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キリンの舌を笑ってやった

作者: しろねこ

 それこそキリンは紫の舌を、ボクに向かってみせつけた。バカにしているつもりかもしれないが、ボクだってキリンをバカにしている。柵の中の世界でしか、キリンは存在していないじゃないか。まぁ、大事なのは広さじゃなく、深さだってことに気づき始めてはいたんだけど、それでもなおキリンをうらやましいとは思えなかった。

 白いベンチに座り、背もたれに腕を広げる。雲一つない青い空が広がっていた。平日の動物園は、人が少ない。視界にいるのは、赤い風船を持った少年くらいだ。ボクはこういう瞬間、優越感に浸る。檻の中で生きていくことを選んだヤツらを指さして笑ってやりたい。ボクはこんなにも自由なんだってね。なんだったら空でも飛んでみせようか? ボクが再びキリンに目を向けると、長い首を伸ばして葉っぱを食べていた。幸せそうにとろんとしている瞳をみていたら、急に眠くなってきたのでベンチに横になる。どうやら気持ちよく眠れそうだ。リラックスした瞬間、女の不機嫌そうな声が頭の上で聴こえた。ボクが目を開くと、つけまつげにマスカラをたっぷりのせた、酒くさい女がそこに立っていた。

 なんですか、と声をかけると、女は手をこめかみに当てて顔を歪める。二日酔いですか? と聞くけど返事はない。手を横に振っているだけだ。ボクは起き上がり、一人分が座れるスペースを空けた。ルブタンのヒールを履いたおぼつかない足取りで、ベンチに体をどかっと降ろした。

 彼女は自分のことをエミリーと名乗った。ハーフの方ですか? と聞くと、エミリー、としか答えない。エミリーは焦点の合っていない瞳でキリンを指さして、ラクダ、といった。ボクがキリンだと教えると、そんなの知ってる、と不機嫌な声を出した。持っていた茶色のバックからタバコを取り出して吸おうとする。ボクは彼女の手首をつかみ、禁煙だよ、と教えると、今度は空を見ながら大げさに笑った。何がおかしいのか考えてみたが、エミリーとはここで初めて会ったばかりだし、彼女はとても酔っている。あまり深く考えることは時間のむだというものだ。

 笑いがおさまったエミリーに不意に質問をされる。もしアンタが動物だったとして、檻の中にいるのと、野生で生きていくのとではどっちがいい? 哲学めいた質問をしてきたからボクはドキっとしてしまったものの、そりゃ野生のほうが、行きたいところへは行けるだろうし、広い荒野を走れるだろうし、退屈はしないだろうね、といってみる。すると彼女は口笛を吹きながら、大きく伸びをした。檻の中にいる動物はそれなりに幸せなのよ、きっと。ボクが彼女の言葉に頷くと、エミリーはニッコリして、アンタも吸う? とタバコを勧められた。手を振って断わり、ここは禁煙だよ、ともう一度教えた。にも関わらず、エミリーの左手にタバコが挟まれたままだったので、今度はもっと大きな声を出してやろうと、息を吸い込むと、エミリーは、キリンが好きなのワタシ、とそっとつぶやいた。ボクが黙っていると、ビールじゃなくてジラフだからね、ジラフ、とエミリーはいったが、ボクはビールのことだなんて、これっぽっちも思ってやしなかった。けれどもなぜか、彼女が思っている、勘違いした男を演じてみたくなって、ああ、そっちね、と結構大げさに叫んで、手を叩きながら足をバタバタさせてしまった。ボクってわりに、相手に合わせてこういうことをやりがちなんだけど、自分でもハッキリとした理由は分かっていない。

 アタシはね、自由になりたいのよ、多分。エミリーはキリンをみつめたまま、そうつぶやいた。隣にボクが座っていたけれど、言葉はボクに対してではなく、彼女の中にあるモノにいい聞かせているのが、なんとなく分かった。唐突に、本当に唐突ではあるんだけど、ボクが置かれている状況を話してあげた。大学を卒業して一年、就職はせず、気の向くままに毎日を過ごしていることや、まだ親から仕送りをしてもらっていること。縛られない生活は、この上なく快適だってことも話した。エミリーは微笑んで、ベンチを立ち、アタシの知ってるバーに行かない? と誘われてしまった。お酒は強いほうではないけれど、もっとエミリーと話してみたくなり、ボクもベンチを立ち上がった。園内の時計に目をやると、閉園三十分前だった。

 エミリー行きつけのバーは、繁華街ではなく、こじんまりとした駅から、歩いて五分の場所にあった。街の雰囲気は、まだ六時だというのに、人の気配を感じない。その雰囲気がボクの背中をゾクっとさせ、胸が破裂しそうになるくらいドキドキさせた。

 ガラスの扉を開けると、中は薄暗く少しひんやりしていた。顔がピアスだらけの女と腕がタトゥーにまみれた男しか客はいなかった。店内は縦長に広く、ボクらは一番奥のテーブル席に座った。

 エミリーはスクリュードライバーを頼み、ボクはソルティードッグを注文した。カクテルには詳しくなかったが、お酒の名に犬が入っているのは面白いと思った。犬の爪でも入ってるのか、と思っているとグラスの飲み口に白い雪みたいな飾りが塗られているだけのカクテルが運ばれてきた。エミリーのグラスに目をやると、スクリュードライバーという大層な名前のわりに、オレンジジュースと外見が違わないカクテルが出てきたから、がっかりするやら、ホッとするやら、ボクは忙しく混乱していた。こういう場所でお酒を飲む人って、どういう人種なんだろう。ボクは少し落ち着くためにカクテルを口に含ませる。しょっぱい、やけにしょっぱい。エミリーは、当たり前でしょう、と笑っていた。ソルティーな犬がボクの頭を駆け回る。

 ところでさ、エミリーは切り出した。ボクはソルティードッグを見ながら相槌を打った。タバコ吸う人? と聞かれ、吸わないけど煙は気にならない人、と答えると彼女はまた笑った。煙をくゆらせながら、スクリュードライバーを飲むエミリーを、ボクはどこか遠くから眺めている気分だった。


 朝の光がボクの脳に突きささる。頭が痛い。生まれて初めての二日酔いに顔を歪めながら、冷蔵庫にあったはずのミネラルウォーターを飲むため、ベッドから這い出る。ネオンのデジタル時計から正午だと教えてもらうと、もう正午か、と独りごちてみる。頭がズキズキと波打っていたので、頭痛薬を試してみることにした。普段は二錠服用しているが、四錠を飲む。一刻も早くこの痛みとサヨナラしたかった。波打つような痛みが嫌で、ボクは酒を飲まない。万が一酒場に行っても大体は、コーラかジンジャーエールで通していたのだが、昨日は、お酒の名前に惹かれ、つい飲んでしまった。あの後、彼女と話したことは憶えているが、内容は記憶から消えて失せていた。動物園で話していたことの延長線上にあるような話題をダラダラと話し、解放された時は日付が変わっていたのを、うっすらと憶えている。終電を逃したので、タクシーを呼び、アパートまでかかった運賃は六千円ほど。働いていないボクにとって、イタすぎる出費となった。


 午後の三時にもなると痛みは消えていき、代わりに動物園に行きたい、という欲求がムラムラと湧き上がってきた。平日の午後四時ともなれば、人はまばらにしかいない。特に目的もなく動物園を歩き回るのは好きだ。だるそうなホッキョクグマを横目で見ながら、サルを通り過ぎ、ゾウがいる柵の前で、ボクは足を止めた。

 ゾウは疲れてしまったのか、寝転がっていた。普段、見ることがないゾウの足裏をまじまじと見つめる。不可思議な模様。ボクはどんどん引き込まれていく。ゾウってわりにカワイイけれど、足裏の模様だけはワケが違っていて、なんというかそれは、グロテスクだった。世の中には規則正しいデザイン、いわゆる黄金比というルールが存在する。そいうのは、誰にでも好感を持たれる優等生や、人あたりのよい美人みたいなもので、広く好かれてしまう。一方でゾウの足裏なんてのは、ぐちゃぐちゃな線が入り乱れて、これをTシャツのロゴにしたら、間違いなく嫌われるだろうっていうニュアンス。分かる人には分かるって感覚? 狭い仲間意識が隠れているような存在の一つに他ならないのが、まさにゾウの足裏なんだ。ゲームでいうところの隠れステージみたいでカッコイイよね。

 ゾウはそれこそ重い足取りで立ち上がると、柵のほうへ近寄ってきた。隣にいた子供の一人が歓声をあげた。ラッパみたいだ。左手に黄色い風船を握っている。そういえば、この少年は昨日もこの辺をうろついていたな、風船の色は赤だったな、と思い返す。小学生以下は無料だから、家さえ近ければ毎日でもゾウに会うことができる。

 少年はゾウに向かって話しかけた。調子はどうだい、好きな本は、欲しいモノは、など次々と質問を投げかけていく。嬉しそうにジャンプして、あまりにもはしゃいでいたので、風船は手から離れ、風に流されていった。ふわりふわりと宙を漂い、遠くにあった木にひっかかってしまった。ボクと少年はその軌道をなんとなく眺めていた。そして、ふいに目が合った。ねえ、あれとってえ、と袖を掴まれたボクは、諦めが肝心だよ、と諭し、近くにあったベンチに少年を座らせた。

 落ち着いた少年は、ぼくは十さい、だと教えてくれた。動物は好きなの? と聞くと黙ってうなずき、動物たちをにがすには、どうしたらいいんですか? と真剣な瞳を向けてきた。どうしてそう思うの? と聞いてみる。 少年は、ぞうさんが、ここから出たいっていつもいってるんだよ、と得意気に答えて、ベンチから立った。ママに怒られちゃうから、もう帰るね。そう言い残し、手を振りながら駆けていった。ボクはその背中を見つめながら、あんなに速く走ることはもう、できないんだ、と思った。


 知らない番号から電話がかかってきたのは二度目だった。電話に出ると、聞いたことがあるような声。エミリーだった。昨日バーで、番号を教えたんだろう。あまり憶えていない。エミリーは、今夜会えないか? と誘ってきた。場所は動物園でもバーでもなくファミレスだった。それならいいよ、とディナーの約束を交わす。ファミレスなら堂々とジュースが注文できる。ありがたいことだ。

 先に到着したボクは、ドリンクバーを注文した。エミリーは仕事の都合上、来られる時間がアバウトだった。ボクは一冊の文庫本を取り出し、何も聴こえないイヤホンを耳に押し込んだ。それでも、小さい子供や、若者たちの笑い声は、さほども変わることなくボクの鼓膜を震わせた。

 エミリーがやってきたのは、ボクが三杯目のメロンソーダをおかわりした時だった。彼女はビールとペペロンチーノ、ボクは店長オススメ、と書かれたカルボナーラを頼んだ。仕事で疲れているのか、眉間にシワが寄っている。エミリーはすぐさまバックからタバコを取り出して、それこそ急いで火をつけた。彼女から大量の煙が吐き出され、霧に包まれたみたいに天井が霞んでいった。ボクも溜息はよくつくけれど、彼女の吐いた煙を目にしていると、ボクもこのくらい空気を吐いているんだな、と自覚することができた。

 エミリーから喋りだすかなと思い、身構えてはいたが、エミリーは何もいわないまま、ひたすら天井に目を向けていた。話しかけない方がいいと思い、文庫本の続きを読む。でも内容なんか、これっぽっちも頭に入ってきやしない。文章を読んでみても、それは砂漠の砂のように、さらさらとこぼれ落ちていった。

 ペペロンチーノとビールがなくなった時、カルボナーラは四分の三ほど残っていた。一口食べては文庫本を十ページ読むことを繰り返していたからだ。エミリーはもう一杯ビールを注文する。さっきまでうるさかった店内も、子供がいなくなると水を打ったように静かになった。アタシ、仕事やめたいんだよね。それは突然だった。思ってもない言葉に、ボクは本を落としてしまう。

 エミリーは迷っている、というよりは背中を押してほしいんじゃないかって、ボクは察した。詳しく聞くと、会社の先輩にはよく思われていない上に、上司からも嫌われてるんだよね、とエミリーは肩をすくめた。会社をやめる原因の六割が人間関係のもつれ、と書かれた記事を目にしたことがある。毎日のように顔を合わせる人に嫌われていては、やめたくなるのも当然だろう。仕事をしていないボクにだってそれくらいのことは分った。でもボクに相談したところで何も変わらない。エミリーは明日も、会社をやめたいと思い続けるだろう。それでも彼女は話すことで、楽になれる。ボクは嬉しかった。ボクを相談相手に選んでくれたことが。

 エミリーが五杯目のビールを頼んだとき、ボクは彼女の生い立ちをすっかり知ることができた。小学生の時、飼育小屋のニワトリが行方不明になったこと。中学で付き合っていた彼が、トラックにひかれて、ぺしゃんこになったこと。高校時代のあだ名がエミリーだったこと。そして母親から虐待を受けていたことも。ビールを飲みながら、背中にはいくつもアザがあるのよ、とエミリーは笑った。静かになったファミレスで彼女の笑い声がひときわ大きく響いた。全然おかしくはなかったんだけど、ボクは笑ってあげた。ツライ過去を話されちゃうと、どうすればいいか迷っちゃうけど、エミリーは暗い顔も、泣きすする声もまったくなく、今日ラッキーなことがあったのよ、って感じで話してくれたから、聞いているボクもそんなに気がめいることはなかった。騒いでいるのがボクらだけだったから、おばさんたちにニラまれちゃったけど、ボクは気にせず手を叩いて笑った。

 明日も仕事だからこの辺で、と彼女は七杯目のビールジョッキを一気に飲みほした。お酒にはめっぽう強いらしく、彼女は来た時と何も変わっちゃいなかった。別れ際に、会社やめるの? と聞くと、もうちょっとだけ檻の中にいる、と薄笑いを浮かべた。

 別れた後、まだ終電までいくらかの時間があったので、駅前にある喫煙所のベンチに座り、夜空を見上げた。涼しい風が頬をなでる。ゴールデンウィークが明け、十日しか経っていなかったが、日中は真夏のような暑さが続いていた。

夏は夜だな、と何百年前に生きた清少納言に共感してみる。都会なのでホタルは飛んでいなかったが、タバコの火がゆらりと動き、それらはまるでホタルの光のようだった。空気が少し苦々しいのを除けば、いとをかし、であることは間違いない。

 右のほうに目を向けると、エミリーに似た女がタバコを吸いながらスマートフォンをいじっていた。女性がタバコを吸う姿は、最近じゃあ珍しくない。なぜ人はタバコを吸うのか? それはボクなりの解釈でいわせてもらえば、人よりもちょっとだけ、心が移ろいやすかったり、もろかったりする人がニコチンを好んでいる傾向がある。ボクの知っている範囲ではたいていそうだ。エミリーはお酒に強いかもしれないけれど、心は驚くほど弱いのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに、終電の時間が迫ってきた。喫煙所の何人かが、慌ててタバコを灰皿に捨てる。ベンチから立ち上がり、ボクも早足で改札に向かう。途中で立ち止まり、雨でも降らないかな、とボクは夜空を見上げた。


 連日続いている、うだるような暑さ。檻の中の動物たちは、うなだれているようにみえた。パンダは木陰で寝転んでいたし、カピバラたちは水に浸かり、頑として動かないぞ、という態度。カバだけは生き生きとしていた。水底をゆっくりと涼しげに歩くその表情に、周囲の子供たちは歓声をあげた。

 甲高い声を尻目に、ボクは隣のキリンに目をやった。水を飲んだり葉を食べたりしているが、暑さにまいっている様子はない。どちらかというとボクの方が、暑さにへばってしまっている。

 キリンがみえる木陰のベンチに座り、しばらくキリンを眺めていた。すると、緑の風船を握った少年が、目の前に現われた。ここいいですか? ボクが脇にどくと、その横にちょこんと座り、両足をバタバタさせた。今日も一人? ママをさそっても、いっしょに来てくれないんだ、と少年は唇を尖らせた。暑くないの? 長袖のTシャツを指さして聞いた。うん、平気、と少年は答えたが、視線だけは、ボクではなくキリンに向けられていた。

 それからボクは、少年としばらく話をした。彼の名前がサトルだということや、動物園の近所に住んでいること、ちなみに、好きな動物はキリンなんだそうだ。キリンを好きなりゆうをおしえてあげようか? ボクは何も答えなかったが、サトルは構わずその先を続ける。とおくをみていられるじゃん、ずっとむこうのほう。五メートル以上の体を持つキリンなら、ボクらがみることのできない場所を眺めていて、ボクらなんかよりも、多くを知っているような気がした。それに、ちかくを気にしなくていいしね、とサトルは続けた。

 ボクは彼の考えていることを理解できなかったが、サトルが長袖をめくり右腕にできた無数のアザを目にしたとき、ばらばらだった破片が、一つのカタチを成していくような気がした。

 ぼくがわるいことをして、できたアザだよ。悪いことって? たとえばね、ごはんをのこしちゃったり、テレビをみすぎちゃったり、おねしょしたりすること。本当にサトルは悪い子なの? そうだよ。だってママはいつもぼくのこと、わるい子ねえ、っていってぶつんだもん。だからね、おうちにはあんまりいたくないんだよね。左腕をめくってもらうと同じような模様が点在していた。とくに背中はびっしりと、ある種の規則性をもって、紫や黒ずんだ色が並んでいた。サトルは、キリンみたいでしょ、と笑ったがボクはそんな気にはなれなかった。

 サトルは両親から虐待を受けているのだ。アザのことを詳しく尋ねてみると、サトルは母親と二人で暮らしていることがわかった。父親とは会ったことがないというので、離婚したのか、死んだかのか。ボクは考えた。この子をどうするべきだろうか。といってもボクにわかるはずもない。サトルは事の重大さに気づいてはいない。ママは少しおこりんぼうなんだ、程度にしか感じていないのかもしれない。

 ――そうじゃない――。

 ボクは頭を左右に振る。ボクはサトルの言葉を想い出す。動物を逃がしたい、といってみたり、キリンになれば近くをみなくてすむ、と笑ってみたり。虐待を受けていることを、サトルは理解している。理解した上で彼は、ママから受けている行為の解釈や対処に苦しんでいるんだ。

 サトルにかける言葉がみつからないまま何気なくキリンに視線を送っていると、どうやら相手もこちらの気配に気づいたらしく、ボクらに向かって紫の舌を出した。サトルは笑っていたけれど、ボクは腹立たしかった。キリンにバカにされたように感じた。高い所からボクらを見下ろし、笑ってるんだ。柵の中にいるキリンの世界は狭い。けれど、死ぬまでこうやって暮らしても構わない、って自信と覚悟が、キリンには備わっているような気がした。それを考えるとなんだか悔しい。頭が混乱してぐちゃぐちゃになった。野球でいえば九回裏ツーアウト満塁で、逆転サヨナラホームランを打たれちゃったみたいな。ひざの上で手を堅く握りしめて、悔しいのと、ムカつくのと、不安なのと、ダルいのと……あとなんだ? とにかく、その辺にあった気持ちが綯い交ぜになって、ボクの中で何かをカタチづくっていった。激しくこみあげてくる。それらを必死にせきとめていた。ひたすら目を閉じて、両手を強く握ることで。

 暗闇にはキリンの舌がぽかんと浮かんでいた。なんだかバカらしい。ボクはベンチから立ち上がり、柵まで駆けよって、キリンのくせに! と叫んでやった。周囲は目を丸くしている者もいれば、ボクを指さして笑っている者もいた。急に恥ずかしくなってベンチに戻ると、サトルの携帯が鳴った。

 ママからだ、といってボクを見上げる。サトルが一向に電話に出なかったので、黒電話のベルは鳴り続けていた。うるさいのは苦手だ。音を止めたいという理由で、ボクは代わりに電話に出た。

 ――サトル? 今どこなの? 動物園? ママねえ、今日は出かけるから、夕飯勝手にたべてね。テーブルの上にカップラーメンをおいといたわ。サトルが好きなカレー味。ねえ、ちょっと聞いてるの? サトル? ――。

 尖った声が耳の中をひっかき回す。少し気だるいその声は、エミリーの声に違いなかった。


 バーに入るとエミリーが手を振っていた。ボクは以前と同じ席に座り、ソルティードッグを注文する。二回目ということもあり、少しだけサマになっている気がした。

 エミリーは、あの子を愛せないの、と寂しそうにこぼした。それこそ今にも泣き出しそうな顔で。ボクはこういうとき、なんて言葉をかけてやればいいのか、まるでわからない。いくら深刻な表情をされても、ボクには聞いてやることしかできない。だから、早々にソルティードッグを一気に飲んで二杯目を頼んだ。こういう話をするときはまともな状態じゃだめだ。頭がゆらゆらと揺れている。これでいい。少しはマシになったというものだ。サトルのアザをみる度に泣けてくるの、とエミリーは涙声で訴えた。ボクは、ふーん、とだけいったけど、エミリーは不機嫌にはならなかった。アルコールがボクらをほどよく酔わせているからだろう。

 父親のことやアタシの背負っている理不尽な苦労を考えると、急に孤独になって、目の前にいるサトルを叩いてしまうの。それはアタシにもわからないし、止められもしない。アタシ、サトルの首に手をかけちゃいそうになるの、といった後、エミリーはウィスキーのロックに口をつけた。

 ボクはとても酔っていた。もうろうとしていた。隣にいたエミリーはなおも話す。ボクのほうはみていない。みているのはグラスの中だけだ。

 サトルの父親はアタシの上司なの、とこぼす横顔が妙におかしくて、ボクは手を叩いて笑った。それってフリン? と聞くと、そうね、と無表情で答えた。

 あの子、みてるとね、昔のアタシみたいなの。必死で親に嫌われないように、捨てられないように、どんなに理不尽でも笑ってるの。そういうのみるとさ、哀しくなって胸が焼けつくように熱くなって、気がつくとあの子を叩いてるわけ。叩くとさらに興奮して、もう一発。ああ、何回あの子を叩いたかしら。後悔はしてるのよ、もちろん。アタシだって産みたくて産んだわけだしね、うん。でもわからなくなってるの。だってアノ人は養育費はくれないし、子育ての大変さだって気遣ってくれない。だから、アタシ寂しかった。そういうのを全部サトルにぶつけてたのね。仕事はできるほうなのよ。問題はさ、人付き合い。アタシってドライっていうか合理的っていうかビジネスライクっていうか、表現はどうでもいいの。とにかくそういう人間ってとくに日本じゃあ厄介者扱いされるじゃない? 少なくともアタシの職場はそう。仕事が終わって、夜どう? 冗談じゃない。こっちは子供がいるんだよ、って叫ぶわけにもいかないから、適当な理由つけてきてさ、断わってたの。でもそのうち、適当な理由もなくなってさ。まぁ、その頃にはアタシを誘うヤツなんていなくなってたんだけどね。動物園のサルと同じよ。あんな小さな檻の中でさえ一番になりたがる。社会は檻だらけよ。大きいか小さいかの違いってだけで。アタシは一度そこから出て、自由になりたい。縛られることなく、鳥みたいに大空を飛び回るの。あたしを遮ぎるモノは何もなくなって、たまに檻の中のヤツをみて笑ってやるの。アンタの手足には鎖が繋がれているんだよ、ってね。サトルを両親に預けて、しばらく旅にでようと思うの。もっと広いところへ。

 エミリーは満足気な顔をして店を出て行った。彼女は終始、一人でしゃべり続けていた。まるでボクなんか存在していないみたいに。でもボクは彼女の話す内容に、熱心に耳を傾けていた。嘘なんかじゃなくマジメな話。エミリーが話し終え、どんな表情を彼女に向け、どんな言葉をかけてやればいいのかなどの雑多な様々を、それこそパンの生地を練るみたく、じっくりと考えてはいたんだけど、浮かんできた言葉は、コンクリートに落ちていく雪みたいに、すぐに溶けていった。

 エミリーは広い世界に憧れている。ボクは広い世界に漂っている。それは海で遭難することに近い。はじめのうちは開放感で満たされてはいるが、やがて孤独に打ちひしがれ、飢えや渇きに喘ぐことになる。檻に帰りたい、と願ったときにはもう遅く、あとは死ぬのを待つしかない。その現実にエミリーは気づいているのだろうか。気づいていたとしても、彼女は檻を出ることを躊躇しないだろう。将来を予測することではなく、現在の状況を変えることが、今のエミリーにとって優先されるからだ。

 現状を変え続けることで、バランスを保つという生き方。世間ではそれを、逃げてる、なんて指をさされちゃうけど、ボクなんかは、今度はプールのインストラクターですか、次は顕微鏡のセールスマンですか、とおもしろがってしまう。だからボクはエミリーに、次は旅人? と聞いた。まずはマドリードからね、とエミリーは笑った。


 五年後、ボクは中学教師になった。科目は社会科。大学で、必ず役立つから、と世話好きの教授にいわれ、仕方なく免許を取っていたのだ。何の役にも立ちそうにないと思っていたモノが、重要なアイテムに変わるなんて驚きだ。ボクは必死で勉強し、エミリーと別れた二年後、教壇に立っていた。生徒たちはそれこそ檻に入れられたサルみたいに無邪気で、不満気で、あの頃のボクみたいに、何かに絶望していた。

 ボクの日常は、それこそシスティマティックだった。平日キリンに会いにいくなんてことは、まずできない。思春期まっさかりの生徒たちが、数百年前の将軍の名前や、ツンドラ気候、オリーブオイルの生産地に興味を持っているとは思えなかったが、ボクはその事実を書き記すため、順調にチョークを減らしていった。放課後には翌日の授業の準備をした。やっと仕事から解放されると、生徒の不満や興味もないテレビドラマのあれこれを、先輩教師から聞かされる決まりきった毎日。この五年間、ルーティーンのようにこれらが繰り返されたおかげで、ボクが自由だった頃の、妙に尖っていた部分はすっかり丸くなっていった。

ボクらはそうやって不必要なモノを削ぎ落としてゆく。余分なモノをどんどん捨ててシンプルになってゆく。檻の中だけの価値観が、やがて新たな人格を形成する。つまり大人ってのは、社会のシステムに便利なように加工された人たちのことで、子供ってのは、加工される前の材料、といったところだろうか。

 それからエミリーはドイツ人と結婚した。手紙に添付された写真には、成長したサトルが笑っていた。来年は中学生になるんだそうだ。夫は大学で数学を研究している。難しすぎて理解はできないけど、アタシは彼を愛してるの。ビスダン(ドイツ語でじゃあね、の意味)。


 ひさしぶりに訪れた動物園は、それほど混雑はしていなかった。朝から雨が降っていたからだろう。園内の動物たちは、ハシビロコウみたいに少しの動きもみせなかった。でもキリンだけは違う。雨がしたたる葉を咀嚼し、同じところをあてどなく歩き回っているのだ。

 社会のシステムに飼い慣らされた動物たちにとって、生きることは与えられること。外の動物たちにとってそれは、自ら生み出すこと。キリンのとろんとした目と、朝の洗面所に映るボクの目は、どこか似ている気がした。システムに慣れきってしまい、惰性的にその場で生きていこうと決意している反面、何かを諦めてしまった気もする。惰性の海に漂っているうちに、無気力の色が瞳に染みついていく。ボクの中のそれを、キリンの奥深くにみたような気がした。

 じっとみられているのが気に障ったのか、キリンは紫の舌をだらん、と垂らしてボクにみせつけた。だらしなく垂れた紫がボクの瞳に、ひどく滑稽に映った。急におかしさがこみあげてくる。ボクは手を叩いて笑ってやった。大きな声で笑ってやった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 会話の部分は「」で囲ってもらえた方が良かったですが、全体には読みやすく、引き込まれる内容でした。 サトルくんが笑えるようになって良かったです。 「キリンのとろんとした目と、朝の洗面所に映るボ…
2016/05/12 14:08 退会済み
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