マルティン
〈アーサー、僕はクッキーを作ることにしたよ〉
アーサーはマルティン・カーキのことを想像する。
三十過ぎ。ヨーロッパの町のどこにでもいる平均的な白人男性だと言っていた。登山とテニスをすると言っていたから日には焼けているんだろう。
彼はハエ男の俳優に似ているのだそうだ。
これはアフリカにはたくさんハエがいるという話からでてきたものだった。
アフリカの一般家庭で、ハエ叩きを使っているのかどうかが気になったらしい。マルティンはそのハエと人間が融合した男を演じた役者に似ているのだそうだ。
そんな男がクッキーを作るのだそうだ。ハエ男の作るクッキー。
クッキーの作り方など知らないが、真面目に作っている姿はきっと笑いを誘うに違いない。
だが、出来たものは甘いだけじゃないのだろう。
彼がなにに対して行動を起こそうとしているのかアーサーは知っている。
ネズミ、とマルティンは呼んでいた。
動物を愛する君には失礼かもしれないが気を悪くしないで欲しいと付け加えて。
十年前よりずっと増えている。
初めて接触した頃のマルティンはそう言った。
〈アーサー、君の行動原理は怒りだと言っていたが、僕はまた違うように感じられる。強い愛情のために動物たちを守ろうとしている反面、恐怖にも動かされているんだと思う。恐怖だ。人間の行動原理は全て死の恐怖から逃れようとすることに起因していると、そう思うことはないかい?それは自分自身以外に対してもだ。例えば、君の場合は野生動物たちを失うことに対しての抵抗だ。自分が寿命を迎える前に多くの命を救わなければというある意味脅迫観念にも近いような、ね〉
〈そうだな。その通りだ。動物たちを奪われることはなにより恐ろしい。当たっているよ。マルティン、君もなんらかの恐怖と戦っているのか?〉
分析したがりは本当は話したがりだったのか。
それでもマルティンの恐怖は十分に理解できるものだった。
〈恐ろしい。本当に。どんどん増えていくネズミが恐ろしいんだアーサー。昔はそんなにいなかった。それでも少し大きな都市に行けばどこにも必ずいた。駅、空港、公園、地下道。あちこちの広場。観光客の集まるような場所。ビルの影にいたのを見たときは化け物かと思って驚いたよ。それでも少なかった。ぽつぽつといった感じだったんだ。だけど今は、うじゃうじゃいる。保護センターか簡易施設のようなものが追いつかないくらいに。ベンチや日陰、ちょっとした段差を見つけては占領している。歩道の端もだ。空き家にも。堂々と居座っているんだよ何人ものネズミが。潰れたアパートに何人もの人影を見たこともある。電気も水道もないところなのに。彼らは増えている。着替えず体を洗うこともせず、ただ一日過ごしているあの体にはどんなバイ菌が潜んでいるのか。恐ろしいんだアーサー。増えたら住む場所が必要になるだろう?居座る場所がパンクしてしまったら?ネズミが徒党を組み、一般家庭の庭や住居に侵入するようになったら?勝手に食料を漁り出したら?誰かが始めたらきっと真似をする者が出てくる。そういう気力がないから彼らはネズミとして生きているのかもしれないが、今は外来種がいて、そいつらは凶暴なんだ。自分の住処でおとなしくしているようなネズミじゃない。遠くから集団で、勝手にやってきてここに居座らせろと主張しているんだよ。住む場所をよこせ食べ物をよこせ。だがコミュニティのルールには従わない。言葉もわからないんだ。外来種はすでに老人や女性を襲っている。 もう社会の崩壊はとっくに始まっているんだ、ネズミのせいで〉
本当にネズミだったら、とマルティンは嘆く。
我々にはネズミにとってのネコのような存在はいない。
誰かがネコ役をしなければならないのだ。
〈最悪なことに、今はメスのネズミを見かけるんだ。子供のネズミも。考えられないよ、昔はいなかった。ありえなかった。もしかしたらいたかもしれないけれど、今みたいに堂々といなかった。もちろん外来が多いけど、そうじゃないのだっている。メスがいれば絶対に繁殖するに決まっている!そうなったら、十年前から少子化が問題になっているのにネズミは繁殖し放題だ。まともな生活をしている誰かが面倒を見始めるから出て行こうとしないんだよ!そうしたら今後どうなるんだ恐怖でしかないよ僕が年金をもらう頃にはネズミの方が多いかもしれない選挙権が与えられているかしれないし僕たちが追いやられているかもしれないんだ。あんな暮らし、ネズミのような路上生活なんかしてれば未知の病原 菌やウイルスを持っているに決まっている。それが突然変異して爆発的な繁殖をするかもしれない。ネズミには大した影響を与えなくても僕たちが感染したら症状が重くなる可能性だってある。本当に恐怖でしかないよ。生まれ育った町が乗っ取られつつあるのを黙ってみているなんて馬鹿げている!なぜ、勝手に産んで勝手に増え、そして勝手に住処を失ったわけのわからないものの面倒を見なくちゃならないんだ。そんなことのために税金を納めていたかと思うと本当にバカバカしいよ。国境に壁を作るなら喜んで賛成するというのに、これ以上ネズミを増やしてどうするんだ?なぜ誰も駆除しないんだろう?このままじゃ国がなくなってしまうというのに!〉
わかっているともマルティン。その恐怖は最もだ。
どこもかしこも、君の言うネズミだらけだ。そのネズミを養うため他の命が搾取され続けている。
俺の恐怖はそこだが、君の恐怖は自分が育ってきたコミュニティを奪われることだ。言わばなわばり争いだろう。
そして、その争いに投じられるのがクッキーというわけか。
味を誤魔化すために砂糖をバカみたいに放り込んだら甘い匂いで胸がムカムカしたとマルティンは言った。
そして実家のドブネズミに試食させたとも。
〈真っ先に手をつけていたよ。なんでも食べたがるし我慢できないんだ。冷蔵庫に鍵をかける始末だよ。自分の体が重くて足を引きずって歩いているのに食べて寝てテレビを見るの繰り返しなんだ。とにかく動かないんだよ。仕事なんて四十年はしていない。テレビが付かないリモコンを持って来いクーラーをつけろ食べ物はないのか薬を探せ飲み物を冷やしておけ病院へ連れていけ庭の草をなんとかしろ。母と祖母はいつもこいつに使われていたよ。僕が自分でやれというと後で孫が自分を嫌っていると愚痴っているんだ。薬やお菓子のゴミは床に置きっぱなし、食事の最中に口を押さえず咳をし窓から花壇に向かって痰を吐く。昼間から寝てばかりのくせに体が痛い眠れないと訴え、睡眠薬を飲んでいる。僕がリッキーを、飼い犬なんだが病院に連れて行ったら怒鳴ったんだよ。畜生に金をかけて病院だと、そんなもの捨ててやると。どうやったらあいつを好きになるというんだ。本当になにもしないんだ。なにもしない。働かないオスが長生きすることほど迷惑なものはないよ〉
〈自然界に習えば、そういうことになるな。それで、試食の成果はどうだった?出来栄えはうまくいったのか?〉
〈上出来だったよアーサー。見た目もすごくおいしそうなんだ。僕にはお菓子作りの才能があったのかも〉
なにかをするにはまず、一度テストを行ってから。
それがマルティンの身についた性格であり、物事を失敗しないための手段だった。
どこかに行くには必ず下見はするし、予約の一時間前には行動する。
だからクッキーも大量に作る前に一度試すのはマルティンにとっては普通のことだった。
アーサーとのやりとりを全て削除するのも。迷惑をかけるわけには行かない。彼の戦いはまだまだ終わらないのだから。
もしかしたら終わりなんてないのかも知れないけれど。
マルティンは終わらせたかった。
目に見える形で。
成果を実感したかった。
溢れ行くネズミのほんの数パーセントにしか効果がなくても、誰もがネズミを歓迎しているわけじゃないと、とにかく知らしめたかった。
祖母と母は、旅行に行っている。マルティンのプレゼントだ。戻るのは三日後。
祖父はもう丸二日ベッドから起き上がっていない。昨日見たときは口の辺りに泡をたくさんくっつけ、胸元を握り締めていた。
救急車、という声を聞いたかもしれないが祖父がげほげほうるさかったからラジオの音量を上げていたため、気のせいかもしれない。
普段からうるさく咳をするから、逆に家が静かだと疑われなければいいけど。
期限切れのクッキーのように固くなった祖父があまりにも醜い顔をしていたので、マルティンは花柄の可愛いタオルケットをかけてやった。
殺鼠剤というものはちゃんと作用するもんなんだなと、関心しながら。
テストはこうして終了した。
今は小袋に丁寧に詰められたクッキーが出来上がっている。
まずは子ネズミに。それからメスや老いたものに。きっと腹が減っているからたくさん食べるだろう。あちこちに配ろう。
登録したらもらえるボランティア団体の名札を下げ、マルティンは外に出た。いい天気だった。心地のいい日差しだ。
ネズミたちもたくさん外に出ているだろう。
本物のネズミやリスが間違って食ったりしないかと、マルティンはそんなことを心配していた。




