家はこの近くなんでしょう?』

『近いと言っても、歩けば結構あるよ』

『いいなあ、こんなのどかな場所が近いなんて。こんな田舎でよく仕事があったね。どこで働いているの?』

『恵美さんは俺の仕事が気になるの? へへ、内緒……俺のこと気にしてくれてるんだ』

 祐二は、付き合いだしても長い間、何の仕事をしているのか言おうとはしなかった。



『恵美……俺、恵美の事が好きだな。恵美といると楽しい』

『あたしも祐二といるとなんか落ち着くって言うか、安心できるっていうか……』

 すっかり親しくなってからは、山中で肩を抱き寄せ合い、そんな会話もした。

 その時に確か――

『あたし、祐二のこともっといろいろ知りたいな。何の仕事しているのか、教えて』

『俺の仕事? 恵美にとって、それは大事な事か? じゃあ、来週も恵美が、俺とこの山でデートしてくれたら教えてやる』

 その次の週に会った時、確かに設計士をしている、と祐二は言った。恵美が、それはどんな仕事かと尋ねたら、祐二は調べてきたかのようにすらすらと答えた。 

『打ち合わせさえきちんとすれば、家で仕事ができる。もちろんずっと自宅というわけにはいかないけど』


 恵美は、その時のことを思い出し、はっ、と息を吐き、もう一度そこに置いた祐二の携帯を横目で眺めた。思いがぼそりと言葉になる。

「祐二……まさか……」

 真夏の心に寒い風が吹いた。徐々に大きくなってきた暗雲は、恵美の中で重く垂れこめ、疑いの雨が降り始めた。


『打ち合わせさえきちんとすれば……』


 祐二はあの時確かにそう言った。

 設計士……細かい打ち合わせが必要な仕事。どう考えても、自分から電話もせずに成り立つ仕事ではない。自宅に持ち帰って、自分の部屋でできる作業もあるだろう。それでも、会社と連絡を頻繁に取り合わないわけにはいかないはず。

 もう一度、祐二の携帯電話を開いて中身を調べた。やはり発信記録には、恵美の番号と便利屋の他には何もない。恵美はフッと軽く笑った。

「あたし、何をバカなこと考えているんだろう……祐二の会社の電話番号がわからない、っていうだけじゃない。たいしたことじゃない。これはあたしが買ってあげた携帯であたしが料金を払っているから、祐二は遠慮して、あたし以外には使わないんだ。そうに決まっている」

 自分を納得させようと声に出して言ってみた。ひとりの家に、その声を聞く者は誰もいない。外からはシャワーのような蝉の声。古い家屋に吹きわたる田舎の風のざわめき。それは快適を通り過ぎ、心の波を起こし、冷たい汗をかかせた。




『ありがとう、恵美。本当にこんな高価な物をもらっていいのか? 俺、携帯電話って持つの初めてなんだ。使い方教えてくれ』

『祐二は今どき珍しいよ。よく普通の電話もなしで生きていられるね』

『会社が同じビルだから、必要ないんだ』

『でもね、携帯は一度持ったら手放せなくなるよ』

『そうかもしれないな。俺からは何にもお返しできなくて悪い』

『山のガイド料だと思っておいてよ。あたし、案内させてばかりで、何のお礼もできなかったから、これは感謝のしるし。料金はあたしが払ってあげるから安心して』


 あの時、祐二は携帯の使い方も知らなかった。時々充電しないと使えないことすら。固定電話もない、と祐二が言うので、恵美が携帯を買ってプレゼントした。しかし、本当にこれは恵美専用の携帯電話だったのか。携帯電話をぎこちなく操作していた祐二を思い出す。

 あの時の様子を思い出す限りでは、祐二が他に携帯を持っているとは思えなかった。少なくとも付き合い始めた時には、絶対に会社の携帯電話など持っていなかった。祐二がこの携帯電話の通話履歴などを削除したとも考えられるが、恵美といっしょにいる時、祐二が携帯電話をいじっているのを見たことはなかった。祐二が誰かにメールをしているのも、もちろん記憶にない。

 手のひらが汗ばむ。気温が高く蒸し暑いのだ。しかし、それだけでなく――

 ひとつの恐ろしい考えが、汗ばんだ頭皮から染み出した。


 ――祐二はたぶん会社の携帯も持っていない。それでは設計士の仕事なんか絶対にできない。祐二は設計士ではなく、AA設計事務所とは連絡は取っていない。もしかしてそんな会社はもともとないかも……昨日も今日も、祐二は会社へ行っているのではなく……


 ありえない考えに、頭を振ってすべてを振り払う。

 ――祐二が帰ってきてくれさえすれば、すべてはっきりする。この家の権利書もどこにあるかわかるし、会社の電話番号も。

 深く息を吸い、呼吸を整えていると、あの自称家主の怖い顔が目に浮かび、落ち着きかかった頭を、また混乱に引き戻した。


『明日、取り壊しが始まる時にいたら、警察に通報してやる』


 暑さの中で自分の背中が汗で冷たい。真冬の行水のように身震いした。

 ――権利書がなかったらどうしよう。明日追い出される。警察に通報されるって……これは犯罪だってこと? 何がいけないの? あたしたち、何にも悪いことしてないよね? あのおじさんはどうして、いきなり来てあんなことを言ったの? ここは祐二の家じゃないの? この家を買ったんだって、案内してくれた。祐二、信じていいよね?

 恵美はふとんを敷きその上に横になって、汚い天井を見上げた。張り合わされている天井板は、反って、つなぎ目が黒い口を開けている。それを目に映しながら、考えれば考えるほど、渦が巻いてくる。携帯のことだけでなく、この家のことも。

 ――もし本当にこの家が祐二の家じゃないとしたら、祐二があたしに嘘をついたことになる。

 祐二は、両親が住んでいたマンションを売って、全財産をはたいてこの家を買ったと恵美に言った。それで婚約指輪を買うお金もなくなったと。恵美は、祐二が家を用意し、しかも、家具や電化製品まで全部もらう手配をしてくれた為、その運送代と、挙式の費用のすべてを負担した。それで当り前だと思っていた。

 ――祐二はあたしをだましたってこと? だとしたら、なぜ?

「違う! 祐二はあたしをだますようなことはしない! 祐二、お願い。信じさせてよ。あたし、暑さでおかしくなってる。早く帰ってきてよ。バカ、いつまで仕事してるの」

 天井を見上げる恵美の目尻から、涙が、つぅっ、とこめかみに入った。結婚詐欺、という言葉が頭をよぎる。その言葉は、印鑑をドスドス押すように、いくつもいくつも恵美の脳に現れた。いったん、そんな嫌な考えが浮かぶと、祐二への想いは、闇に包まれどんどん暗い沼へ引き込まれていく。


『友達の家から、家具と電化製品一式を送ってもらうから、運送代、恵美から少しもらっていい?』


 そう言われて、祐二に十五万ぐらい渡した。お金目当ての結婚詐欺? たった十五万円。もっと取る気だった?

 ――祐二はもう帰ってこないかもしれない。だからわざに携帯電話を置いて行ったかも……本当にあたしを捨てて……逃げて……

 涙の筋は、次々数を増やしていく。



『恵美……もしおまえさえよければだけど……俺と一緒に暮さないか。俺と一生をともにしてほしい……』


 あの言葉を聞いて、心から幸せだと思った。偽りだったとは思いたくない。結婚詐欺――結婚するふりをして相手をだましてお金を得る犯罪行為。……祐二は結婚詐欺師。この家は祐二の家ではない。祐二は設計士でもない。昨日も今日も会社には行っていない。そう考えると、すべてのつじつまが合う。


「いや! 祐二はそんな男じゃない!」

 静かな家の中の自分の金切り声に驚いた。大声を出した自分の愚かさに、少しだけ冷静さがよみがえった。

 ――祐二はもうすぐ帰ってくる。携帯電話は充電中だったから置いて行っただけ。きっと彼は、あの携帯電話はあたし以外には使わないんだ。彼の奥さんになったなら、信じてやらなきゃね。彼が仕事を頑張っている時に、あたしは何を考えているんだろう。どうかしているわよ。あのおじさんの毒気に当てられたんだ。

 恵美は転がったまま、ちゃぶ台に置かれた、二台の色違いの携帯電話を見つめた。

 --祐二は確かに、この家を買った、と言った。あたしたちが明日ここを追われることは絶対にない。でも……それなら、電気会社、プロパン屋、あの自称家主……あの人たちはいったい何? 言葉巧みに、あたしたちを追い出そうとしている。取り壊すって?

 古いこの家のどこを見ていても、何もかもが嘘に思えてくる。信じられるのは祐二……祐二を愛している……愛しているからすべてを信じたい……あの変なおじさんがおかしいだけ。でも。

 もし、祐二が嘘を――そして、もう二度とこの家に戻ってこなかったら――

 息を大きく吸い、寝がえりをうった。心を和ませる虫の合唱も、恵美の心の嵐を静めることはできなかった。

 祐二は夕食の時間になってもとうとう帰って来なかった。






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