シノブ①
会場の外が大騒ぎになっている音が聞こえた。
一体何人逃げられただろうか。
一体なぜこんなことになってしまったのか。
さっきまで普通にライブをしていた、なのに今のこの状態は一体なんなのだろうか。
風が入り込んできた。水も。サイレンが鳴り響いている。わけのわからない呻き声がずっとしている。ずっと。
シノブはステージの裏に向かっていた。スタッフたちがどうなったか確認にいかなければと足を動かしていた。
煙のせいで視界も呼吸もままならなかったが足は動き続けていた。
鉄の棒を引きずりながらシノブは歩いていた。持っていないと不安だった。
何が、は説明出来なかったが不安がまとわりついていた。
音哉は死んだ。
確実に。
煙に囲まれながらも見たその顔は、真っ赤で、落ち窪んでいた。
目も鼻も口も全部が内側にめり込んでいた。顔がないといってもいい状態だった。
音哉がぴくりとも動かなくなってもシノブは叩いたのだ。息を吹き返すようなことがあってはならないように、夢中だった。
何度叩いたかわからないくらい手を振り下ろした。
殺さなくてはならない、こいつはファンに火をつけた!俺も燃やそうとした!
シノブは音哉に火をつけた。音哉がさっきまで手にしていたのと同じライターで。
柵の近くに落ちていたのだ。
持ち込んだやつがいたんだろう、常にグッズを身につけていたいような心境のファンの持ち物。多分。
シノブはそう思いたかった。音哉の差し金だとは思いたくなかった。
音哉。
頭のおかしいボーカルが会場に火をつけ、自身も焼身自殺を図った。
それで間違いはない。
自分はなにもしていない自分はなにもしていない、殺人鬼は死んだ絶対にあれだけやったんだ死んでいるに決まっている。
だがシノブは、視界を覆う煙にまぎれている誰か、人の気配を感じていた。
出口がわからず会場内を迷っている客かもしれない。
それかただの気のせい。
しかしなにかの生き物の息づかいがはっきりと後ろに迫っているのが、どうしても気のせいには思えなかった。
ついてきている。
足音も聞こえてきた、はっきりと。近付いている。
俺が誰なのかわかって近付いてきている、シノブはそう思った。後をつけていると。
立ち止まり耳を澄ましていると呼ばれた。
シノブ、と。
シノブには顔を叩き潰されたまま歩いている音哉が見えた。
自分に向かって手が伸びてきた。
だからそこに向かって声がした方に、見えた人影に向かって思い切り鉄の棒を振るった。
手ごたえは十分あった。
生き生きとした肉に食い込んだのがよくわかった。
…………おかしい。
音哉の顔はないはずなのに。ちゃんとした顔のある顔面を叩いたように感じた。
シノブは倒れこんだ相手に近付き、顔を確認した。煙のせいでまともに目を開けていられなかったが、視界には刺青だらけの腕がはっきりと見えた。
ケイが、倒れていた。
顔から血を流していた。
あとなんだかへこんでいるようにも見える。顔が。
シノブの手から棒が落ちた。
今度こそ本当に気のせいでもなんでもなく。
シノブには音哉の笑い声が、聞こえていた。
ステージ裏に回り、もはや生存者などいなければいいと思い始めていたシノブが見たものは、口に泡や血をくっつけて倒れているスタッフたちだった。
その周りには頭や体から血を流して倒れている者。
のちに自ら毒を飲んだ者と飲まされた者、抵抗して殴られたり刺されたりした者がいたと判明したが、今のシノブには殺人なのか集団自殺なのかわからなかった。
会場に細工できるのは関係者だし、スタッフの中には音哉を異様に贔屓している者が何人もいたことを知っている。
だからシノブは、なにを信用したらいいのか急にわからなくなった。
自分自身でさえも。
心配でここにきた気持ちは消え失せ、会場裏から出ることで頭がいっぱいになった。
ステージの裏、そこからの通路に火の手は全くなかった。楽屋や外に出るための通路。
会場の惨状だけが響き渡る通路をシノブは足早に進んでいた。いつのまにか呼吸は楽になり、煙からも逃れることができていた。
まるで別世界を進んでいるようだった。
長い通路の先。出入り口であるガラスの扉が見える。
関係者以外立ち入り禁止の文字がついた、数時間前は何も知らずみんなで通った扉。
昔の曲を口ずさみながらここに入ったことを唐突に思い出し、シノブは泣いた。
涙がこぼれた。
もう今は、昔みたいに誰もいない。
たった今なにもかも失ったのだ。自分の手で。
しかもそれがバレることを一番に恐れている。
どこかに放り投げてしまった鉄棒の指紋のことが気になって仕方なかった。
なにも知らない被害者になりきりたい、自分の人生を潰したくなくてシノブはなんでもする気になっていた。
涙をぬぐってから、扉に手をかけようとした瞬間。
後ろにものすごい勢いで引っ張られた。服が体に食い込むのがわかった。シノブは簡単に後ろにひっくり返った。
直後視界を覆ったのはなにか、一塊の長くて密集したたくさんの線。
髪の毛だと理解する頃には、それの持ち主が体に乗り上げていた。
「人殺しひとごろおしひとぉおおごろおおおおしぃぃいいいいいいいいいい」
とっさに庇った顔面めがけて、いや目を狙ってだろうか。
女は手を振り乱しシノブに攻撃しようと必死だった。爪が皮膚をひっかきえぐり休むことなく傷を負わせてきた。
一瞬手の動きが鈍る。薄めで見たシノブの視界に入ったのは大口を開けた女の姿。
血があちこちにつき服もなにかわからないもので汚した浮浪者のような女が噛み付こうとしているのはあきらかだった。
口の端に泡がついているのが見えた。
とたんにシノブは不浄なモノが体につくということに、原始的なおぞましさと不快感に対する憤りと怒りを感じ。
跳ね返すために体が勝手に動いた。
自分めがけて降りてきた女の顔に渾身の頭突きを。
額に歯が当たった痛み、女の胸を腕でなぎ払った感触、苦痛を訴える女の腹の底からの声。
全てが一度にシノブを駆け巡った。
再び掴みかかって来ようとした女を思い切り蹴り飛ばしたときは、頭の中が少し落ちついてきていた。
だが自分は突然のことに錯乱していると、そう自分に言い聞かせ女を蹴り続けた。
女が動かなくなる前にちづるだと気がついたが、どうでも良かった。
音哉の信者なんてシノブには一人もいらなかった。
生き残った者は被害者でしかない。例えなにが行われていたとしても。
動かないちづるを念のため再度踏みつけてからシノブはそこから離れた。
なにも知らなかった(これについては本当だ)悲劇の生存者は会場から出ることに成功した。
しばらくして裏の出入り口まで煙に覆われてしまった。もうなにも見えない。何一つ。
ちづるの形をした人影が少し動いたような気もしたが、駆けつけた消防員には言わなかった。
誰とも、すれ違わなかったと、そう言った。




