第十話 訪問者(1)
翌日の朝、祐二は、今日も仕事の打ち合わせがあると言って、会社へ出かけた。恵美は、新生活に必要な物を買いそろえる為、町まで行きたかったが、今日あたり祐二の友達からもらえる荷物が届きそうなので、家を空けることはできなかった。
今日は八月末。祐二の友達はもう部屋を引き払ったはずで、今日か、遅くても明日には、待ちに待った荷物が届くだろう。荷物を置くには、掃除をきちんとしておかないといけない。掃除、といっても拭き掃除が中心になる。恵美は、掃除機ぐらいは自分の持っていたものを処分せずに、先に運んでおけばよかったと後悔していた。
広い家に今日もひとり……へこみそうになる気持ちを奮い立たせる。
「よしっ、がんばるぞ。荷物が来るまでにきれいにしなきゃ」
廊下は何度水ぶきしても、雑巾が黒く汚れる。この家は完璧に掃除しようと思うと、いったい何年かかるのだろう。
と、ゴトゴトという砂利がはじける音と、車のエンジンの音が耳に入ってきた。外を見ると、家の前に一台の車が止まった。荷物が届いたんだ! 喜んで飛び出した恵美だったが、違った。
「T電力です。お世話になっております。今日でここの電気止めるんでしたね? 明日から取り壊すと聞いています」
「えっ?」
恵美は目を丸くした。
「それはおかしいです。まだ住み始めたばっかりで……」
暑苦しい作業服姿の電力会社の男は、ん? と書類を確かめた。
「確かにこちらのお宅だと思うのですが……家主さんから正式な依頼をもらっています」
「家主さんって……」
恵美は男が持っていた書類を覗き込んだ。そこに記載されていた名は、祐二の名ではなかった。
「取り壊すはずはありません。この書類は間違っています。家主は私の主人です。この家は主人が買い取ったものです」
「名義人がかわっておられる、ということですか。では、電気は止めなくていいですね。電気代の請求先がそうすると……この書類とは違っているんですね。ご主人のお名前は……」
「森神祐二です」
「森神祐二さんですね。このお宅の名義変更はいつされました?」
「えっ……それはちょっと、私ではわからないので……」
祐二からは、恵美と結婚すると決めてからこの家を買った、と聞いている。それはいつだった、とは聞いていない。まだ半年も経っていないことだけは確実だ。
「では、いつからお住まいですか?」
「二日前からです」
「そうですか。それなら、今月はこれで請求が締め切りになりますので、この数日分だけ日割りで基本料金を請求させていただきます。前の家主の方にはこちらから連絡しておきます。請求先はこちらでよろしいですね。ご主人の印鑑はありますか?」
「あ、印鑑ですか……主人が持っているはずですが、今会社で、私ではわからなくて。すみません」
「では後日伺います」
電力会社の男は、テキパキと書類を作り、控えを恵美に渡すと帰って行った。
――ああ、驚いた……
恵美はくすっと笑いを洩らした。いくらボロ家でも、せっかく住み始めた新居を手違いで取り壊されてはたまらない。
よしっ、きれいにするぞ、と再び掃除を再開した恵美だったが、しばらくすると、今度はプロパン屋がやってきて、全く同じ事を言われた。プロパン屋も電力会社の男と同じように、おや、という顔をしたが、書類を作って帰って行った。
プロパン屋の車が帰って行くのを見送ると、恵美は、はぁ……と、玄関の板の間に座り込み、ため息をついた。
祐二の妻として、『主人が』と言うのも初めてで、喉がかゆかった。そんな言い方にまだ慣れてもいないのに、何のいたずらかと思えるような立て続けのおかしな来客で、すっかり疲れてしまった。
――もしかして、ドッキリカメラだったりして。
同じことを言った電気屋とプロパン屋。隠しカメラが仕掛けられていないだろうかと部屋中見回す。新婚の妻に次々とおかしな来客を仕向けて、その反応を楽しむテレビの企画なら、本当にありそうだ。いたずらなら、そろそろ夫の元カノ役の女が登場し、祐二と別れてくれと泣きつく、というところだろうか。
「どこかで見て、あたしを笑っているわね! 誰よ、いたずらしているのは。出てきなさい!」
返事はない。夏の虫たちの元気な声だけが、あざ笑うようにやかましい。恵美は、隠しカメラを探して、玄関戸口を隅々まで調べたが、何も見つからなかった。
「どこから見てるのよ。もうドッキリカメラってばれてるんだからね。いいかげんにしてよ」
やはり、返事はなく、開いた戸口から真夏の熱気が屋内へ入り込む。恵美は、口の渇きを感じ、カメラ探しをあきらめると、縁側に座り込んで、ペットボトルの生ぬるいお茶をごくごく飲んだ。
「もうっ、祐二は……ちゃんと電力会社とかに連絡してなかったんだ。家を買った時にそういうことはきちんと終わっていると思っていたのに。ちょっとびっくりしたけど、もうそういうのは来ないよね」
今度同じようなのが来たら、それこそ本当にドッキリカメラに決まっている。お茶で喉が潤い、ホッと息をついて縁側から庭を眺める。
緑がいっぱいの庭は心に平安をもたらしてくれる、と表現すれば聞こえもいいが、実際のところ、庭は草ぼうぼうで、手入れしていない丈の低い植木に葛の蔓が絡みつき、庭、というよりも、森林の延長、という感じだった。歩ける程度に除草してあるのは、道路から玄関に入るまでの間だけで、広い敷地内は、どこが家の端かわからないほど雑草で覆い尽くされている。敷地はおそらく二百坪以上あるだろう。もっと大きいかもしれない。その草取り、となると――
「ああ……」
恵美はため息をついた。外は炎天下。緑が多いと言っても、決して涼しくはない。あんなにも憧れていた広い庭が恨めしい。
誰の声もしないと、一人でも無性にしゃべりたくなる。
「また外は暑いから、夕方になったら、草取りしようかな。こんなに広いから、お野菜だけでなく、お花も作れそう。何を植えようかな、楽しみ」
自己満足にしゃべりながら、ペットボトルのお茶の残りを飲み干し、ふぅ、と息をついた。誰もいない。蝉の声。雀もすぐそこにいる。待ち望んだのどかな景色。生涯ここでのんびり暮らすのだ。これでいい。こんな素敵な環境。
――えっ、あれは……
視線をどこからか感じ、何気なくふっと見た先にある黒いもの。
――あれって。本物。
汗が一気に噴き出した。
「キャー!」
庭の片隅の木陰に、大きな黒っぽい蛇がとぐろをまいていた。見たこともないような太さの長い蛇だった。黒光りする太い胴体は何かを飲み込んだのか、真ん中が小皿を入れたようにぷっくりと膨れている。人間も飲みこめるのではないかと思えてしまう。蛇は、とぐろを巻いたまま、ちろちろと舌を出し、恵美を威嚇している。
自然の中の家。山からの水も近くに流れており、蛇のえさになるカエルの声もにぎやかだ。蛇がいるのは当たり前と言えば、当たり前。それでも、自分の家に大蛇が、と思うと、山慣れした恵美でも、ついつい声が出た。あわてて、縁側からちゃぶ台に走り、携帯電話に手を伸ばした。あせって震える手で蛇を撮影し、すばやく祐二宛にメールを打つ。
『恐! 巨大蛇がうちの庭に! ヒィー〜〜』
撮影した写真をつけて送信すると、すぐそこで祐二の携帯電話の着信音がした。へっ? と音のした方を見ると、祐二の携帯電話が充電コードがつながれたまま、コンセントの傍にあった。銀色の携帯電話の表面のスモールライトは、着信ありとピカピカと光っている。
「何よもう……」
一気に脱力した。気を取り直し、実家や、友達のところへ蛇の画像を送った。友達から返信がすぐに来て、携帯電話をいじっているうちに、蛇はいつの間にか姿を消していた。
「暑い……」
外は真夏の太陽がきつく照りつけている。四方八方から入って来る蝉の声がさらに暑さを呼ぶ。周囲は緑がいっぱいで、屋内の風は恵美のアパートよりもずっと涼しいが、すぐそこに大蛇が隠れている雑草だらけの庭があると思うだけで涙汗。蛇はあれ一匹だけではないだろう。あんな大きな蛇、そんなのがその辺にうようよといるのか。草取りどころじゃない。汗だくのところに、さらに大汗をかいてしまった。
夕方になり、また家の前に車が止まる音がした。今度こそ、待ちに待った荷物だ。恵美は期待して玄関に飛び出したが、止まった車はいかにも農作業用の白い軽トラで、荷台には何も積まれていなかった。ひとりで運転してきた六十歳ぐらいの白髪の男が降りてきた。
「あなたはどこの人ですか。誰の許可を受けて、ここに住んでいるのです?」
その白髪の男は、玄関に入って来て、恵美の顔を見るなり、そう言った。